第42回 経済理論の歴史
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なぜ経済学が発展しているにも関わらず、いまだに経済危機や貧困、国家間の摩擦はなくらないのか?
このような問いに向き合う上で、経済学の理論に大きな影響を与えた3人の人物ーアダム・スミス、カール・マルクス、ジョン・メイナード・ケインズを扱っている書籍をメインに、
彼らがどんな時代を生き、どのような視点で当時の経済問題に立ち向かったのかについて話しています。
スミス・マルクス・ケインズーーよみがえる危機の処方箋 (みすず書房 2020 ウルリケ・ヘルマン)
【42-1】経済学を発展させた3人の学者ースミス・マルクス・ケインズ【経済理論の歴史】
新古典派経済学者たちの行き詰まり
現実を説明できない数式に拘っている状況
1723 - アダムスミスはスコットランドに生まれる
アダムスミスは死ぬ直前に身の回りの書物を燃やしてしまったので、ほとんど人物についての情報が残っていない
女で一つで育てられ、生涯家族をつくらず母親と一緒に暮らしていた
グラスゴー大学に進学したのち、オックスフォードにも進学したが、その教育水準の低さを批判する手紙が何通か残っている
デイビッド・ヒュームと同時代人(12歳年下)であり、手紙交換したりもしている
彼は2年間の実家での生活ののち、グラスゴー大学にポストを得た戻ってきた
そして、1759年に道徳感情論を執筆した
この書籍は哲学的な施策であって、経済学について主として論じているわけではない
タウンゼントは、人口ではイギリスを圧倒するフランスが何故戦争でイギリスに負けたのかを分析する必要性を感じ、スミスにもその研究をしてほしいと手紙を書いている
そこでタウンゼントの息子とフランスへ渡った
パリにはヒュームが大使館に滞在しており、歓迎を受けた
さらに、その後ヒュームがイギリスへ帰る前に、サロンへの紹介状も残してくれた
スミスは重商主義を唱えたことで有名だが、その対抗馬となる重農主義も、この頃のパリで議論されていた
重農主義者たちは全ての富の源泉は自然からもたらされるものだと考えていたが、スミスはこれを批判して、全ての富の源泉は労働にあると考えていた
その後、予定通りフランスでの旅を終えると、1人で国富論を書く作業に長くを費やす
スミスはこの孤独な日々を人生で最も幸せな期間であるとヒュームに手紙を書いている
1776年に国富論が発刊され、ヒュームは死に際にその著作を読み通し、賞賛と批判を仄めかした
それは価格の決定に対する批判であり、後年議論の種となった
1784年にスミスの母親が死に、その6年後にスマス死ぬことになる
死の6日前に全ての未完成原稿が燃やされた
【42-2】豊かになれる理由を根本から考え直したオプティミストーアダム・スミス「国富論」【経済理論の歴史】
スミスが何を乗り越えようとしたのか?
