第43回 アイヌと近代日本人の形成
【43-1】序章:物語から紐解くアイヌと近代日本【アイヌと近代日本人の形成】
熱源 川越宗一 の内容をベースにして語る。
明治維新以降から戦争までの日本は、ベースはありつつも、そこにあらゆる角度からあらゆる人を染め上げながら、その中対立と妥協と変化を繰り返しながら作られていくもの。
冒頭に、アイヌの少年2人が喧嘩しているところに、倭人が通って、「あ、犬か」という発言を、少し日本語を学んでしまっていたので、聞いてしまって、ブチギレるところから始まる。
直木賞、2020年受賞
逢笠 恵祐(Keisuke Aigasa)の朗読がとても良かった。ナレーションも含めて。
【43-2】「北門の鎖鑰」- 北海道開拓という国家プロジェクトの光と影【アイヌと近代日本人の形成】
北海道開拓の歴史
明治政府による北海道開拓は、近代国家建設という壮大なプロジェクトでしたが、その背景には二つの側面がありました。
国家の近代化と安全保障
先住民族アイヌへの同化政策と土地の収奪
開拓の主な動機
ロシアの脅威への対抗(国防)
南下政策をとるロシア帝国から日本を守るため、北海道を「北門の鎖鑰(ほくもんのさやく)」と位置づけ、国防の最前線としました。
富国強兵と国内問題の解決(内政)
石炭などの豊富な資源を日本の産業化に活用すると同時に、明治維新で特権を失った士族に新たな活躍の場(士族授産)を与え、国内の不満を解消する狙いがありました。
ロシア側としては不凍湖の確保
開拓の担い手と手法
開拓使の設置(1869年)
政府は「蝦夷地」を「北海道」と改称し、開発・行政・防衛を担う強力な中央官庁「開拓使」を設置しました。
屯田兵制度の開始(1873年)
北方警備と開墾を同時に行う「兵農一致」の制度。主に士族が北海道に移住し、未開の地を切り拓きました。
お雇い外国人の導入(1871年〜)
米国人顧問ホーレス・ケプロンらを招き、アメリカ式の近代的な農業(小麦、酪農など)や工業技術(炭鉱開発、鉄道建設)を導入。これが現在の北海道の産業の基礎となりました。
アイヌ民族への影響
開拓の輝かしい成功の裏で、先住民族であるアイヌは深刻な影響を受けました。
土地の収奪
政府は北海道を「所有者のいない土地」とみなし、アイヌが伝統的に利用してきた土地や川、森をすべて官有地として取り上げ、和人の入植者に分け与えました。
同化政策
アイヌの文化や生活様式は「野蛮」とされ、独自の言語、入れ墨(シヌイェ)などの風習、伝統的な狩猟・漁労が禁止されました。日本風の名前への改名も強制されました。
北海道旧土人保護法の制定(1899年)
「保護」を名目に、アイヌを農耕民へと転換させ、日本人として同化させることを目的とした法律。土地を与える代わりに伝統的な生活を奪い、経済的自立を妨げ、差別を固定化する結果となりました。
ロシアとの国境画定
樺太・千島交換条約の締結(1875年)
紛争の種であった樺太の領有権を放棄する代わりに、千島列島全域を日本領としました。これにより北方国境が確定し、政府は北海道の開拓に集中できましたが、樺太アイヌの強制移住という悲劇も生みました。
現代への遺産と課題
明治の開拓は、北海道を日本有数の食料基地へと発展させました。その一方で、土地や文化を奪われたアイヌ民族の苦難の歴史は、現代にも暗い影を落としています。
近年、「アイヌ施策推進法」が制定され(2019年)、初めてアイヌが「先住民族」と法的に位置づけられました。また、国立施設「ウポポイ」が開設される(2020年)など、文化振興の動きが進んでいます。しかし、土地や資源の権利回復、大学などが研究目的で持ち去った祖先の遺骨の返還問題など、解決すべき課題は今なお多く残されています。
北海道の歴史を理解することは、近代化の光と植民地化の影という二つの側面を直視し、日本の多様性と正義のあり方を考える上で不可欠です。
https://gyazo.com/f70df4154493b736b1487126c685bcc8
【43-3】単一民族国家という神話 - なぜアイヌは「先住民族」とされなかったのか【アイヌと近代日本人の形成】
先住民族としての指定について
1. なぜアイヌは2019年まで「先住民族」と法的に位置付けられていなかったのか?
