第48回 史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち
東洋哲学はどこまで行っても理解不可能なものである
西洋哲学は、無知を前提にして、階段上にみんなが積み上げていったもの
西洋哲学 は究極的に難しいけど理解不可能ではない
西洋哲学は絶対的な真理とは何か、を追い求めて、これまで天才的な偉人たちは1つ1つ積み上げてきた。そして、破壊してきた考えの集積である
確かに相当難しいけど、途中から読むのではなくて、全体の歴史がわかれば理解はできる
東洋哲学はピラミッド
無知を前提にはしてない。むしろ、我は心理を知りえたり、悟った。究極に達した。と発言をする。
西洋哲学がまだ到達していないものに、すでに到達済みである。つまりゴールしたところからスタートする
購入した人は悟った人は基本的に頂点に存在する1人である。1人は方法をステップで解いてくれるわけではなく、いきなり悟ってるので、その状態について説明をしてくれるだけであって、何も関節丁寧に解説をしてくれるわけではない。
その1人の発言と現代に当てはめて、みんなが解釈していくのが東洋哲学
なので伝える逸話ようなものが作られていた。結果、哲学から離れて宗教とかしていた
哲学は基本的に身体的な体験を伴って悟ることによって理解できるものなので、文字情報から書籍で理解に到達すること不可能である。
古代インド史上最強の哲人 ヤージュニャヴァルキヤ
東洋哲学は自己の探求から始まった
バラモンの哲学
3500年前にアーリア人がインドを征服する
ベーダ教という聖典
アーリア人も自然。信仰から雷の神様や水の神様などを神々を称える歌や物語を作って伝承していった。それをまとめたもの
バラモン教
アーリア人は神様の儀式を取りしき?ものとして、祭祀という階級を作る
祭祀、王族、庶民、奴隷の4種類も区分する身分制度ヴァルナを作り出す
この権威体制がインドを全土に広がっていく
ウパニシャッド哲学と東洋哲学の始まり
特権階級を手に入れたバラモンたちは働かなくても良くなったので暇になった
暇になったことで余計なことを考えるようになり、哲学者になった。
これはそれでは哲学も同じ流れであり、スクールという単語のという古代ギリシャ語の暇(スコー)という意味の言葉から来ている
バラモンたちの思索活動によって神話にとどまらず、哲学的な対応を含むようになった。ヴェーダを区別してウパニシャッドと呼ぶようになる
これがインド哲学東洋哲学のはじまり
自己の探求
東洋哲学と西洋哲学では関心のベクトルが逆だった
西洋哲学は世界の真理とは何か、など人間の外側にある何かについて考えていたが、東洋は人間の内側にある何か、つまり私、について考えていた
西洋哲学では外側つまり、世界に関心があったため、アリストテレスの学問から始まり、世界を把握し、制御するための知識や技術の体型が判断していった、それによって科学が誕生した
そんな人間の内側について考えていた、インドのウパニシャッド最大の哲学者がヤージュニアヴァルキアである
彼は紀元前650年から550年生きてい
ーーー
梵我一如
彼の哲学
世界を成り立たせている原理 (梵=ブラフマン)と、個人を成り立たせている原理(私=アートマン) が、実は同一のもの (一如)であるという理論
これを全ての苦悩から解放され、究極の真理に到達する
有名な夫婦の語らいシーン
「アートマンとは不滅のものであり、本性上破壊されないものである。
(中略)
アートマンについては「に非ず、に非ず』としか言えない。
それは捉えることができない。なぜなら捉えようがないからである。
それは破壊することができない。なぜなら破壊しようがないからである。
それは執着することができない。なぜなら執着しようがないからである。
それは束縛されることもなく、動揺することもなく、害されることもない。
ああ、どうやって認識するものを認識できるであろうか?
妻よ。不死というのは、こういうことなのである」
(『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』
つまり私アートマンは認識するものであるから、認識することができない。捉えられないと言っている
これを考えるために私とは何か?私が存在するための条件とは何だろうかを考える
肩書や会社などもそれに当たらないし、個性だけでもそうとも言えないし、肉体だけでもその通りで。じゃあ脳はどうだろうか?脳があればそれだけで私と言えるかと言うとそうでもない
どうだって?結局、神経細胞の電気信号によって刺激が伝わっているだけなので、実質的に私完全に1対1で紐付いているわけではないよね
そういった情報処理のレベルではなく、我々意識として何が起こってるかを説明することは難しいよね
1994年28歳の哲学者デイヴィッドチャーマーズによって提示されたもの
私が存在するための条件
痛みを感じたり、色を見たりするような意識現象があること
意識がない状態であれば、自分を自分の人生として捉えることはできないだろう
仮に現実世界だと思っているものが全て夢だったとしても、認識する私がいることは否定できない
デカルトと同じ思考回路
私とは認識するもの
アートマン、私とは、認識するものである
だとしたら、さっきの言葉に戻ると、どうやって認識するものを認識できるだろうか?
