第44回 社会契約論の発展
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社会契約論は日本の高校でもホッブズ、ルソー、ジョン・ロックの3人を中心に、フランス革命に繋がった啓蒙思想家たちの発想だと習いました。
しかし重田さんの著書、「社会契約論(ちくま新書)」では、近代初期の西洋思想だけではなく、現代の哲学にまで影響を与え続けているものとしてこれらを位置付けています。
ホッブズから、ヒューム、ルソー、ロールズの4人の思想と、それらがどのように絡み合っているのかを中心に、近代から現代までの社会契約論の流れについて話しています。
社会契約論 ルソー、ヒューム、ホッブズ、ロールズ(ちくま新書, 重田 園江, 2013)
【44-1】社会契約論は机上の空論?ーなぜ現代まで影響を与える思想になったのか【社会契約論の発展】
【44-2】ホッブズ曰く、人間は臆病で利己ーだからこそ平等な社会がつくれる?【社会契約論の発展】
イングランド南部の牧師の次男として生まれた
世界の運動論的把握
ホッブズの世界観では、自然状態からスタートする
自然状態における人間はボールのようなもので、自然法則に従って転がり、他のボールとぶつかったりする
このような状況では、人は他者からの侵害に怯えている
殺し合いをして、自分がいつ殺されるかも分からない日々が嫌になって、お互いに殺し合わないという約束を決めようと考える
社会契約
このルールを機能させるために、みんなで武装の権利を第三者に受け渡す
こうして国家(リヴァイアサン)がつくられる
ホッブズは、個人よりもさらに小さい単位まで世界の現象、運動を細分化した
人間にとっては、感覚という外から与えられる刺激が全ての出発点となる
同じ感覚が繰り返される事で、言語的な記号になり、記憶としても定着していく
このような刺激が蓄積され、経験となる
言語的な記憶と経験が、情念をつくり、
情念が意志(これをしたい、したくない)をつくる
情念は生まれつき由来のものもあるが、大部分は経験と言語表彰に由来する
ここに宗教や正義という概念も含まれている
情念は何かを欲求するか、嫌悪するかという二項対立が基本となる
ホッブズの概念において、意志は心に抱くものというより、本人に選択された結果をさす
例えばビールを飲みたいという気持ちと仕事をしなければという気持ちとで揺れている時、これは情念が複数存在しているといい、
熟慮という過程を辿って最終的な行為(意志)が決定される
このような概念で整理されたホッブズの世界観では、人は情念、熟慮、意志に基づく行為を繰り返し、他者にもその過程を通じて影響を与え合うという運動論的な世界観になる
機械論的と言わないのは、機械論的というと未来が決定されているかのようだが、ホッブズにとってそれは重要ではない。というより各個人は未来が決まっていないという発想をもっているからこそ、あれこれ情念と熟慮を繰り返す
個人もまた、刺激と情念に振り回される存在であって、運動の最小単位ではない
ある意味で、人間意志をそれほど高く評価していない
意志は事後的に評価される。ビールを飲んだのだとしたら、彼はビールを飲みたいと意志した、ということになる
従ってホッブズの理論では、人間の自由意志というのは少し一般的な自由とは異なる発想で捉えられる
自由と必然とは矛盾しない
ホッブズの世界観では、フーコーやニーチェの権力観にも似て、人々の間で発生する現象であると考えていた
運動論的に生物を見た上で、政治社会をどう捉えるか?
その中心にあるのは、「自己保存」である
自然状態を、万人の闘争状態だと考えたのは、各人が自己保存のためになんの制約なしに力を行使するということである
この闘争状態を終わらせるためにとれる選択は、ホッブズとしては上に立つ権力の存在しかないと考えた
当時のヨーロッパの国際法を、強制力を持っていないという意味で、意味のない取り決めだと考えていた
この自然状態は、誰でも何もできる代わりに、誰からもなんでもされる可能性を考えながら生きなければいけない
この状態は自由とは程遠く、畑を耕す人間はおらず(耕しても収穫する時に奪われるから)、航海する者もなく、輸入品もない、手頃な建物や作業を効率化する高度な道具もない。全ての人間は他人から暴力を受ける可能性なら耐えず怯えている
この状態では、最初に武器を捨てるのがとても難しい
なぜそのような状況にも関わらず、社会は秩序をもっているようにみえるのか?(これがホッブズ問題である
ホッブズ問題について、ホッブズの著作も後世の解釈者も明確な答えを得ていない
神や伝統という根拠によってこの問題を解決しようとした人もいたが、社会契約論らしさはそのような外部に政治社会の根拠を求めずに、人々の約束の中に、政治社会の根拠を求めるような発想だと考える方がよいのではないか?
