2023-12-10のセッションより
『文明敎』を作りたい話から『棘の付いた杖』の話に至る迄の話。
苦痛の普遍性に就ての話。
『文明敎』は私の個人的な經驗の中から見出だされた漠然とした生存の指針を精製して得ようとしてゐる物である。
普遍性が足りない。
十分な普遍化の檢討を「未だ」經てゐないので、衆人に御出しする事は未だ出來ない。
指導者:其れは人に出さない方が良い。
バスと自轉車の喩へ。
自分が乘る事の出來る自轉車を作る事が出來た。
移動の苦痛が普遍的なら、此の自轉車を人に勸める事が出來る。
或いは將來的には大勢が乘る事が出來るバスを發明出來るかも知れない。
指導者:其のバスは、シートに棘が付いてゐたり乘る人を徒に苦しめる仕組みに成ってゐるかも知れない。
指導者:優れた乘り物を已に利用してゐる人に勸めて良い物ではない。
確かに作った自轉車にそもそも未だサドルの槪念が無いかも知れない。坐らうとすると尻が痛む。
でもサドルが發明された時に其の採用を確信的に阻む樣な理念を敎義とする積りは無い。
其れに、誰かが疾っくに上等のシートを備へたバスを發明して多くの人が利用してゐると云ふのなら、
一體誰が私を其のバスに乘せて吳れると言ふのか?
未だ嘗て誰も、苦しむ私をバスに乘せては吳れなかったではないか。
指導者:あなたの目の前に豪奢な椅子を備へた輿が來てゐて、どうぞ御乘り下さいと言はれてゐる。
指導者:あなたが拒んでゐる。
私が普遍性を求めて文明敎を精製すると、
私が思ってゐる事が寧ろ異端として立ち現れて來る。
すなはち、文明敎に於て、文明の終極の目標は一切の苦痛を取り除く事であり、
どんな手法であれ、苦痛を取り除く事が出來てゐるなら、其れは喜ばしい事であるはずである。
すなはち、
誰かが、『叶ふ事の無い願ひ』を願って結果叶はぬ事に苦しんでゐたとして、
幾年か後の其の人が「そんな事願ってたっけ。忘れちゃった。今は苦しくないよ。」と言った時、
普遍性を求めた結果としての文明敎は、其の結果を良き物と看做す筈である。
苦痛は癒された。『叶ふ事の無い願ひ』を願ふ事を已め、苦痛を免れたのだから。
しかし、
橘榛名が、『叶ふ事の無い願ひ』を願って結果叶はぬ事に苦しんでゐたとして、
幾年か後の橘榛名が「そんな事願ってたっけ。忘れちゃった。今は苦しくないよ。」と言ったとすると、
現在の橘榛名は決して決して決して其の事を赦す事は出來ないだらうと云ふ直觀がある。
つまり、此れはやっとこさ拵へた文明敎に對する異端である。
或る時の私に取って切實であって、結果私を苦しめる樣な事柄があった場合に、
其の切實だった事を乘り越えたり克服したり或いは其れは本當は切實でないと明に證ししたり出來たのならともかく、
ぼんやりと忘れて了って、結果其の苦痛を免れたのだとしたら、現在の橘榛名は決して其の事を赦せないだらう。
『叶ふ事の無い願ひ』と其の齎す苦痛に就て。
願ひは或る時には苦痛に滿ちた泥濘の中から立ち上がる爲の杖として働いたが、
其れは豫め叶はない事が定められた願ひであり、
詰り、『棘の付いた杖』である。
其れに縋る事で辛うじて立つ事が出來るが、縋る程に棘が身體を刺し苛む。
棘の齎す痛みに苦しむ。
しかし、杖を離して了へば、立ってはゐられない。
必ずや再び苦痛の泥濘の中に倒れ伏す事に成る。
此の『棘の付いた杖』を、しかし愛さなくては成らないかも知れない。