認識するものを認識できるということになると、認識の無限ループが存在してしまう。認識するものを認識したメタな認識主体が存在することになり、それをまたさらに認識した主体がいるということになって、無限に続いてしまう
無限遡行と呼ばれる、認識することは認識できない。
サルトルは存在と無の中で認識を還元することは事実、認識の特徴である主観と客観の二元性を意識の中で導入することを意味し、結果的にそれは不可能であるとしている。
話を戻すと、私と認識するものである、という定義を受け入れた瞬間に、同時に、私は私自身を認識対象にできない、という帰結も受け入れなくてはならない
〇〇に非ず
アートマンについては、〇〇に非ず、〇〇に非ず、としか言えない
論理的に考えて、私は認識対象にならないのだから、私はAです、や、私はBです、ということは本来的にAやBが認識対象であるため不可能である。
これについてもサルトルは同様のことを言ってる
ただし、哲学的には私は何々でないと言うのは死んだけど、日常的にはそんなことを考えられない
その間違った思い込みが不幸を生み出す原因になっていると考えている
ぬいぐるみの例
ぬいぐるみに子供が同化するように、容姿や地位や財産と自分の同化しているのとあんまり変わらない
何くるみじゃないよね?ってことのがるの
私アートマンと言う本質が何かの対象じゃなくて何々ではないと言う形でしか表現できないので、そもそも切り離されている
自己、アートマンとは、鑑賞者観客であって、決して鑑賞物踊り子と同一のものではない。ゆえに、どんな鑑賞物が現れても、鑑賞者を汚すことも破壊することもできない。
釈迦
釈迦が育った時代背景
私(アートマン)は、認識されるものにはなり得ないのだから、階級など存在するはずがないし、ブラフマンの境地に至れるのがバラモンだけというのも、もっぱらおかしな話である。
ヤージュニャヴァルキアの思想によって、この階級社会から抜け出して、自ら真理を得ようと現世から離脱していく(出家)ムーブメントが起こる。
その一人が釈迦。
出家 = 老病死の苦しみを克服する境地を目指す
当時の出家の定番の動機づけ
釈迦もその一人で、四門出遊というエピソードで語られている
そもそも釈迦は出家や修行をした最初人間でもないし、悟りを開いた最初の人間でもない
その当時の出家をした人がやる定番の修行が、苦行であった。
苦行をなぜやるか?その前に悟るということは何か?
私は害されない、という境地に達したことをどう確認できようか。
言葉でどう説明をしても、それは決してわかったことにはならない。言葉で、アートマンは認識されるものにはなり得ないので、害されることもないし、不幸になることもないのです。と言われても、次の瞬間から自己が無敵になるわけではない。
これはあそこにはお化けなんていない、あれはただの洗濯物だよ、といわれても、本当に行って確認するまではずっと怖いよね。
つまり、東洋哲学においては、知識として知っていることは、本当にわかったことにはならない。体験として意識のレベルで感覚として会得した、という状態を大事にする。
これを知識レベルの理解と対比させるために、「悟る」という名称をつけて区別した
ではなぜ苦行をやるのか?
言葉の上では何を言っても同じことになる。悟っているのか、意識のレベルで得ているのか、知識としての理解だけなのか、は、弟子たちが先生を見てもわからないし、追い求める側としても、どこまでの理解の境地に達しているか、はわからない。
苦しみから解放されるというのであれば、その苦しみを味わっても、それに屈しない心を持てるだろう、ということで、実際に体験で示したり、体験で得ようとする、ということのために苦行を行なっている
苦行の先には何もない、どころか邪魔。
釈迦は6年間も苦行をやり抜いたが、その先に何もなかった。悟れなかった。
そこで釈迦は気づいた。そもそも苦行は悟りに何の関係もない。それどころかむしろ邪魔をしていると。
苦行は自己の誤った同化(つまり認識されるものとして私を捉えてしまう)ことを逆に加速させてしまっていた
それは苦痛自慢大会のようなものになってしまった。俺何日寝てないんだぜ、大会と同じ話だ。
すごい苦行に耐えてみんなから讃えられて、それによって弟子がついてくる、ということは、ただの映画であるのに、それを近づいてるものとして捉えてしまったのだ。
手段が目的化してしまった、とも言える。てかこれを訂正するためにいろんな考えが出てきた、とも言える気がする。この後の龍樹もそうだけど。
それがさらにプライドによって加速して、身体的な限界状態によって見える幻覚等を持って悟りに近づいてる、という勘違いまで始まった
これもその体験自体は関係ないのだが、そこに自己を重ねてしまっている。
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5エピソード目
釈迦の悟りと仏教の始まり
1. 釈迦の悟りの瞬間
(a) 苦行の放棄:苦行に耐えて成し遂げようとするアプローチを断念。
(b) 静寂の中での座禅:黙って座り、脳裏に浮かぶ雑念をすべて「認識の対象物」として捉える。