そもそもヨーロッパのように、小さな領域に多くの国がひしめいている場所は少ない
そのため戦争が頻発し、軍備を保てる国だけが生き残ってきた
そして軍備には金がかかる
領主たちは早い段階から貴金属を集めることに躍起になった
そこで取られていた選択は近代的には経常収支黒字を目指す、つまりは輸入するより輸出するという考え方であった
これは重商主義と呼ばれるようになった
いくらかの欠陥があった
まず、みんなが経常黒字を出そうとして関税をかければ、むしろ貿易にブレーキがかかってしまうということ
そして高い関税は国王にとっては有益でも、市民からしたら商品が高くなるというデメリットがあった
また、この発想では貿易はゼロサムゲームなので、貿易摩擦が戦争に直結してヨーロッパは不安定になった
また、イギリスは急激に豊かになったが、それは金銀のおかけではなかったので、豊かさを説明する別の理論が必要にもなっていた
アダムスミスは富の源泉に労働をおき、それが18世紀のイギリスで急成長した理由に分業をおいた
スミスの新しさは、この分業と労働の価値を規定においた経済原理を提案したことにある
そしてその労働の交換として市場の存在に言及している
ここで、一つの有名な説明「個人の自己利益の追求(儲けたい)が結果的に全体
これは個人の利己的行動の擁護として間違った援用をされることが多い
しかしスミスの観点は、マクロな結果がマクロな事柄を束ねても見えてこないという方にあった
スミスは国家を縮小すべきという新自由主義的な立場には立っていなかった
むしろ、特権階級が実質的に国家を支配する状況に対して否定的だった
労働者の運命ー多くのアフリカの王よりも豊か
誰が労働者となり、資本家となり、誰が誰にこき使われるのか?という問い
アダムスミスは、人それぞれの生まれつきの才能の違いなどというものは、大した差ではないと一蹴しており、異なる人間を隔てるのは生まれてからの生活習慣、因習、教育によるものだと考えていた8歳くらいまでの人間にはほとんど差はなく、その後異なった職業に就く頃になって初めて、一部の人間は人間の類似性を認めないくらいまでに広がる
ここでアダムスミスは哲学者を皮肉っている(哲学者と他の人間の違いは、犬の犬種の違いの半分にも満たない
このように機会の不平等性を説いてはいるものの、革命を訴えたりはしなかった
分業は経済に不可欠だと考えていたため
だが、下層に位置付けられる人間にも社会成長の益が渡るようにすべきだと考えていた
賃金を上げると労働者が働かなくなる、などというのは大いに疑わしい理屈であるとした
さらにスミスは累進課税の原型となるアイデアを提案すらしている
そして回収した税を使って学校を作るべきだと考えている。日雇い労働者の子供達にも、読み書き算盤を教えるべきだと主張していた
貿易の奨励
スミスは輸入関税を下げるべきだと主張していた
スミスにとって、輸出入は分業の1形態だった
各国は、それぞれがうまく・やすくつくれる産業をそれぞれ発展させるべきだと考えていた
同時代人は、商業によって他国が豊かになってしまうことや、自国から投資が他国へと向いてしまうことを恐れていたが、それに対する反論も用意している
それぞれのアクターが自分の利潤を最大化しようとすると、自由競争によって利潤が同じ水準へと近づいていく
そして同じ水準であれば、多くの投資家がリスクを最小化するために、自国への投資を増やすことになる
したがって、一時的に他国へ投資が集中することがあったとしても、最終的には自国への投資を好むはずである
この説明の最中に、唯一「見えざるて」という言葉を使っている
また、スミスは現代で言うと規模の経済と言われるような発想にも至っていた
分業が十分に機能するためには、大量生産を消費してくれる市場の存在が重要だと考えていた
【42-3】アダム・スミスの理論の欠点ーなぜダイヤモンドは水よりも高く売れる?【経済理論の歴史】
スミスは価格と利潤がどこから生まれるのか?という問いに対して決定的な答えは出せていない
まず古典的な価値パラドクスについて
需要があるものほど、価格が釣り上がるという理屈で言えば、水がこれほど安く、場合によってはタダである理由が説明できない
逆にダイアモンドはほぼ使い道がないのに高価である
すなわち、交換価値と使用価値は別物である
スミスはこの問題を解決できず、交換方の方のみに焦点を当てた
そしてこの交換価値は、どれだけ労働がついやされたのかによってきまり、労働の価値はその労働者と家族を養うために必要な労働の量によってきまると考えた
労働価値説である