これには、明治時代から続く日本の国家方針が深く関わっています。
同化政策と単一民族国家という考え方
明治政府は、近代的な中央集権国家を建設する過程で、国民を天皇のもとに統合する必要がありました。そのため、アイヌ民族を独自の文化や歴史を持つ「先住民族」としてではなく、日本語を話し日本文化に溶け込ませるべき「旧土人」として扱いました。これが「同化政策」です。この背景には、日本は「単一民族国家」であるという考え方が長らく主流であったため、国内に異なる先住民族の存在を公式に認めることに消極的だったという事情があります。
権利問題の回避
「先住民族」と法的に認めると、国際的な基準では、土地や資源に対する先住権(元々持っていた権利)や、一定の自治を行う自己決定権といった「集団としての権利」を認めるべきだという議論につながります。これは、明治時代にアイヌ民族から土地を奪い、国家を建設してきた歴史と矛盾する可能性があり、政府はこうした権利問題に発展することを避けたいという思惑があったと考えられます。
過去の法律の目的
1899年の「北海道旧土人保護法」は、その名の通り「保護」を目的としていましたが、実態はアイヌ文化を否定し、農耕民として日本社会に同化させるための法律でした。1997年にこの法律が廃止され、「アイヌ文化振興法」が制定されましたが、この時点でも文化の「振興」に留まり、「先住民族」という位置付けや権利については触れられませんでした。
つまり、国家の統一性を重視するイデオロギーと、土地などの権利問題を回避したいという政治的な理由から、2019年まで法的な位置付けがなされなかったのです。
2. 「先住民族」と位置付けられたことで何が変わるか?
2019年の「アイヌ施策推進法」によって法的に位置付けられたことで、いくつかの重要な変化がありました。しかし、課題も残されています。
変わったこと(前進した点):
1. 公式な承認と尊厳の回復
何よりもまず、日本国が法律で初めてアイヌを「先住民族」と明記したことが最大の意義です。これにより、彼らの民族としての誇りや尊厳が尊重されるべきであるという法的根拠が生まれました。
2. 国の責務の明確化
アイヌ文化の振興や産業の支援などを、国や地方自治体の「責務」として明確に位置付けました。これにより、国立施設「ウポポイ」の開設など、具体的な施策が国の予算で行われるようになりました。
3. 伝統儀式の実施緩和
これまで法律で厳しく制限されていた、国立公園での伝統的な儀式のための植物採取や、河川でのサケ漁などが、許可制ではあるものの、以前より行いやすくなりました。
変わらないこと(残された課題):
権利の不在
最も重要な点として、この法律には国際的に先住民族の権利として認められている**「土地や資源に対する権利(先住権)」や「自己決定権」といった集団としての権利が盛り込まれていません。**
批判的な見方
そのため、アイヌ民族や支援者の一部からは、「先住民族という言葉は与えられたが、最も重要な権利が骨抜きにされている」「文化振興が中心で、過去の土地収奪などに対する補償や権利回復には踏み込んでいない」といった批判も出ています。
結論として、民族の尊厳を公式に認めるという象徴的な意味で非常に大きな一歩でしたが、権利回復という点ではまだ道半ばであると言えます。
3. 日本で他に「先住民族」として位置付けられている民族はいるか?
現在のところ、日本の法律で「先住民族」と公式に位置付けられているのはアイヌ民族だけです。
ただし、沖縄の琉球民族(りゅうきゅうみんぞく)も先住民族であると主張しており、国連の人権委員会などの国際機関も、琉球民族を「先住民族」として認め、その権利を保護するよう日本政府に繰り返し勧告しています。
しかし、日本政府は「琉球・沖縄の人々は、独自の文化や伝統を持つが、日本国民であることに変わりはない」という立場をとり、琉球民族を先住民族としては認めていません。これは現在も議論が続いている問題です。
【43-4】私は何人か - 境界が溶ける世界とアイヌのまなざし【アイヌと近代日本人の形成】
アイヌからみた世界
近代日本を作ってきたアイデンティティの複雑性①
いったい何人なんだろうか?
