第38回 科学の解釈学
SYUMIGAKUの第38回目のシリーズでは、「⁠⁠科学の解釈学 (講談社, 2013) 野家 啓一 」について話しました。
本書は、科学哲学という哲学ジャンルにおいて日本でいくつかの著書を出版されている野家 啓一が1993年に執筆し、2013年に改訂版が出されているものです。
近代科学という、現代社会の基礎となっている営みについて批判的・哲学的に考察し、そもそも科学というものは人類にとってどのようなものなのか?ということを歴史的に考察しています。
台本などは、こちら にまとめています。
【38-1】科学の限界?ー権威と一体化した現代科学を哲学的に検討する【科学の解釈学】
本書のモチベーション
科学を信仰した結果、悪しき理解に陥っていることがあるのではないか?
科学における客観性はしばしば神話化されてしまっている
デカルトやパスカルは、旧来の知識への異議申し立てとして科学的啓蒙主義を訴えたが、今となってはミッシェル・フーコーが論じた「権力」そのものとなっている
科学哲学とは?
まず、今の科学こそが客観的な認識の絶対的なものであるという視点を疑う
よくあるこの手の言説はそこまで深くない
科学的正しさよりも、個々人の幸福追及の方が大事、みたいな話で終わってしまう
それは実際そうかもしれないけれど、哲学ではない。(というより論点のすり替えに近い
科学という営みは、人類にとってどのようなものなのか?ということを考えていく
その中で自ずと科学は相対化される
野家 啓一 さん。科学哲学をやられている方。北大の教授
2013年に出された本で、当時の「のえさん」は60歳くらいなので、キャリアの集大成的なものになっている
今回の本では、科学という営みを解釈する上で、現代思想から多くの知見を得ている
ハンソンとクーンの「新科学哲学」を骨子としながら、構造主義、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム、フッサールの現象学などいろいろなものを使っている(後から説明します
【38-2】「科学的」といえる条件とは?ー科学の発展を説明するハンソンのパラダイム論【科学の解釈学】
ハンソンの哲学が突き崩す、近代科学の前提
まず科学の前提とは論理学であり、「公理と演繹規則を持った形式的体系」こそを、真理へ近づくための有用な手段とみなすものである
公理と演繹規則については、数学が最もわかりやすい
例えば、ユークリッド幾何学の5つの公理
この枠組みの中で、いろいろな定理を発見できる
物理学では数学という枠組みの公理を使う
ニュートン力学では、絶対座標軸と、いくつかの少ない法則(運動方程式とか)を使って、あらゆる物理運動を説明できるとする
そしてオッカムのカミソリ的に、より少ない公理で多くを説明できる理論こそ、優れている、とみなされる
つまり、公理といくつかの法則を想定するだけで、その空間で起こりうる全ての現象を説明できる、ということ
数学があるだけでは世界を説明することにはならない
では、法則が現実世界をうまく説明できているとはどのようにして示すのか?
実験による検証 = 反証可能性
もし既存の理論でうまく説明できない事象が観測されたら、理論がアップデートされていく
科学は観察と理論の二つが存在していることによって、世界の説明としての正しさを保証しているとする
しかし、ハンソンは「そんなに綺麗に進歩してなくないか?」ということを指摘した
ハンソンの指摘の主たるポイントは、観測の客観性への指摘である
観測が客観的であるから、恣意的な理論が正しいことが証明される
しかし実際、観測というのは観測者がいるのであって、「どんなふうに世界を観測するか」は観測者の主観次第である
どんなふうに世界を切り取るのか?
ある理論を正しいと受け入れている人がどれだけ観測を続けても、その理論に合致する観測結果を量産するケースの方が多い
なぜなら、その理論であらかじめ観測するべき項目が定められているから、そのような切り取り方しかできない
例えば、アリストテレスは天上界と地上界は別々の法則に従っていると考えていた
このような理論に従って観測を続けていて、「実は同じ法則でした」という観測による反証が出てくるだろうか?
ハンソンは、理論は別の理論によって打ち倒されることでしか、交代しないと考えた
どこかの誰かが、突拍子もない発想で「地上と天井、同じ理論で説明できないかなー」といって理論を考えだし、その正しさを証明するための観測をしたり、昔の観測結果を自分の理論で再解釈することによって初めて、自分の理論の方が正しかったという新しい視点に移ることができる
つまり、観測は理論に(完全ではないにしろ)一定依存している、ということができる
これを「パラダイム転換」と呼ぶ
そしてある時期のパラダイムは、その時期の「科学共同体」によって規定されることにとる
つまり、何が「科学的」で、何がそうでないのかを判定する基準をみんなで共有する
大学で論文を書くと「それじゃ研究にならない、論文にならない、感想文にしかならない」という発言がよくなされる
つまり、ある一定の枠組みに則って論証されていなければ、科学的だと認められない
これは数十年単位で変化する
今日、科学的だと言われているものは、100年前はそうでないと言われたかもしれないし、その逆の方がケースとしては多いだろう
例えば統計的に優位だから証明したことにします、という言い方は、数百年前は認められなかっただろう
パラダイムがあることによって、科学者共同体は、一定の目標に向けて組織される一種のギルド集団となれる
パラダイム間の競争は、証明によって決着をつけられるようなものではない
パラダイムからパラダイムへ乗り換えるのは、いわば改宗である
前回、山田さんの会で経済学と社会学はパラダイムが違う、という話をしていたが、そういう類の話である
科学の解釈学においては、このパラダイムを飛び越えた解釈というものか如何に可能かを問題とする必要がある