スミスは名目価格と自然価格を分けることで一旦この問題を回避した
名目価格は市場の需要と供給によって決まるとした
そして、名目価格は自然価格へと収斂していくだろうと考えた
この理屈によって、例えば労働量を賄えないくらい価格の安い商品は市場で流通し続ける事ができず、やがて労働価値を前提にした自然価格へ近づいていくという理屈が成立した
スミスの理論は過剰生産による恐慌への視点が欠けていた
当時のイングランドは現代と比べればまだまだ物不足であったため
なお、このような市場による需要と供給の均衡によって価格が調整されるためには、独占状態のないを作る必要があり、当時のイングランドは独占が多かった
政治と商人が結託して独占状態をつくり、生産物の価格を一方的に決めていた
アダムスミスは国富論によって、国が豊かになるには、独占をやめて競争を許可することが結局重要だということを主張しようとした
アダムスミスの理論の二つの穴
1. スミスの概念では、使用価値と交換価値が別物で、かつ交換価値には自然価格と市場価格があるというもので、現実世界を説明するには不十分だった
現実に存在するのはただ一つの価格であり、自然価格という価格は奇妙に映った
2. 企業の利潤がどのようにして生まれるかを説明できていない
利潤は、余剰が生まれなければ生じ得ないが、労働価値説では労働者は自身(家族)の再生産が叶う程度にしか生産を行わないので、どこから利潤が生まれているかが分からない
基本的にこの部分を説明できないので、アダムスミスの価値理論と価格理論は否定されている
リカードの存在
リカードは、アダムスミスの理論を聖典化するのに一役買った
新自由主義と、マルクスの双方に影響を与えているのもリカードの理論である
リカードはスミスの理論の大部分を引き継いだが、やはり利潤の源泉がどこにあるのかという問いには答えられなかった
しかしスミスと違うのは、彼が悲観的な発想を持っていたことであった
スミスは国家全体が豊かになり、労働者を含めた全員が豊かになると考えていたが、リカードは、階級と資本家という概念を登場させ、それらが和解不可能であることを仄めかしている
【42-4】20世紀に最も影響力を持った思想家?ーカール・マルクスの生涯【経済理論の歴史】
マルクスの父親は元々ユダヤ人だったが、キリスト教に改宗した
マルクス自身もその影響を受けた
マルクスは小さい頃から頭の良さを父親に買われており、ボン大学へ入学した
父親は法律を勉強してほしいと望んでいたが、マルクスは詩を書くことに熱中していた時期がある
また、父親からの仕送りを見境なく使っては、金をせびっていた
この二つは父親を失望させるのに十分だった
マルクスは大学時代に、ヘーゲル哲学と出会う
当時のドイツでは、保守的なヘーゲル学派と、青年ヘーゲル派の大きな二つのグループが存在していた
そしてマルクスや一時後者のグループの一員となる
マルクスやエンゲルスがヘーゲルからつけ継いだのは、矛盾と過程によって物事を捉えるということだった
大学卒業時、マルクスは大学教授の職を取り逃した代わりに、ケルンで発行されていたライン新聞での編集員となった(1842年
マルクスは当時そこまで過激ではなく、リベラルな要素をほとほどに留めることでライン新聞の売り上げは伸びていた
しかしプロイセン政府によって43年に発禁に追い込まれてしまった
短い期間だったが、この期間にマルクスは社会問題への関心を深め、文体に分析的・客観的、風刺的なものへと変化させ、知名度も得た
プロイセンからパリに移住した
この時期には、社会を変革するには階級闘争が不可欠であり、そのためにプロレタリアートという階級が生まれるという認識を得るに至った
独仏年始の発刊を目指すも頓挫する(最初の一冊だけ出版された
この書籍の中に、エンゲルスの国民経済学批判大綱が掲載されていた
ドイツ哲学と、自由主義経済理論(アダムスミスなど)を結びつけて考えたのは、最初はエンゲルスだった
さらにエンゲルスは、工場経営者の息子でもあり、資本主義がまさに抱えている課題をよりまじかで見ていた
エンゲルスとマルクスは意気投合し、パリの酒場を10日間はしごして回ったそして生涯の二人の共同研究がスタートした
エンゲルスはマルクスの才能を認め、金銭的に支援する側に回る選択をした
マルクスとエンゲルスは、羲人同盟という共産主義団体に加盟した
そこでマルクスは共産党宣言を書き上げる
ここでは多くの引用される文章が書かれている
「社会の歴史とは、階級闘争の歴史である」
「プロレタリアには、自らをつなぐ鎖以外に失うものは何もない」
「全国の労働者よ、団結せよ」etc..
