金融の世界史
SYUMIGAKUの第30回目のシリーズでは、「金融の世界史 (板谷 敏彦, 2013) (新潮選書)」について話しました。
本書では、貨幣の誕生よりも古い歴史を持っている金融システムについて、5000年以上前のメソポタミア文明から、中世の大航海時代、近代の資本主義と戦争、そして現代日本のバブルに至るまで論じています。
貨幣・紙幣、東インド会社や株式市場、中央銀行の成立など、歴史の中で起こった象徴的な出来事に触れながら、世界各地で生まれた金融システムが、現代のグローバル経済を形成するまでにどのような変遷を辿ってきたのかを話しています。
引用などは、こちらにまとめています。
【30-1】人類史としての金融ー金融という仕組みは5000年前から存在した?【金融の世界史】
金融とはどういうものを指すか
前回、金融と財政と経済の会をやった
そこでは金融政策として、金利の話などが出てきた
金融は、価値を概念化して、時間軸によって変動するものと捉えてやりとりする
だからある時点の価値が、別の時点では価値が増減して、得したり損したりといったことが発生する
最も単純にはお金の貸し借り
今貸したお金が、数年後には少し多くなる
金融はいつから始まったか?
金融システムというと、資本主義と一緒に発展するような印象もあるが、資本主義は最近の発明である
高々2,300年前から始まった
金融と比べると、貨幣も比較的最近の発明である
中国文明(紀元前15世紀ごろ)には見つかっている
最も古い金融の記録は、メソポタミア文明で、それよりもっと古い
シュメール文明は紀元前5000年ごろから、2000年ごろとされる
メソポタミア文明のタブレットには、経済取引をした記録が残っている
この時代の金融は、穀物の貸し借りによって行われていた
また、銀がやりとりされた形跡もあった
すでに利子をつけて穀物をやりとりしていた形跡があった
国レベルの金融政策と呼べるものも、古代ギリシャではすでに行われていた
植民地シチリア島(イタリア初頭の先にある島)のディオニソス王
国の借金が返せなくなった
1ドル硬貨に2ドル硬貨と印字し直して返した
これは現代でも行われているインフレによる借金返済である
日本を含む先進国などでも普通に使われている
実質金利がマイナス、というのはこういう事情で発生する
また、古代ギリシャには先物取引も存在していた
これはアリストテレスの政治学に登場するので有名な話である
哲学者タレスが、先物取引をして儲けた逸話
その年豊作になると考えたタレスはオリーブを絞る機械の使用権を独占した
その予想は当たり、タレスは大儲けした
しかしアリストテレスは、金で金を増やす行為は、生活に必要以上の富を溜め込む自然に反するものとして否定されるものであった
これが中世にはキリスト教思想とも結びつき、利子禁止論となった
タレスの逸話は、哲学者はその気になれば知識を使って儲ける事もできるが、哲学者はそんなことに関心を持たない、ということが言いたかった
しかし現代では金融家が金融商品を売るために使っているのが皮肉的
【30-2】銀行と株式会社の誕生ー海賊と東インド会社は17世紀のベンチャー投資?【金融の世界史】
中世キリスト教の考え方
利子を取ってはならない、という戒律がある
利子は誰かが産んだものではなく、時間が産んだものである
そして時間とは神のものである
ユダヤ人は同胞以外からは利子をとっていいとされていたことで、金融を牛耳れるよつになったといわれる
しかしこれは18世紀以降の話で、それ以前にはキリスト教とも銀行家をやっていたとする説もある
そもそも、それ以前の銀行は国や領主のものしかなかった
国王が、戦争の時にお金を集めたり、領主が自分の資産を管理したりするためのものでしかなかった
身分制の中では、金融システムは高度になりづらい
近代的な銀行はイタリアで生まれた
14世紀ごろ
先に見たように、銀行の起源はメソポタミアまで遡れる
だが、近代的な意味での銀行は中世イタリアの両替商だとする見方が一般的である
それは、モノとしての銀や金なしで、紙とペンだけであらゆるやり取りを行ったからである
為替手形の決済、口座間の資金移動なども全て紙の上で行った
紙の上でやり取りをしていると、必ず預かっている額よりも支払った額の方が少ない事に気づいた
ここで信用創造が発生したとされている
信用創造がなされたという経歴は17世紀のイギリスに見られたものなので、イタリアで行われていたかは定かではない
大航海時代
15世紀ポルトガル
今で言う起業家が集まっていた
イタリアに富が集まっていたので、彼らがスポンサーになったりもしていた
大航海時代の冒険家や海賊たちは、ベンチャー企業みたいなものだった
有名なコロンブスもそう
色々な国の王や、金持ちにプレゼンした
そして冒険家によって、色々な大陸、島が発見され始める
これを機に、ヨーロッパは、東洋よりも自身が優位にあるという発想に傾いていく
ジャック・スパロー(パイレーツオブカリビアン