だからこそ、突如として政治社会出現する、ということになる
(約束がなぜ可能か?という問いを進めていくと、約束以外に社会形成の究極的根拠を求めることに繋がってしまう)
ホッブズの社会契約論では、万人による闘争状態よりも、国家権力の樹立を国民が望んだものとして、(実際には違うとしても)他者への攻撃や強奪の権利を放棄して、国家という第三者に譲った、と考える
この権利譲渡は、一切に行われるとホッブズは考えていたのだろうか?
確かに、仮に一斉に権利を手放すと考えるとホッブズ問題が解消されるという点でも便利なので、このように理解されてきた
ホッブズの約束の力に対する考え方
ホッブズ的には、自然状態の中で約束(信約)は守られると考えている
約束は恐怖によって成立したとしても有効である(脅されても、そこで死を選ばないという自由意志を発揮したとみなす)
リヴァイアサンを形成する約束(自然状態を脱する約束)というものは、どちらか一方が約束を守らない、というわけにはいかない
誰かが自らの命は自分で守ると言い始めたら、他方もまた武器を取ることになる
ホッブズに対する、世間の評価と著者の評価
世間では、近代政治理論の創始者だと言っても、反発は来ないだろうが、近代人権思想の創始者だというと抵抗を示す人もいるのではないか?
ホッブズの人間観は、全ての人間はくだらなく、利己的でよく深いという発想からきている
つまり、誰も見下していないある種の平等の発想である。それを前提に秩序を考え始めたのが、ホッブズの特徴の一つである
【44-3】社会をつくるのは、結局利害関係? ー ヒュームによるホッブズへの批判【社会契約論の発展】
歴史的観点からの批判
現存する統治や支配が、人民の合意によって成立した事例などあっただろうか?
政治体制が生まれる時は、軍事力や政治的な策略である
力による支配の樹立と恐怖による服従
そしてその後になれば、大抵の臣民は、生まれつき存在する君主の存在に疑いを抱かず、そういうものか、ということで服従する
契約した人など誰もいないのに、社会契約論など成り立つのか?
原理的観点からの批判
だが、ヒューム自身、このような批判だけでは不十分だと考えていた
仮に歴史的に力によって政権が樹立されてきたとしても、思索としてそれを取り扱う以上、そこに何かしらの正当性や発想の基準を設ける必要があると考えた
(ここまでなら正直誰でもできるが)ヒュームは事実に基づく批判だけに満足していたわけではなく、そういった考察の対象としての政治体の根拠を論じる上でも不十分だと主張していた
ヒュームの発想では、約束が統治を生むのではなく、約束と統治のその裏側にある共通の原因(より根源的な秩序形成のメカニズム)があるはずだと考える
まず、ヒュームは「なぜ約束は守られなければならないか」という問いに、商業や貿易の利益確保をおいた
また、法や裁判官などの制度も、社会的な必要から要請されたと主張する
つまり彼は、約束が統治を生むのではなく、約束も統治も、いずれも社会の「社会の一般的利益」という根本的な要因によって生み出されたものだと発想する
ヒュームにとって約束の果たす側面は、ホッブズのそれよりもかなり限定的に考えられている
そしてそのことによって、約束ではなく「コンヴェンション」があればいいという主張につなげた
コンヴェンションとは、「共通の利益に全員が気づくこと」だと表現している
稲刈りをするときに、一人では刈り取り作業ができないから、それぞれの家が協力して、相手の収穫を手伝う
仮にお互いが疑心暗鬼になってこれが成立しなかったら、お互いに収穫を無駄にすることになってしまう
コンヴェンションが見出された時に初めて、人は約束をしようという発想になる。つまりコンヴェンションの方が、約束よりも先にあるべき、というのがヒュームの考え方である
ホッブズのいう約束とコンヴェンションは何が違っているのか?