ここでマルクスは、やはり弁証法的に社会発展を捉えている
封建的社会の中での生産力の増大が、ブルジョア階級を作った
ブルジョア階級はその拡大の中で、封建的関係、家父長的関係、地域的関係などの多種多様な関係を破壊し、それらを全て金銭的関係へと変換した
そしてその結果、ブルジョア階級の支配によって、プロタリアートという階級が生まれ、この階級が資本主義的生産様式を打倒する
当時、パリでも再び革命が起こっていた
マルクスとエンゲルスは急遽ケルンに戻り、新しい新聞を発行した
フランスではすでにブルジョアによる革命が起きているが、ドイツではまだ封建制が残っていたため、まずはブルジョア革命が必要だと考えて、そのような内容を新聞に記載していた
1849年、マルクスにとっての革命は終わり、彼はプロイセンからロンドンへと移住した
そこで経済学の研究を始めることになる
イギリスでは、マルクスは貧困な生活の中で著作執筆を進めた
子供が多く、マルクスも妻のイェニーも金の管理が下手くそだった
エンゲルスも親からの仕送りを止められたので、一族の会社に戻る必要に迫られた
エンゲルスはマンチェスターで一族の仕事をつぎながら、マルクスへ仕送りを行った
マルクスはブルジョアジーを非難していたが、娘たちにはブルジョア的教育を行い、それが多額のお金を必要とした
フランスとイタリア語の個人教育をうけ、ピアノ、絵、歌まで習わせていた
そんな中、1867年に、資本論の第一巻は出版された
しかし二巻と三巻はみかんのまま、彼は死んだ
その後、エンゲルスが彼の残した遺稿を繋ぎ合わせて、2巻と3巻を執筆した
【42-5】なぜ利潤は生まれ、労働者は豊かにならないのか?ーマルクスによる資本主義の洞察【経済理論の歴史】
第四章で、アダムスミスが解決できなかった「利潤はどこから生まれるのか?」という問いへ戻ってくる
マルクスは取引によっては利潤は生まれないことをまず確認した
いわゆる転売的な行為(ある場所で安く買えるものを、別も場所で高く売ること)で、利潤が生まれているわけではない
確かにそれで儲けている人も一部いるが、それが本質ではないと主張している
なぜなら、仮に商人が全てこのような手段で儲けていたら、結局色々なところで得した人と損した人が同じ数だけいるのだから、国全体で見た時には、利益が出てきたりはしない
マルクスも価値の厳選として、労働を選んだ。そしてマルクスがスミスと違って革新的だったのは、労働力もまた商品(交換価値と使用価値を持つ)の一つであるということだった
そして交換価値は、自身(と家族)の再生産によって定義されているが、
使用価値は、より大きな交換価値を生み出すことができる
つまり彼らは自分たちを再生産する以上の労働を行なっており、その余剰分を資本家に掠め取られている、というわけである
しかしこのいわゆる搾取、という構図は資本主義に始まったことではなく、古代ギリシャの奴隷活用の時代から繰り返し行われてきたものである
資本主義で独特なのは、個人の所有権と自由な市場参加というものに覆い隠され、労働者は自ら「構造的に」剰余価値を資本家へと明け渡さざるを得ない状況にあるということである
資本とは、特定のものではなくて、運動である
貨幣だったものが一度市場を経由して、より大きな貨幣となるという運動である
資本家とはこの資本運動を行うもののことであって、ただの金持ちではない
この点が、中世の貴族とは異なる点である。資本主義的生産様式の金持ちは、金持ちであってもより金持ちになることを望む
工場経営者などは、絶えず自身の設備をアップデートする欲求にかられている
他の工場よりも高い生産性を出すことが、市場で一時的に利益を伸ばす方法だから。しかしこれはあくまで一時的である
そしてマルクスはやがてこれが大企業に統合されていくと考えていた。設備をあらゆる面で充実させることのできる一部の企業だけが、特定の部門を支配するようになると。
