2025/07/04
昨日は三体の話に準えて食料問題について考えてみたりしたわけだけど。 自分の関心事はやっぱり食料問題で、それを解決するアプローチを考えていくときの思考ツールとして使ってしまいがちなんだよなあと思う。でも実際、フィクションというのは様々な示唆を与えてくれる。特にSFなんてのはそうで、三体のようなハードSFはもちろん、人形使いのような作品は未知と遭遇したときにどのような考え方でもって対処するかということが想像力の限り描かれているし、最近の時事問題で行ってもハーモニーや、華氏451度のような作品はとうに予想している話だ。 この両者を比較したとき、明らかに章北海の方が切羽詰まってはいたのだろう。だから苦肉の策としての逃亡主義に走ったのは仕方ないと考える。これを保存食的発想と考えるとすると、ウェイドの側はフードテック的発想なのだと思う。前者は今持てるリソースを未来に向かって放り投げるような感覚で、後者は現状をブレイクスルーによって打破していく、そんなような発想だ。自分は3システムで考えるのが癖なので、第3の選択肢として庭の話的、或いは福岡正伸的、或いは真木的発想を持ち出したくなってしまうけど、まあそれはそれとして。 この両者を比べるとき、保存食側の文脈については別の場所で考えているから良いとして、ウェイドの側に関してこそ、自分はよく考えなければいけないということだ。食料問題の例で言うならば、たとえば緑の革命が起きなければ、人類は飢餓を克服し、現在のような発展を遂げることはできなかった。これは人類が飢餓の危機に直面したときに、なんとか突破口を見つけようとあがいた結果成し得たブレイクスルーだ。 https://youtu.be/Dx58MieYRdY?si=Z-O3F5hrdMJFRpEV
この話で言うところの『白哲学』が力を持ちすぎると(現代社会の話で言うなら先の人新世の資本論的なものを一旦例に挙げるのが良いだろう)、テクノロジー的なアプローチによって問題を突破しようとする試みが潰されかねない社会となっていく。この辺はチ。を参照したって良いのだけど、まあそれはまさにウェイドが経緯はともあれ、最終的に計画が頓挫し処刑されたと言うことが象徴しているのではないかと思う。もちろん人類全体としてこのバランスを見誤れば大峡谷時代になってしまうわけではあるのだけども、とはいえそういった芽を、自分的な言葉で言うと社会のレジリエンスを減少させるようなことがあまり良いとはいえない気がする、と言うのが自分の考え方ではある。 働きアリの法則が僕は好きだ。これはアリの集団(巣)では、全体の約2割がよく働き、6割が普通に働き、残り2割はほとんど働かないという行動パターンが自然に現れる、という法則で。仮にこの中から、ほとんど働かない2割のアリだけを抽出したとしても、また同じような割合に落ち着いていく、と言うものだ。 これについては「組織には『ある程度の非効率や冗長性』が自然発生する」だとか、「すべての個体が常に100%働くのはむしろ異常・不安定」だとか、「『働かない者を排除する』と、組織の柔軟性や持続性が失われるリスクがある」だとか言われるわけだけど(つまりニートも冗長性として必要だと言う話)、そもそもニートはなんで存在しうるかと考えたときに、人類全体にKPI的なものが課せられているからこそ存在するのかもしれない。これは特に近代以降の社会では顕著だろう。そういったことを考えたときに、「ニートはKPI(目標)が設定されてるからニートと『名付けられているだけ』で、それはウェイドみたいな非常にクリエイティブな人間」なのかもしれない。この辺はパトロンがついていた中世の画家なんかを引用して考えてみても良いかもしれないね。
働きアリの法則は単なる『冗長性』として考えられがちだけど、もう少しポジティブに『新しい芽』『レジリエンス』の側に括られるのではないか?という問い、実際にウェイドは『レジリエンス』の側だったよね、と言う話。今で言うとスペースXを開発しているイーロンマスクなんかが近いのかもしれないね。或いはクローン計画によって人口減少を補おうとか言う岡田斗司夫的発想もまたそうなのかもしれない。最後に改めて。