すでに何らかの共同性(コミュニティ)が成立しており、さらに一定の時間が経過して試行錯誤が行われることで、コンヴェンションが醸成される
ヒュームの方がある程度の平和が実現されていることを前提しているのに対して、ホッブズは自然状態として万人の闘争状態を想定している
ホッブズは、仮に人が共通の利益に気づいたとしても、裏切られるかもしれない、という疑念が人々の決断を思いとどまらせる原因になってしまうと考えていた
https://gyazo.com/f0aa450f2b78656e1ee79715507c7038
ヒュームとホッブズ問題
政治社会の成立、という点で考えると、実は二つの発想にはそれほど大きな違いはない
ヒュームの論じていることは、ホッブズのいうところのリヴァイアサンが成立した後の話だというふうに捉えることができるためだ
ホッブズからすれば、明示的な約束がなければ、人々はいつまでも武器を捨てられないと発想している
ヒュームは人間が生得的に持っているある種の「共通の利益の感覚」を高く評価して、それによってホッブズ問題を隠している
社会にはすでにみんなが共通で想定できる利益の形が想定されている
3. 政治社会と文明社会
ヒュームのこの発想は、来るべき商業社会の中では有効に働く議論となったが、より根源的な無秩序状態を想定し始めると、ホッブズ問題が生じてくることは変わらない
ヒュームと同じ時代にスイスで生まれた
ルソーは自伝(告白)を残していることもあり、かなり奔放な生活であったことで有名である ルソーはヒュームに抗し、ホッブズを引き継ぎ、約束を秩序に必要不可欠なものとして捉えた
ルソーとヒュームは互いが50代半ばの時に、一緒に住んでいた時期がある
だが二人は仲違えして、1年か2年そこらで別れた
二人の思想に根本的な違いがあるせいではないか?という考え方もできる
ヒュームは文明の進歩の価値を信じていたが、ルソーは全く逆で、学問と芸術の進歩は人間を堕落させたと考えていた
エコノミーという言葉から考える社会変化とルソーへの影響
エコノミーの語源は、ギリシャのオイコス(家)からきている
オイコスは、ポリスと対比される言葉で、私的な生活と、公共の政治という対比で使われていた
が、ルソーの時代(18世紀)より少し前から、ポリティカルエコノミー(政治経済)という言葉が使われ出した
つまり、私的な生活と、公共の政治という二項対立が崩されてきていたということである
国家が財政運営や、軍の常備などといった統治機構を持たなければいけなくなった時代を反映していた
ルソーもこのような社会からの要求の変化、いわばこれまで家を治めるために使われてきた発想が、近代国家の出現によって国家単位までも拡張して必要とされるようになったことを感じていた
だがルソーは、この経済的な面を重視する発想を忌避していた
そうではなく、国民が国に対して愛着を持ち、徳を持って生き生きと暮らしていることが国家の力を図る上でも重要だと考えていた
この観点も、商業的な発展に好意的だったヒュームと違うポイントである
その上で、国家の発展についてではなく、国家の正当性の基礎づけ・根拠を問い直したのがルソーであった
ルソーの歴史観
共同体を形成したり、技術が発展するに従って、私有財産と貧富の格差が生じる
しかしルソーの上記書籍には、人民主権による政治体の確立が、このような否定的な文明から抜け出る道であるということが書いてある
arai: そうだったか?
ルソーの考える理想の国家はハードルが非常に高い
ホッブズが、各人の殺し合いをやめさせられるなら酷い権力でもあった方がいい、的な発想だったのに対して、ルソーはその時代に失望していたので理想を追い求めた
各構成員の身体と財産とを、共同の力のすべてを挙げて防衛し保護する結社形態を発見すること。そして、この結社形態は、それを通じて各人がすべての人と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由なままでいられる形態であること」(『
重田園江. 社会契約論 ──ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ (ちくま新書) (p. 139). (Function). Kindle Edition.
自分自身にしか服従せず、自由なままでいられる。
つまり構成員は、自分が不自由な状態になるのと引き換えに秩序を手に入れる、のではなく自由な状態のままで秩序を手に入れるというのがルソーの理想なのである
ルソーの社会契約
一言で言えば全面譲渡である
各人は他の全ての人間に対して、自分の持ちうる権利を全て譲渡し、代わりに他の構成員全員からそれを受け取る
こうして誰一人不平等な人間は存在できない契約になる
しかしこれでは平等は達成されたが、自由が完全に奪われているのではないか?と考えるのが自然だが、ルソーはこれを自由と平等の両立だと論じている
ルソーの契約は、ホッブズのそれとは違い、「個人」と「全体」による契約なのであり、全体の中には自分も含まれている
この時、個人の側に属するのが「特殊的な人格」で、全体に属するのが「一般的な人格」である
https://gyazo.com/2872e8aca982cc7e8727d62ee7f9f7da
人は法をつくりだす市民としての顔と、それに従う臣民としての側面を持つ
一般意志とは何か?