資本力のない企業は、ニッチな領域を攻めるしかなくなる
今日(現代)のドイツの売り上げをいると、ドイツの企業のうち大企業と言われるのは1%だが、売り上げの68%はこの大企業が産んだものである
【42-6】資本主義は持続不可能?ーマルクスの描いた終焉のシナリオ【経済理論の歴史】
マルクスの論証は、スミスとリカードとは異なる着地を見せる
つまり、自由競争は最終的に自由競争ができないほどに強い大企業の誕生をもって帰結する(弁証法的)
これは新興産業でも見られてる現象である。インターネットが登場し、民間利用が開始してすぐの時点は、ドットコムバブルのような状態で多くの小さな企業が誕生したが、数年もすると、Google, Amazon, Facebookのような一部の企業による寡占状態となり、小さな企業はニッチな領域しか残されていない
マルクスはこのような寡占状態が訪れ、それによって民衆とごく少数の資本家という構図が出来上がり、ごく少数の資本家を打ち倒すことが容易になると考えていた
しかし、実際は資本主義は未だ回転し続けている
マルクスの分析の誤謬
1. 今日の労働者は、マルクスが想定するほど貧しくない。20世紀を通して、先進国は中間層というなの消費者をつくることで、労働者の生活水準を向上させると同時に、資本の運動を後押しした
2. 搾取は存在するが剰余価値は存在しない。労働からのみ剰余価値が生まれるという発想では、人の少ない工場の製造業よりも、人の多い建設業の方が利潤が高いということになるが、現実はそうなっていない。商品の価格を資本家が決定するときに、この剰余価値がどのように上乗せされるかの説明はなされていない
3. 貨幣は商品ではない。マルクスは基本的に金本位制を想定して理論を構築していた。また貨幣も一つの商品であるという発想自体、貨幣にも労働によって表彰される交換価値を持たなければいけないという点で誤っている。信用創造による追加的な貨幣が一体どこからくるのか、ということの説明ができていない
マルクスは間違いも孕んでいたが、その意義は資本主義のダイナミズムを初めて正しく記述したことだった
この後登場する新古典派は、資本主義の運動を記述するのではなく、市場の中で行われる価格と交換価値しか問題にしていない
技術、成長、利益、貨幣などが存在していないかのようである
【42-7】なぜ経済学が進歩しても貧困も経済危機もなくせない?ー現代の主流派・新古典派経済学への批判【経済理論の歴史】
19世紀末期には、アダムスミスの理論も時代遅れだと見做されるようにもなっていた
新しい理論は、合理的なホモ・エコノミクスを前提としたものであった
スミスが解けなかった、なぜ水よりダイアモンドの方が高くなるのか?という問いである
限界効用理論において、主観的効用が重要だとされる。水は述べば喉の渇きが少なくなっていき、最終的には欲しいと思わなくなる
このアプローチによって、個人が自分自身の利益を最大化するためにどのように貨幣を用いるべきかが数学的に導き出せることになる。自分の持っている予算を理想的に色々な富を購入に割り当てる、という我々が日常的にやっていることを説明できる
新古典派理論の主役は「消費者の市場における振る舞い」であり、商品がどのように生産されるか、や資本家の振る舞い、労働の果たす意味などは傍に置いた
このような問題を抱えているが、数式によって説明できるという、学問の形式において重要な要素が含まれているからこそ、新古典派の理屈は支配的な理論であり続けている
新古典派の理論は、大企業の投資による利益拡大をうまく説明することができていない
彼らの理論は、ほぼ完全な競争が存在しないと役に立たない。巨大企業が市場の部分を支配するようになると、競争が抑制されているのが現実である