17世紀中頃
元々は東インド会社に勤めていた
実は海賊とイギリスは奇妙な共生関係にもあった
表向きは取り締まっていたりもしたが…
ジャックスパローよりも1世紀前の海賊フランシスドレイクは、スペインの銀輸送船を襲ってイギリスまで持ち帰った
これはベンチャー事業のようになっていて、エリザベス女王も出資していた
ペルーまで航海する旅では60マンポンドもの利益を上げ、エリザベスいっせいは、47倍もの利益を得て、対外債務を全て返済した
東インド会社と取引所
法人の誕生
最初は、教皇やヨーロッパの王から権利を認められたギルドが、法律上存在する人(所有権を有する概念)であった
12世紀につくられたロンドンのギルドはロンドン市の1/4を所有していたことがあり、今でもその名残で国王ですら市長の許可がなくては入れないと言うことになっている(形式的ではあるが
株式の売買は、13世紀から始まっていた
この頃は、国や王から許可をもらって立ち上がるものたった
当時の株式は基本的に無限責任だった
ここが現代のそれと違うところ
そのため、基本的に運命共同体的な人たち(家族や同じ地域の同族)から出資を募るのが普通だった
歴史の授業などでも、株式会社の始まりはオランダの東インド会社だとされている
これが有限責任を取り入れた最初の例だとされている
購入代金さえあれば誰でも株主になれた
これは17世紀初頭に成立した
アジアから胡椒をゆにゅうすること
イギリスは、一つの航海に対して毎回出資を募り、終わったら解散していた
オランダでは全ての航海を一つの事業とみなす永久資本制をとった
近くには世界初の証券取引所が出来た
アムステルダム証券取引所
【30-3】紙幣の可能性を信じて奔走する男ーいかにして紙切れは価値を持ったのか【金融の世界史】
1688年以降のイギリスの議会政治成功の要因
内閣制度と、国債の発明にあったのではないか
中世まで、国の財政には貯金がなかった
戦争のたびに金を借りていたが、負けたり引き分けたりすると、借金が返せなくなった
中世の資産家の中にはこのせいで破綻したりもしていた
つまり中世以前にも、国王が貴族に借金したりはしていたが、計画的に国が国債を発行して、財政を成り立たせる、といったことはされてなかったということである
1688年に名誉革命によって、王の権威は残しつつ議会を成立させたイギリスでは、国が借金するときも議会の同意が必要なことを明記した
1692年には国債の法律が成立している
第8章 ミシシッピ会社と南海会社
1690年代には、すでにコインよりも手形の流通量が上回るようになり、イギリスにおける紙幣が始まった
国債が成立した2年後の1694年、政府に融資する代わりに紙幣の発行が認められた民間の銀行が誕生した
(中央銀行ではないが、政府と二人三脚になって財政を管理する銀行がここで誕生したことになる
が、その後政府が貨幣に含まれる金銀の比率を減少させ(悪貨が良貨を駆逐する)たことによって恐慌が発生して頓挫した
この時はまだ、貨幣は硬貨と結びついていた
しかしこれを目の当たりにしていたイギリスの、ジョン・ローは、金や銀に裏打ちされている必要があるのではなく、信用が無くなるのが問題と見抜いていた
つまり金や銀の分しかお金がつくれない、というのは固定概念で、それを突破すれば最も効率的にお金を稼ぎ、経済も活性化できると考えた
1700年代にはいってから、彼はこの考えをプレゼンするために、イギリスとイタリアに紙幣発行の提案をしに行ったが、拒否され、フランスで採用された
1716年にこれを実行する
フランスの税金を紙幣で納めさせ、それによって紙幣が流通し始める
さらに王室の債務を引き受ける代わりに徴税業務を請け負った
ミシシッピ会社を立ち上げ、そこで投資を募ったとこよ、1年で20倍以上に膨れ上がった
しかし誰も実態を理解せずに投資していたので、一度この株式の価値が下がり始めると、瞬く間に価値がなくなっていった
その後も同じような会社設立で株式が高騰するような事は発生しており、バブルという言葉がうまれた(18世紀前半なので今から300年前
それを規制する法律までできた
アメリカではそこからしばらく経って独立戦争(1775〜83)の間に、またもや戦費調達のための債券が出されたことが株式市場の始まりとなった
独立後には新政府によって会社が認められ、株式売買が始まった
第十章 イギリスからアメリカへ
18世紀の株式会社は、まだ断片的なものに止まっていた
そもそも株式市場で公開して資金を集めなければいけないほどの事業は限られていた
イギリスでバブルを規制するために、会社設立のハードルが上がったこともその要因
しかし、主にアメリカで始まった鉄道建設の事業が、この状況を変えることになった
1837年、アメリカのコネチカット州で、登記だけで設立可能な株式会社の制度ができた
それまでは、会社の持つ特許の登録、承認など、面倒な手続きが必要だった
こうして第二次産業革命が起こる制度的な準備ができてきた