一般意志とは、個々人の意思を束ねてつくられるのではない。それは特殊意思の合算に過ぎない
一般意志という単語は、ルソーが初めて論じたのではなかった
中世進学においては、神の完全性と、この世の不完全性(なぜ完全な存在である神が創造した世界には悪が存在しているのか)という問題
この文脈では一般意志とは、「神の、万人を救済するという意思」として語られた
アダムが知恵の実を口にして原罪を背負ったことで、神とのつながりを絶った人間だけが救われない神にとっての例外=「特殊」な人間となった
アウグスティヌスからこの説を引き継いだマルブランシュはこのように考え、神が世界を創造した時の単純な(シンプルな)法則こそ、一般性を持っており、その一般性から外れたものが特殊意思的に動いていると考えた ルソーへと引き継がれるまでには、もう一人登場人物がおり、それがモンテスキューである 三権分立(司法、立法、行政)によって専制統治を防ぐという発想 彼は裁判とは、法律という一般的なものを、個別の事象に適応するもの、つまり特殊意思の現れる場所であると考えた
立法 = 一般意志的な行為、司法 = 特殊意思的な行為
モンテスキューにとっては、常に法が一般性を持っているべきだという根本の発想があった
個別の事象に目をとらわれるのではなく、あくまで一般的に適応可能性を持った法律を整備することが、国家にとって重要だという発想である
ルソーはこれを、国家の側からではなく、人民の側から解釈して用いた
人民の集合としての国家が法律のようなものをつくることができるとすれば、それは人間の自由な意思の中に、一般性を発見することによってである
人間一人一人は、それぞれ人体を持ち、各々の境遇を持っているが、それが結束して社会を形成することで、一般意志が現れるという
一般意志以上に、正しいものを想定することはできない
ルソーは一般意志を「過たない」と断言している
ルソーはここで、特殊意思のせめぎ合いとして制定される法律など全く考えいない。それは所詮特殊意思である
arai これは神の意思の言い換えに過ぎないのではないか?とも思えるが
もう少し別の例で考えてみると、
例えば物理法則は過たないと言っているのと、一般意志は過たないと言っていることはニュアンスは近しい
物理法則が仮に間違っている場面に想定した時、科学者は物理法則という概念自体が間違いだったとは普通は考えない。今人類が導き出した法則に誤りがあって、本当の「真なる法則」というものは存在しているし、いつか辿り着けると考える。これと同じである
ではどうやって人間はそんな一般意志に辿り着けるのか?という問いについては、未だルソーの研究者の中でも答えが出ていない
代わりにこの著者は、ロールズの中に一般意志へ近づく方法を見る
弁護士の父と、女性参政権運動家の母というリベラルな家庭だった
1943年、大学を卒業したロールズは、陸軍に入隊した
歩兵としてニューギニア、フィリピンなどで戦争に参加し、原爆投下後の広島にも上陸している
46年に大学院に復学して、論文を書き上げたのち、オックスフォードへ移動し、1953年にコーネル大学、MIT、ハーヴァードと大学教授職を転々とした
政治哲学の理論家として、世界的に有名にもなった
ロールズをアメリカの政治論の一論客としてみるのではなく、社会契約論を現代的な解釈で継承した、ヨーロッパ政治思想の文脈の一人としてみるべきである、というのが著者の主張である
ロールズのヒューム批判
ロールズの正義論は、一大勢力であった功利主義に対する批判であるとよく取り上げられる
しかし実はこの批判対象である功利主義の前提にはヒュームの理論がある
ヒュームは、人間の道徳は「共感」によって構成されると考えた
共感は、他者に感情移入することであり、他人の経験を自分の経験であるかのように認識すること
ロールズは、このような共感を否定し、代わりに他者との違いに着目することであると考えた。共感とは他者と同じ気持ちになることではなく、他者の気持ちを想像して、自分自身が何をするべきかを考える気持ちだとした
ヒューム自身が気づいているが、ヒュームの共感の定義を前提に道徳を考えていくと、自分と近しい相手(境遇や立場)には簡単に共感できるが、遠くの見知らぬ第三者には全く気持ちが動かないことになる
これは、先に見たルソーの一般性を目指す上では非常に都合の悪い点である
ヒュームは、道徳的な共感の根拠として、全く知らない他者に対して抱く共感のような感情があると考えていた
例えばガンディーのエピソードを聞いて我々が聖人だと感じる感覚である
この時、我々はその「尊敬する(評価対象の)人間」の周囲の人間に共感する
もしこんな人が近くにいたら、どんなふうに思うだろうか、と想像する
ヒュームは主観的な共感の感情が、より客観性を獲得するプロセスを上記のように描写していた
ロールズによれば、このヒュームの発想を拡張することでしか、功利主義は存立できないという
功利主義(最大多数の最大幸福)とは、簡単に言えば全員の快不快を合計した値が最大値を示すことを正しいとみなす発想のことである 先のヒュームの発想において、他者になり変わる・想像することによって、他の人間が経験するはずの快不快を味わうことができるという発想によって、この道徳原理は正当化できる
ロールズによれば「不偏・公平で共感能力のある観察者」の存在こそが、古典的功利主義を正当化するために必要だと論じている
ロールズは根本的にこのヒューム(及び功利主義)の発想に意を唱えている
ヒュームが人間が他者の気持ちを想像し、成り代われると考えるのに対し、ロールズは人間の差異に注目し、他者の経験を同じように想定できるとは考えていない
それ故に、感情の働きではなく契約論的・理性的な考慮によって道徳原理を獲得することが望ましい、となる