また、価格がどのように決定されるかにおいては、鶏卵の問題が発生している。企業はある事業を行うために、原料や生産に必要な価格がわかれば、商品生産の限界費用を弾き出すことができるが、ではその原料や生産はどのようにして決まるのか?というループに陥る。つまり商品や消費者といった役者がすでに市場に出揃ったあとで、その価格が調整される過程は論じられるが、どのようにしてそもそもの価格がつくのかの説明はできないのである
また、なぜ利潤が発生するかも説明できていない。シュンペーターが説明しているように、利益は成長がなくては発生し得ない
新古典派の理論で均衡が生じるためには、常に成長し続ける経済は都合が悪い
つまりこれらの理論はミクロ経済を論じる場合にのみ有効なものである
しかし現実で繰り返し発生する経済危機について説明ができなかった。一つには、消費者が貯蓄にお金を回すと、市場に出回るお金が目減りしてしまうことである。こうなると完全な交換は実現されない。労働者が稼いだ何割かのお金は常に貯蓄に回る。
そこで貯蓄と投資が常に一定になることを想定すればいいと考える。貯蓄が増えたら金利が下がり、企業が投資をしやすくなってお金が経済に流れ込む、そして消費者も低金利の銀行にお金を預けておくことが嫌になってお金を使ったり投資したりする。こうして均衡が保たれるのではないか?と
これは事実とは合致していない側面がある。恐慌の際にはマルクスとエンゲルスが言っているように過剰生産が発生している。過剰生産を調整するためのロジックが、新古典派の理論には含まれていない
また、なぜ景気が悪化すると失業者が続出するのかも説明できなかった。労働力も一つの商品なのだから、労働力が余っている時には、労働価格が下がって均衡が実現され、失業者はいなくなるはずだった。
1929年の世界恐慌の時、この理論の欠陥ははっきりと認識されるようになる。アメリカの労働者の4人に一人は失業者となったにもかかわらず、労働価格が下がって均衡状態になるなどということは起きなかったからである
【42-8】 国家は借金を負ってでも失業対策をすべき?ー財政政策の基礎をつくったケインズの生涯【経済理論の歴史】
ケインズは1883年、マルクスの没年と同時に生まれた
1902年には大学へ進学、数学と古典文学を学んだ
ケインズは優秀な実務家でもあった
ケンブリッジ大学にいた時も、大学の管理体制の改善案を出したりしていた
しかし天才、というわけではなく、卒業試験で12番だったが、数学の教授を目指せるほどではなかった
父はこのことを残念がったが、ケインズは経済学に関心を寄せていた
アルフレッド・マーシャルや、アーサー・セシル・ピグーらと出会ったが、ケインズは結局インド局(インドの植民地の監督担当)に就職した
しかしそのインド局では仕事がほとんどなく、博士論文の執筆を行った
1909年(26歳?)の時に、キングス・カレッジのフェローとなった
その後、インドの通貨と金融という本をかき、王立委員会でインドでは金本位制を組織すべきか?植民地に自前の中央銀行をつくるべきか?などの問題を検討することになり、ケンブリッジ以外にも名を知らしめた
その後、第一次世界大戦が勃発し、イギリスの銀行の多くが倒産の危機になると、政府が対応を迫られ、当時の大蔵省の人材では対応しきれないと判断され、ケインズに助言の依頼がなされた
また、スペイン通貨のペセタが必要になった時は、為替をコントロールするために、先に保有していたペセタを全額売り払って、通貨の価値自体を暴落させ、後から安い金額で買い戻した
それから有名な、パリ講和会議のイギリス代表団に入った
しかしここでケインズはフランス側が途方もない額を要求していることに大きな嫌悪感を持っていた
1919年にはこの職を辞め、平和の経済的帰結を執筆した
ケインズはその後、自分の資産を使って為替や株式投資を始めた
特に世界恐慌の時、多くの会社の株式が過小評価されたタイミングで、自動車株、輸送船メーカー、航空機メーカーなどに投資し、23倍まで資産を増やした
