心の保險屋さん、或いは心の地震學者に就て
2024-01-21のセッションより。
「不慮の出來事」と云ふのは文字通り考慮してない時に考慮してない事が起こるのである。
計劃的に日々を生きて行かうと思ふと、色々の事を豫想して置く事で「不慮でない事」を増やして行く必要があるが、此處にはフレーム問題が生じるので妥當な豫想を盡くして置くのは迚も難しい。(妥當な事丈考へようとすると、豫想した所で不慮の範圍が削れないし(=當り前の事しか豫想してない狀態)、稀な現象を擧げ過ぎると切りが無く成って豫想も盡くせない。)
なので思考の階層を一つ上げて、「不慮の出來事が起きて其れに心が囚はれて了ふ樣な事が起きた時、どの程度であれば妥當な損害として許容出來るか」豫想して置く事をして置く。
災害が起きて自分の家が潰れたとか、家族が死んだとか云ふ事が起こったら、其の人は身も世も無く悲しむ事には成るだらうものの、其れは其れとして、保險會社は樣々な不幸に就て其れがどの程度の頻度で起こるか、どの程度の保險金を拂ふか、どの程度の保險料を取るかに就て計算して置かなくては成らない。
最初の豫想は、1年に1度程度の頻度で起こる心的災害時にどの程度其の事に囚はれ得るかの概算から始めた。
1年に1度程度の心的災害とは、業務上發生したとんでもなく腹立たしかった出來事を幾つか想定して計算した。
50時閒程度が豫想せられた。
5時閒(業務中のほぼ半日)仕事が手に付かない樣な怒りや悲しみや憎しみが心裡を埋め盡くす樣な事が10日と考へた。(或いは2時閒が1月弱とか)
此れを元に線形に擴張した計算が案外巧く行った。
すなはち……
1日1度程度の心的災害→10分程度
1週1度程度の心的災害→1時閒程度
1月1度程度の心的災害→5時閒程度
の囚はれ被害は妥當な範圍として豫想して置き、成るべく被害が其の範圍を越えない樣に外部コンサルトを手配したりして置かうと云ふ事である。(或いは其れを越える被害が不可避なら、災害としてのクラスを再檢討する必要があるかも知れないと云ふ事である。)
1日1度程度の心的災害とは、例へば朝起きて定刻に出勤する事等である。
1週1度程度の心的災害とは、例へばSNS上で可也腹立つコメントを見て了ふ事等である。
1月1度程度の心的災害とは、例へば患者關係のトラブルに卷き込まれる事等である。
1年1度程度の心的災害とは、例へば職場などの人閒關係トラブルの當事者に成る事等である。
10年1度程度の心的災害とは、人生の方針に就て再考を迫られる事等である。
「私自身」が、將來起こる色々の不幸に就て「覺悟」を完了して置く事は屹度出來ないだらうものの、其れでも人生は續くので、少なくとも心の中の保險屋さんには豫想を立てて置いて貰ふ必要がある。そして、親の死レベルの恐ろしい心的災害でさへ、何と人生に2囘は發生する事がほぼ確實なのである。