樺太・千島交換条約の結果、日本国籍を選択した樺太アイヌ約850人が、政府の「保護」の名の下に北海道へ集団移住。
x 樺太が日本の領土になったり、ロシアに割譲されたり、などを繰り返す中で、アイヌの人々は樺太から倭人によって連れられて、北海道に移住してきてそこで自分たちの村を作らされた
移住先は石狩の対雁(ついしかり)などでしたが、政府が想定した農業への転換はうまくいきませんでした。
樺太とは異なる環境、不慣れな農耕、そして伝染病の流行により、彼らの生活は困窮を極め、人口も激減。
これまでは、自分たちはその食べる魚をとって野菜を摂って暮らしていたが、北海道という土地では食べきれない分の魚をとって売り、その金でツルツルの衣服をもらって着用している
その服はあったかくて肌にも馴染んできた
これもちょっとしんどいんだよね、馴染んできてしまっていることが。
そして、倭人の言葉(日本語)で教育を受け、相手の話をしていることがわかるようになってきた
アイヌは犬だとバカにされながらも強く生きていかなければならない少年
主人公とは違う友達で、北海道から樺太に来た父を持つ、少年がいる、彼とは仲が良いが、彼はいったい何人なんだろうか、とふと思いに耽る
他人との違いで自分のアイデンティティを理解するはずが、その違いもなんなのかよくわからない状態になっている。どんどんその境目が崩されてきている中で、どう内側と外側の判断をするか。
【43-5】「導く者」たちの迷い - もう一つのアイデンティティ・クライシス【アイヌと近代日本人の形成】
倭人から見た世界
近代日本を作ってきたアイデンティティの複雑性②
西郷さんと軍人?の人が学校に来た
西郷閣下(西郷隆盛の親戚かな)はアイヌの曲で踊っていた、が部下から激怒された
西郷隆盛の弟である西郷従道(さいごう つぐみち)をモデルにしている可能性が極めて高い
我々は未開人を導いて文明を持つ日本人にしなければいけない立場で、未開人の歌を聴いて一緒に踊ってはダメだろうと。加えてご飯を食べることができて教育を受けさせてもらえているのも誰のおかげだ、国のおかげだろ、と。
しかし、樺太をロシアの戦力的に厳しいから渡してしまおうと決めたのは日本という国であり、我々から故郷を奪ったのだ、と。アイヌからしたら。
しかし閣下は、天皇の前ではすでに皆平等であり、未開人も倭人もない、我々だってそうして生きてきただろう、といった
彼らは鹿児島の出身で、薩摩藩か長州藩の出身。彼らもこれからの日本というのを少しは実感しながらなんとか体現していこうとしている
西郷自身も、兄である西郷隆盛とは敵として戦って滅ぼしている、そんな犠牲を払いながら国を作っている
それ以外にも、戊辰戦争の敗者の旧幕府軍側の武士たちも派遣されていた。
彼らは明治政府の樹立に対して最初から一緒にやっていたわけではなくて、対立していて、その後に北海道に飛ばれたという経緯があったりする。
まだ戊辰戦争が鮮明な記憶として、実体験として残っている中で、国づくりのために北海道に来て生活している人たち
そのような状態なので、彼らとしても何が自分たちのアイデンティティであり、何をすることが正しいのか、わからない
そんな中、ある種盲目的に文明という恐怖に背中を押されながら日々生活している
アイヌを「文明化」しようとしていた和人自身もまた、近代国家「日本」という新しい枠組みの中で、自らのアイデンティティを必死に構築している最中だった
この時代は、誰から見ても日本という国としてのアイデンティティを、自分の中で仮決めしてそこに盲目に従い、それをみんなで微調整していきながら感覚を掴む、そんな形で日本が作られていったのか。
時代背景としては、明治初期から昭和の日本敗戦あたりまで。
【43-6】生存か、尊厳か - 支援者の善意が突きつけた問い【アイヌと近代日本人の形成】
支援する人間から見た世界
誰であるか、は生活より大事か
彼はロシア皇帝暗殺計画に関わったとして、サハリン島に流刑になった囚人
そこで生きる希望を失っていたところで、先住民のギリアークと出会い、彼らによって生きる希望をもらったため、何かをしたいと思ったし、知りたいと思った
そして彼は、彼らの言語や物語、儀式をとにかく記録した、アイヌの神謡も記録をした。それだけじゃなく実際に結婚してそこで生活を営む
彼らは文明によって土地を奪われたり、魚などの資源を奪われたりしている。(場所として)
彼らがちゃんと生活の基盤を安定させられるようにするために、彼らにも文明の力を教えてうまく生きていけるようにできないか、と考えた
農業や漁業の技術を教えながら、それで生きていくやり方を教える。感染症のためのワクチンも含めて。
しかし、それをやった後にそこにいるのは、一体誰なのか?
つまりそれは彼らなのか?それとも文明の一人種となるのか?
しかし、生活基盤が脅かされた状態をそのままにしてでも、誰なのか?、ということを守り続けることが大事なのか
彼は、そのような帰路に立たされている民族に対して、一体何をしてやることができるのか
アイデンティティの保存か、生存のための変容か