その後ケインズは新古典派経済学への批判的な視点を強めていく
第一次世界大戦が終わって、イギリスは金本位制に復帰しようとしており、ケインズはそれを止めようと著作活動を行った
しかしそれも虚しく、金本位制は導入されてしまい、物価は下落し、失業率は高まり、企業の収入も減少した
利子を受け取る側と、すでに資産を持っている者だけが得をした
当時の新古典派の理論では、物価が上下によって失業率が継続的に増加することないし、一時的な不況への処方箋も提示されていなかったため、ケインズはこの理論に限界を感じていた
ケインズはここで、当時は当たり前ではなかった赤字の財政支出(財政政策)によって状況を打開することを考えた
1億ポンドを支出することを提案し、それがいかに経済合理的かを説明する著作をかいた(ロイド・ジョージにそれができるか)
まず雇用の不足がいかに国家の経済に悪影響であるかを説いた
社会保障という形で失業者に補助金を払わなければいけないことは勿論、完全雇用が実現していた時のGDPの増加がいかに大きかったかを示した
また、のちに乗数効果と呼ばれる、「ある人の所得は消費へとつながり、別の人の消費へとつながる」という雇用による間接的な効果のアイデアもすでに盛り込まれていた
しかしまだケインズは、この対応策が、経済理論全体への影響が大きいことを認識していなかった
ケインズは1930年に貨幣論(ケインズ)を発表したが、彼自身この著作には満足していなかった
そこでは、利子率によって国民経済をコントロールするという話が記載されていた
しかし実際世界では、世界恐慌が起こり、ドイツの賠償金支払いもストップしていたりと、利子率だけでは経済はどうにもならないことが誰の目にも明らかだった
利子率をゼロ付近まで下げても、活発に融資が行われて好景気になる、という理屈通りにはいかなかった
銀行は貸し倒れリスクを大きく見積ったし、企業もこれ以上の売上拡大に消極的だった(不況の時は過剰生産になる)
それから1936年、上記の課題を解決した雇用、利子および貨幣の一般理論を出版した
1937年以降は、心臓の病にかかったが、第二次世界大戦時にはそれなりに回復し、ここで初めて生産量を基準とするGDPという概念を作成した
当時の国民の豊かさを計算するための指標は全て、生産量ではなく、物資の量を基準としていた
戦後の新たな通貨体制についての交渉を行うため、アメリカとイギリスを行き来する生活を何ヶ月も続けた結果、ケインズの心臓病は悪化していき、1946年4月に心臓発作でこの世をさった
【42-9】なぜ経済学は失業と恐慌を止められないのか?ー人間を「非合理な存在」として扱うケインズの理論【経済理論の歴史】
雇用、利子および貨幣の一般理論
一般理論、というタイトルは実は非常に挑発的であった
好景気の時でも、不景気の時でも成り立つ一般性を持っていると主張していた
新古典派の理論は、完全雇用が行き渡っている状況でしか使えない特殊的な理論だというわけである
また、貨幣という単語をタイトルに含めていることも、貨幣は透明な価値の表現手段ではなく、それ自体資本主義において非常に大きな意味を持っているということを含意していた
新古典派理論が高い失業率に対する処方箋を提供できていない理由は、労働市場を他の市場と同様のものだと考えていたためだと、ケインズは考えた
つまり例えばジャガイモの市場のように、商品が余った状況では、価格が適正まで下がるだろう、ということ
しかし当時(1929)のアメリカでは失業率は25%にまで増加していた
労働賃金のこのような調整が何を意味しているかを考えると、
労働者が余ると労働賃金が下がる、そして企業のコストが下がり、物価も低下する
物価も低下するということは、売上として受け取る貨幣量も減少し、結果的に経済が名目的に縮小しただけで、経営者目線で見ると何も得していない
つまりマクロ経済において「労働市場だけの価格調整」を考えることは意味がない。労働以上における労働費用の削減は、マクロではデフレが起きているだけに過ぎない
