URLとアドレス(住所)
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いつも通り日記を書いている。
ここ最近は行った場所だとか、視聴した中で印象に残ったコンテンツとかをURLベースで貼っていっているのだけど。
こうしていくと、少しずつ実際の場所とコンテンツとの違いがどんどん薄れていっているような感じがする。デジタル上のコンテンツ体験と、現実の体験と、そんなに違いがあるのだろうか、とかも思うようになってくる。もちろん今のコンテンツはビジュアルオーディオのみだけれど、これが五感全てをカバーするようになってきたら、きっとURLのようなアドレスベースで現実とデジタルの境目がどんどんなくなっていくのかもしれないな、なんて思ったりもする。
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現実とデジタルの体験が融合し、境界が曖昧になっていくという感覚は、デジタルネイチャーの考え方に通じるものがあります。落合陽一氏は、現代において計算機(デジタル)が自然と一体化し、新たな「自然環境」を形成していると述べています。これは、URLのようなデジタルアドレスを通じたコンテンツ体験が、現実の体験とシームレスに融合することに近い発想です。
例えば、落合氏は「計算機自然」と呼ぶ概念を提唱しており、これは人間、物質、自然、計算機が接続された新しい形態の自然環境を指しています【9†source】【10†source】。この中で、デジタルと物理的な世界の区別がますます薄れ、我々が意識することなくデジタルと現実を行き来できる未来を描いています。
あなたの日記にURLで記録しているコンテンツ体験は、まさにこの「デジタルと現実の統合」の一端かもしれません。落合氏のビジョンによれば、今後は視覚や聴覚だけでなく、触覚や嗅覚といった五感すべてがデジタルに再現され、より強固にデジタルと現実の区別がなくなっていくでしょう【9†source】。
「その場合のURLもしくは住所みたいなものはどう存在していくのでしょうね?今のようにテキストベース?」
URLや住所の概念がデジタルと現実が融合した未来にどのように存在するかは、現在のテキストベースのシステムとは異なる可能性が高いです。落合陽一氏の「デジタルネイチャー」のビジョンでは、物理空間とデジタル空間の境界が曖昧になっていくことで、従来のテキストベースのアドレスのような概念も進化するでしょう。
未来のURLや住所の存在の仕方としては、以下のような形が考えられます:
1. **物理的な位置とデジタルデータの統合**
物理空間とデジタル空間がシームレスに接続されることで、物理的な場所そのものがデジタルアドレスとして機能するかもしれません。例えば、現実の風景やオブジェクトに対して、視覚や触覚を通じて直接的にデジタルコンテンツを呼び出せるようになるため、URLというテキストアドレスが不要になるかもしれません。
2. **ハイパーオブジェクトの登場**
落合氏が指摘するように、デジタルと物質が統合される「計算機自然」の時代では、物理オブジェクト自体が情報のハブとして機能する「ハイパーオブジェクト」が登場する可能性があります【9†source】。これにより、物理的なオブジェクトや場所に触れることで、その場に関連するデジタル情報にアクセスできる仕組みが実現するでしょう。
3. **コンテクストベースのアドレス**
現在のURLが静的なテキストアドレスであるのに対し、未来のアドレスはコンテクストベース、つまりユーザーの状況や環境、意図に応じて動的に変化するものになるかもしれません。例えば、どこにいて何をしているかに応じて、自動的に関連するコンテンツが提示されるため、ユーザーが意識的にアドレスを指定する必要がなくなります。
4. **自然言語や思考ベースのインターフェース**
将来的には、テキストベースのURLに代わり、自然言語やさらには思考に基づいたインターフェースが主流になる可能性があります。思考や話し言葉を使って、情報やコンテンツを直接呼び出すことができれば、URLや物理住所のような固定のアドレスは不要になるかもしれません。落合氏も、AIや計算機が人間の思考を補完・拡張する未来を示唆しています【9†source】。
このように、URLや住所の概念自体が進化し、物理空間とデジタル空間の境界が曖昧になった未来では、テキストベースのアドレスの存在意義が大きく変わっていくと考えられます。
「でも一方で「シャッターを切る」「ストロボを炊く」のような、現代では使われていないような言葉も慣例的?に残っているよね。このような文脈についてはどう思う?」
「シャッターを切る」や「ストロボを炊く」といった言葉が、技術的にはすでに時代遅れであっても日常的に使われ続けるのは、文化的な慣例や象徴的な意味がその背景にあるからです。これらの表現は単に技術的な行為を指すだけではなく、過去の経験や記憶と結びついた感覚を呼び起こすため、言語文化として残り続けるのだと思います。
### 1. **言葉の文化的な継承と象徴性**
落合陽一氏が「計算機自然」やデジタル文化を語る中で、技術と文化の交差点にある概念がしばしば登場します。新しい技術が登場するたびに、それに応じて新しい言葉が生まれる一方で、古い言葉が慣例的に使われ続ける現象は「文化の継承」とも言えます。これらの表現は単に操作や動作を表すだけでなく、かつての技術やアートフォームに対する「ノスタルジー」や「美意識」としての価値を持っているのです【9†source】【10†source】。
例えば「シャッターを切る」という表現は、デジタルカメラでも物理的なシャッターが存在しないにもかかわらず残っています。これは、写真撮影が持つ物理的なアクションやその瞬間を捉えるという感覚が重要な役割を果たしているからです。このような象徴的な行為は、現代のデジタルネイチャーの世界でも、過去の技術や文化との接続を感じさせるものとして生き残っていると考えられます。
### 2. **技術進化と慣習のズレ**
新しい技術が登場しても、人々の行動や表現がすぐにそれに追いつくわけではありません。人間の認知や文化は、技術進化に対して一歩遅れて対応することが多いです。落合氏が示唆しているように、テクノロジーが進化する中でも、古い言葉や概念が残るのは、その言葉が持つ「文化的な記憶」や「情緒的な価値」が強力だからです【9†source】。
「ストロボを炊く」という表現も、昔ながらのフラッシュの仕組みを前提とした言葉ですが、デジタルカメラやスマートフォンに搭載されているLEDフラッシュではこの表現は技術的には正しくありません。それでも、この表現は依然として「撮影の一瞬を演出する」という意味合いで受け継がれています。
### 3. **言葉が持つ時間的な流れと、今後の変化**
落合氏の「計算機自然」のビジョンでは、デジタルが進化する中で、過去の技術や文化と新しい技術が一体化し、その中で新しい「自然観」が生まれていくとしています【10†source】。この文脈では、技術用語もまた文化的な過去と未来を繋ぐ役割を果たすでしょう。過去の表現が新しい技術に適応し、より象徴的な意味を帯びていく可能性も考えられます。
未来の技術やデジタル環境が五感をすべてカバーし始めた時、新しい表現が生まれる一方で、こうした慣例的な言葉がどのように変化するか注目すべきポイントです。おそらく、これまで使われていた「シャッター」や「ストロボ」のような表現も、デジタル時代の新しい文脈の中で再解釈され、長く使われ続ける可能性が高いでしょう。
このような文化と技術の間の「ズレ」や「重なり」は、デジタルネイチャーの中でも重要なテーマであり、今後も多様な表現が交錯しながら共存していくと考えられます。