(第一次は18世紀後半で、主に軽工業の発展、第二次は19世紀前半に起こった重工業の発展である
イギリスなどでも鉄道会社が作られたが、アメリカのような広大な土地がある国の方が鉄道会社の需要は大きく、株式市場の勢いはアメリカに集中していった
1867年時点では米国証券市場では、国債の方が取引高が多かったが、20年間で逆転し、国債の10倍近い額が取引された
同じ時期(1860年代)、発明されたばかりの電信を株式取引に運用する動きが、ウォール街で始まった
それまで数週間かけてようやく分かった株式の販売総数が、一日で集計できるようになった
【30-4】世界大戦と世界恐慌…波乱の20世紀前半ー金融の過ちは繰り返される?【金融の世界史】
20世紀に起きた日露戦争では、金子堅太郎による資金調達も勝利に大きく貢献した
日英同盟を使ってイギリスのロンドン市場に初めて国債を投下した
最初はロシアの国債と比べて利回りが高い(=信用されていない)状況だったが、日本の戦況が好調であることや、ロシアで内乱が発生したことで徐々にその差が縮まっていった
最終的に国家予算の3倍近い金額を、国債によって調達した
1929年、世界恐慌
世界恐慌は一瞬の出来事ではない
3年間をかけて、約1/10まで下落が続いた現象である
当時のアメリカ市場は狂騒の20年代と呼ばれ、バブルであったことが知られている
それまでの歴史を見ると
1913年にはFRBが創設されていた。そのため、これほどの不況が起きるとは誰も考えていなかった
禁酒法が成立していたのもこの20年代
MBAを教える学科も作られていた
総じて、経済は合理的な方向に進むと皆が考えていた
実は株価がピークを打った時、街には失業者が多く存在するようになっていた
その様子に気づいた投資家たちの中には、いち早く株式を手放していた人もいた
ピークの株価の回復までは実質50年かかっている
32年の時点では、株価は10分の1、gnpは、40%減、失業率は25%
政府の対応(グラスすてぃーがる法
銀行行と証券業の分離させる法律
銀行が証券にどんどんお金を流すと、バブルが発生しやすくなるだろう、という発想
グラススティーガル法と同時に、連邦預金保健公社(fdic)の設立が定められた
たが、この銀行と証券の分離の原則は、時間と共に忘れ去られた(1999年に撤廃
そしてリーマンショックへ
【30-5】20世紀日本の金融システムの変遷ー第二次戦争とバブル下の経済システム【金融の世界史】
日本には江戸時代に独特の金融システムがあったが、近代的なシステムはやはり明治維新以後におきた
そこから日露戦争の1904年までの30年間で、鉄道会社が発展し、株式市場で多く売買されていたが、国防のため(海外からの買収を恐れて)国有化が起こった
この時投資対象は一気に減ってしまった
その後、第一次大戦では戦争特需で一時的に株式市場が盛り上がったが、戦争が終わると戦争以前よりも落ち込むこととなった
円は元々明治4年に、金1.5グラムを1円と決めた
第一次大戦の際には、各国が一時的に金本位制をやめたので、日本もこれに倣った
戦後の1919年に、アメリカはすぐに金本位制に戻そうとしたが、関東大震災とその後の昭和金融恐慌によって復帰が遅れてしまった
その後30年から一時的に金本位制に復帰したが32年には再び離脱し、円安が2倍以上進行した
この当時日本の輸出品は数少ない紡績業しかなく、ドルの入手は困難になっていた
戦争のための大きな輸入には基軸通貨であるドルが必要だった
日本は戦略物資のほとんどをアメリカから輸入していたため、戦争するなどとは考えられなかった
しかしナチスが自給自足経済を構築しつつあるのをみて、インドネシアや中国大陸を手中におさまれば、アウタルキー確率ができると考えた
この動きがアメリカの経済制裁を誘発し、ますます自給自足経済を目指さなければいけないという状況になった
戦争の前半は、日本が不利だという情報が開示されなかったこともあり、株式市場は好調だったが、ミッドウェー海戦を境に盛り上がりは消えていった
戦争中の1945年には市場が一時的に閉じられることもあった
戦後、46年二月「経済危機緊急対策」
当時の10円以上の価値を持った日本銀行券を、3月2日に執行させるから、それまでに「旧円」を銀行に入れなければならない、というもの
それ以降は毎月定められた金額だけ「新円」として引き出せる、という仕組み
政府は国民から締め出したお金の一部を財産税を徴収して、戦争の借金を返そうと考えた
さらに、旧円の流通量を落とすことで、インフレによる円の価値の下落を防ごうとも考えた
しかしこんなことをすれば、投資に回るお金がなくなる
そこで政府は、株式の購入には預金口座からお金を使えるとした
そうすると、それを利用して、一度株式を購入して、その後売却すれば、新円を手にいれることができるという合法的マネーロンダリングが成立した
こうして新円を獲得するために株式市場が盛り上がった