(c) 観客としての視点:ただ映画の観客のようにあり続けたことで、すべての雑念が消失。
(d) 悟りの獲得:雑念がなくなった静寂の中で、真理を悟る。
2. 仏教の成立と伝道
(a) ブッダの誕生:悟りを得た釈迦は、「目覚めた人」を意味する「ブッダ」と呼ばれるようになる。
(b) 伝道の決意:当初は「この境地を理解できる者はいない」と諦めかけるが、生涯をかけて伝達することを決意。この決意が仏教の始まりとされる。
(c) 初転法輪:かつて共に苦行をしていた5人の仲間に対し、最初に行った説法。
3. 根本教義の提示
(a) 四諦(したい):仏教の基礎となる4つの真理。
(b) 八正道(はっしょうどう):悟りに至るための8つの正しい実践。
これら二つの教えが、仏教の基礎および根本教義となりました。
お話しいただいた仏教の「四諦」の内容を、構造化してまとめました。
四諦(したい):4つの真理
「諦め」とは「真理を明らかにする」ことを意味し、人生における4つの真理を指します。
1. 苦諦(くたい):苦があるという真理
人生は苦しみであり、生老病死からは逃れられないという自覚。
2. 集諦(じったい):苦しみの原因の真理
苦しみの根本的な原因は、私たちの執着や欲望にある。
3. 滅諦(めったい):苦しみの消滅の真理
原因である執着をなくせば、苦しみは滅することができる。
4. 道諦(どうたい):苦しみを滅する方法の真理
苦しみが消えた究極の境地に至るための具体的な方法がある。
要約
人生は苦しみだらけですが、その苦しみには執着という原因があり、それをなくせば苦しみを消すことができます。そして、そこに至る道があるという教えです。
八正道の構造化
八正道は、四聖諦の「道諦(苦しみを滅するための実践)」の具体的な内容であり、悟りに至るための8つの正しい修行法です。
1. 知恵を養う(正しい見方と意図)
物事をありのままに見つめ、正しい方向性を定めるプロセスです。
正見(しょうけん):自己中心的な偏見を捨て、正しい道理で物事を見る。
正思惟(しょうしゆい):欲や怒りに囚われず、正しい道理に基づいて考える。
2. 倫理的な生活(正しい社会性)
日常生活における言葉や行動を律するプロセスです。
正語(しょうご):嘘や悪口を避け、誠実で慈しみのある言葉を使う。
正業(しょうごう):殺生や盗みなど、道徳に反する行いをせず、正しい行動をとる。
正命(しょうみょう):他者を傷つける仕事や不正を避け、正当な手段で生活を営む。
3. 心を整える(正しい精神修養)
内面的な集中力と精神の安定を深めるプロセスです。
正精進(しょうしょうじん):正しい目的をもち、怠らずたゆまぬ努力を続ける。
正念(しょうねん):今の瞬間に意識を向け、心の状態を常に客観的に見つめる。
正定(しょうじょう):雑念を払い、心が静まり安定した状態を保つ(禅定)。
結論
八正道は、**「知識・倫理・精神」**の3つの側面から自分を整える実践体系です。これらを日常生活で積み重ねることによって、苦しみから解放された「悟り」の境地を目指すのが仏教の根本的な教えとなります。
仏教について話します。四諦も八正道も、釈迦の哲学においては入り口のようなものになるので、核心部分ではないんですね。
何が核心かというと、アートマンは存在しないという「無我」の主張になります。
これがなぜ重要か
これまでのウパニシャッド哲学を築いてきた、ヤージュニャヴァルキヤの哲学と矛盾するからです。
ヤージュニャヴァルキヤは「アートマン」というものがあり、その本質を知ることで境地に達することができるという話をしていました。
これを存在しないと言い切ったので、矛盾することになってしまいます。
ただ、釈迦はウパニシャッド哲学を完全に否定したわけではない。
釈迦は、ウパニシャッドの哲学の致命的な問題に対しての問題提起をした
それは、「大衆は必ず誤って理解する」というもの
アートマンの概念化
大衆は決して捉えることのできない「私の本質」をアートマンというわけですが、それを概念として強く意識するようになってしまった
アートマンを捉えることも害することもできないものであるというのは事実なんですが、それを「アートマンってこういうものだよね」というふうに概念化してしまうこと自体が、それは認識の対象物になってしまう。本来それすらもやってはいけないんですが、そのような概念として捉えられるようになってしまったということです。
ここで釈迦が「概念として表現された私(アートマン)は本当の私ではない」というふうに言うこともできます。
しかし、それをやってしまっても「私は概念として表現できないものなんだね」という形で、結局また概念化・形式化されてしまう
これでは、伝えるという意味において非常に難しいだろうと釈迦は考えた
そこで、その真意をストレートに表現するために、釈迦は「私(アートマン)は存在しない」と言い切る
これまでの方向性を見誤っていたところを正そうという思いで、このような「概念破壊」を行ったという流れ
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6エピソード目