メタファーとしての防腐剤
https://www.notion.so/2721f1ea242f8061a653d95212eb4725?v=1d81f1ea242f80eb93f6000caeec683a&source=copy_link
メタファーとしての
これまでの会話とソースを踏まえ、「デジタル空間における時間の破壊」という文脈から、「資源は保存されるべきだが、人間は保存されるべきではない」という考えを「防腐剤」のメタファーを用いて考察してみましょう。
ソースでは、デジタル空間における時間のあり方について、「すべてが『また見られる』場所にあるにもかかわらず、私たちは自分の過去に触れることができない」という逆説的な状態が指摘されています。そこにある記憶は「t軸を持たないまま沈殿し、発酵もせずに硬直していく」、「静かな腐敗」 であると表現されています。これは、「匂いもしない。音も立てない」、「あまりにも静かで、あまりにも快適な、時間の破壊」 に繋がります。
この「時間の破壊」 を「デジタル上の『防腐剤』」のメタファーで捉え直すと、デジタル空間は、情報やデータといった「資源」に対して極めて強力な防腐剤として機能していると言えます。情報は劣化せず、いつでも同じ状態でアクセス可能(「また見られる」) です。これは、物理的な資源が時間と共に劣化したり失われたりするのとは対照的です。デジタル空間は、これらの資源を時間の影響から隔離し、静的に「保存」する場所となります。
しかし、この「デジタル上の防腐剤」の作用が、単なる情報やデータだけでなく、人間の経験や記憶といった内的な時間にも及ぶときに問題が生じると考えられます。ソースで述べられている「t軸を持たないまま記憶が沈殿し、発酵もせずに硬直していく」 という状態は、まさに人間の内的な時間がデジタル空間の「防腐剤」によって固定化され、生きたプロセス(「発酵」) を失ってしまった様子を示唆しています。また、デジタル上での表現が「バイオリズムという“生成の条件”を外れたまま」、「似たようなテイストで再生産され続ける」 ことで生じる「位相がズレる問題」 も、人間が生身の身体と時間の中で経験する生成や変化が、デジタル空間の静的な「保存」や模倣によって歪められている状況と解釈できます。これは、「永遠の今に生きるということ」、つまり時間的な深みや変化を奪われ、絶えず更新される現在に閉じ込められる状態であり、人間そのものが時間から切り離され、「保存」されてしまっているかのようです。
ここで、「資源は保存されるべきだが、人間は保存されるべきではない」という考えが重要になります。デジタル空間は情報という「資源」を効率的に保存する場所としては優れています。これは保存食が物理的な「資源」(食材)を長期保存するのと同様の機能と言えるでしょう Previous Response, 20。保存食は、食材の腐敗を防ぐために「防腐剤」(またはそれに類する加工)を用いますが、その目的はあくまで食材という外部の「資源」を未来に利用できるようにすることです。
一方、人間は時間の中で変化し、経験し、成長していく存在です。ソースは、デジタル空間における「静かな腐敗」 や「時間の破壊」、そして「永遠の今への幽閉」 が、この人間の本質的な時間性に対する脅威であることを示唆しています。人間がデジタル空間の「防腐剤」によってその時間性やバイオリズム から切り離され、記憶が硬直化 してしまうことは、人間が人間らしい変化や生きた経験を失ってしまうことにつながりかねません。
このような「人間の保存」(時間性の破壊)に対抗するための手段として、ソースでは「日記」や「見返すこと」 の重要性が挙げられています。日記を書くことは、「t軸の自作」 であり、「書くことが“生きている”という証明」 です。また、「見返す」ことは、「自分が選び、自分が決めて、思い出すこと」 を通じて、主体的に過去と向き合い、生きた時間を取り戻す行為です。これは、デジタル空間の「防腐剤」によって硬直化した記憶をただ参照するのではなく、自らの内的な時間と経験に再び息吹を与え、動的な「t軸」を再構築する試みと言えます。日記は、人間の内的な時間をデジタル空間の「防腐剤」から守り、変化し続ける「人間」という存在そのものを保存するのではなく、時間の中で生きる営みを「保存」するための道具、あるいはその営みそのものとして機能しているのです。
結論として、「デジタル空間における時間の破壊」を「デジタル上の防腐剤」による資源の静的保存と、それに伴う人間の時間性の破壊として捉え直すことができます。保存食が物理的な資源に防腐剤を用いて保存する行為であるのに対し、日記はデジタル空間の「防腐剤」によって損なわれがちな人間の内的な時間を、能動的な記録と「見返す」行為によって主体的に紡ぎ直し、人間が時間の中で生き続けること(=保存されないこと)を支えるための「反逆」 と位置づけられるでしょう。
過去はもう発酵しない。未来はもう発芽しない