デュラララと2010年代
ここ最近はあまり文章が書けていなかった。
と、大体数ヶ月に一回は言っている気がする。それでもこのような書き出しにするのは、何も書くことがなくても、とりあえず書き始めてみることで、指がどこかに転がっていくことを期待してのことだ。7月にライフスタイルがそれなりに大きく変わってからと言うもの、仕事量を減らして活動していた。1日に6時間労働、それを週に4日、水、土、日は休みの生活。このくらいの労働量は自分にとって凄くちょうど良くて、そんな話はここ最近何度も書いていることではあるのだけど。ともかく3連勤がないと言うのは素晴らしい。
そんな日常を送りつつも、なんやかんやと言って予定が入ってきてしまって思うように過ごせないような日もそこそこある。昨日一昨日などもそうだった。日曜日の午後から軽音サークルのスタジオ練習があったので、それに向けて練習をしたいが、なかなか重い腰が上がらない。
そしてこう言う時は大体アニメ視聴が捗る。今回はデュラララなどを一気見してみたが、とても面白かった。2010年代は自分の思春期とバッチリ重なっているので、本当は中高生の頃に見ているものなのかもしれないが、意外と自分はその辺を通ってこなかった。もちろん見ていないわけでもなかったが、いわゆるアニオタかと言われると全くそんなことはなく、2025年の今になってボカロ・ラノベ系アニメの黄金世代と振り返られる時期の作品を履修している。この辺が時代と周回遅れなのは自分の天邪鬼的性質も相まってなのか、なんなのか。
その時代に人気を博したものというのは、その時代の何かしらを象徴しているというのはよく言われる。デュラララだとかあそこら辺の作品を見ていると、2010年代の空気が感じられて面白い。あの時代に感じられるのは、バブル崩壊やリーマンショックから、世界に絶望しつつ、それでも生きていかなければいけない状況の果てに処世術として身につけたシニカル・アイロニカルな態度。その裏側で、インターネットという新しい技術が誕生して、それは無限の可能性を秘めていて、人間のコミュニケーションを拡張し、どこか新しいところに連れて行ってくれるような、そんな希望。自分もこの時代に青春時代を送った人間として、どこかそう言った心を持ち合わせているように感じる。
2025年の今、そのインターネットという一縷の希望もなかなか絶望的な状況になっているように思う。コミュニケーションの拡張を期待されたその技術はむしろ人間を特定の『泡』に閉じ込めるために使われ、その内側では偏った言説が無限に反響される。かと言ってバブル崩壊以降の失われた30年はもうすぐ40年になろうとしている。それでもなんやかんやと耐えている日本の横ばい力には目を見張るものがあるが、いずれにしてもそう明るい時代とも思えない。
そんなことを言いつつも自分はそれなりに楽しく生きてはいるのだけど。それはセカイ系のような厨二病的物語を降りて、ゆるキャン的な生き方に切り替えたからなのかもしれないし、まあなんやかんやと恋人もいたりして、身の回り生活も安定しているというのもあるのだと思う。ただそうであるが故に、今の状況から転落する不安もあれば、「(一応)何者かにならなければ」「社会に対して何かしなければ」みたいな気持ちもなくはない。
そんなことを言いながらインターネットの隅っこにこんな駄文を垂れ流している毎日だけど、まあ今日も今日とて楽しく生きていこうと思う。デュラララの空気感にアテられてそんなことを書いてしまった9月始めの午前。