ミクロに考えれば、商品の値段や、労働コストの価格的調整で、個別の企業や個人が得をすることは説明できるが、それ以上の説明を行えてなかった
(ケインズが、一般理論というタイトルで言いたかった、一般の意味はここにもかかっている)
ケインズは、人々が失業してしまうのは、需要が枯渇するからであり、需要が減少するのは人々が貯蓄をするからだと考えた
元々新古典派の理論では、貯蓄は悪いことだとは考えられていなかった
過剰な貯蓄は、金利の低下によって借金のコストが下がって企業がお金を借りやすくなり、お金を預けておくメリットも下がって消費が喚起されると考えていた
新古典派にとって、利子は貨幣量から生じる数字だったが、ケインズはそれ以上に、将来への不安を表現したものだと考えた
消費者は利率が変化すると銀行に預ける金額を変えたりはしない。むしろ、収入の増減が貯蓄率を決める
経済が均衡するためには、貯蓄される金額と同じだけの金額が投資されなければならない
しかし実際、投資は全く安定しておらず、金融市場への投機という不安定なものに支えられている
誰かが債権を手放せば、本当はその債権の資本利益率は上がっているので、購入すべきタイミングかもしれないが、多くの場合会社が倒産するリスクを犯したくないので、金融市場からの撤退が連鎖する
ケインズのテーゼは、人間はホモエコノミクスにはなれないということ。そしてホモ・エコノミクスになったとしても、未来のことは分からないのだから、投資家を合理的な経済人として扱うことはできない、というものだ
それゆえに、新古典派の理論はこの点で欠陥がある
銀行や証券取引所では、自分がどの程度リスクを取りたいかということを聞かれるが、実はこのリスクとは全く計算できないものである
ヨーロッパで戦争が起こるかどうか、二〇年後に銅の価格と利子率がどうなっているか、新しい発明がどれくらい古くなっているか、一九七〇年の社会秩序のもとで個人資産がどのような役割を果たしているか。こうしたことはすべて不確実だ。こうしたテーマについて、何らかの形で計算可能な確率を挙げることを許すような科学的基礎は存在しない。単純に、われわれはそれを知らないのだ」。
ウルリケ・ヘルマン. スミス・マルクス・ケインズ――よみがえる危機の処方箋 (p. 297). (Function). Kindle Edition.
我々は自分の行動の正しさを見積もる前に、行動しなければいけない
そのために、自分が合理的な経済主体である面目を保とうとする
ケインズが説明する3つの例
1. 未来は現在と全く同じであるかのように仮定すること
2. 1.の確信を得るために、今の株価は企業の将来の価値を正確に表彰していると考える
3. 2.を疑い始めると、大衆の動向が正しいのではないかと考えるようになる、大半の人間が間違えていることなど、あるはずもないと考える
これをケインズは有名な美人コンテストの例で説明している
美人を選択するという問題なのだが、賞金がもらえるのは、多くの人が投票した美人を選んだ人であるという
全員が全員の行動を読み合うという複雑な状況
これらによって、ケインズはなぜ市場が単純に均衡へと向かうものではないのか、失業がこれほど頻繁に発生するかを説明することができた
国家による介入
中央銀行による金融政策では、冷え切った市場では効果がない(金利を下げても誰もお金を借りない)ことがある
財政政策を行なう必要がある
金を適当なところに埋めておいて、掘り出す事業をやってもいい
乗数効果があるので、直接の支出は少なくても景気を刺激する効果がある
資産家は過剰な貯蓄によって経済を鈍化させてしまい、そこから自分自身で復帰する事が難しいので、国家が必要となる
【42-10】資本主義の分析はなぜ失敗するのか?ー新自由主義の台頭と失速したケインズ学派【経済理論の歴史】