異なる科学同士、あるいは異なる時代同士における異なるパラダイムは解釈可能なのか?ということ
【38-3】言語行為としての科学ーウィトゲンシュタイン哲学からの影響【科学の解釈学】
前回までのあらすじ
近代科学の前提を疑う、という話をした
ハンソンという思想家は、科学が観測と理論という2軸があり、理論が観測によって修正されていく、という進歩観を否定した
ある理論を信じる人が実験(観測)をしても、それはその理論のパラダイムの内側で観測行為を行っているだけに過ぎない、という批判があった
どんな概念を使って現実世界を数値化するか、ということがそもそも理論に依拠している
例えば、物体は質量と速度などのパラメータを持っている、と考えるのはそういう理論(ニュートンとか)を知っているからであって、それなしに現実世界を観測して数値化しようと思いつきはしない
まず理論(現実を捉える枠組み)があって、そこから観測がある
実例として、質量の概念はニュートン力学とアインシュタインの相対性理論の中では異なる概念になっている
この発想を理論負荷性という
何かを見ることは、すでに何らかのパラダイム(枠組み)の中での経験である
このような発想は、科学哲学の中では20世紀後半になって特に強まった
ウィトゲンシュタインの影響が大きい、と著者は書いている
ウィトゲンシュタインは分析哲学などの領域で超有名人
ウィトゲンシュタインは論理哲学論考と哲学探究という二つの著書が有名で前期と後期に分けられる
近代哲学は、人間理性限界を追求する運動だった
デカルトに始まり、カントやヘーゲルをその頂点とする
20世紀には、それを言語活動に置き換える試みがなされた
人間は言語で考えるものであるから、 言語の限界が、理性の限界ではないか?ということ
前期のウィトゲンシュタインは、哲学的命題を現実世界を言語世界に写像したものとしておき、その写像を明晰にしていくことができれば哲学的な問題は全て解決できると考えていた
どれほど複雑に見える命題も、そこに登場する言葉を要素命題へと分解していき、現実世界と1対1対応するところまで小さくすれば問題なく解くことができる
後期のウィトゲンシュタインはこのような言語観を退けた
言語は分解していったり、現実世界と対応づけすることによって何かが明晰になるわけではない。と考えるようになった
言語はそれ自体として完成された体系である
チェスのルールのようなものだ、ということ
色々な生活世界のなかで行われる行為を、まとめて「言語ゲーム」と呼んだ
言語ゲームは難しいが、要は人が何らかの行為をすることは、常に何かチェスのように、その枠組みの中でのルールを前提にして展開されている、ということである
例えば、手をあげるという行為は、どんな状況で行うかによって意味が異なる
道端で手を挙げると、道路を渡りたいのかなとか、タクシー呼んでいるのかな、とか
教室とか、会議の場で手を挙げたら、発言したいのかな、とか
歯医者で手を挙げたら痛いのかな、とか
同じ行為も枠組が変われば意味することが変わる
そして、行為している本人だけではなく、「見る側」の意味の受け取り方も変わる
この発想が、「何かを見ることはすでに何らかのパラダイムの中の経験だ」というテーゼにつながっている
ウィトゲンシュタインはゲシュタルト知覚という例を挙げている
ルビンの壺とか、ジャストロー図形などがある
https://gyazo.com/52337dac7abff7c4aea5d662c40e1943
https://gyazo.com/d7a52e5311e52547166d0561ed808cd5
これらの図形は、同時に一つのものとして認識することしかできない
しかし、別の見方にシフトすることも容易である
科学の現実への認識も、また同じように「ある見方」を提示し、その中で観測したものを数値化しているといえるのではないか?
というのがウィトゲンシュタインを系譜とする理論負荷性である
【38-4】近代科学の倫理観?ー物語によって醸成される科学への信仰【科学の解釈学】
ユヴァル・ノア・ハラリが論じてるように、人は嘘(フィクション)を信じることができる
ハラリは貨幣や宗教がその最たるものとして論じている
嘘で作られたストーリー、それを信じることで人は団結できる
科学だけがこのフィクション性、物語性とは切り離されているか、というとそうではないのでは?
科学にはサクセスストーリーが溢れている
ガリレオの振り子の当時性、ニュートンの万有引力発見、などなどの物語
これらの物語は、科学が自身の地位を確立するために必要不可欠なものであった
基本的に私たちは、子供の頃にこういうストーリーを読み聞かせられて、真実を追求する偉人の姿、というものを刻まれている
科学のサクセスストーリーは科学のイデオロギー的基盤)を持っている
近代(モダン)とは、真理と正義が表面上は分離している
科学は価値判断を行わない。政治や倫理とは分離されている、という発想が一般的に広まっていた
しかし実際には、実際にはそれら(真理と正義)が互いに補完し合う「メタ物語」を作っている
あらゆる科学の物語は人が真理を発見する感動と、その結果社会が発展するという正義を描き出す
従って、科学そのものは正義(倫理)の問題を扱わない、という顔をしながらも、科学的な帰結に従って社会を構築することに反発するのは不正義だという主張をメタ的に導き出す
それは政治権力と結びつくことでフーコー的な意味での「権力」になる
そのメタ物語が徐々に失われてきた過程が、ポスト・モダンである
著者は、科学のストーリーを、騎士物語のビルディングスロマンと照らし合わせて描いている
騎士物語は、見習いの騎士が冒険して、綺麗な女性と出会ったり、悪い人たちに支配されている人々を救って平和を築く、みたいなものとしておいている
騎士同士の試合のような立ち位置に、「決定実験」というものがある
これは異なる理論が互いに矛盾する実験を行うことで決着をつけるものである
ex. ガリレオのピサの斜塔における落体実験、エーテル説に陰道を渡したマイケルソン=モーレーの実験、一般相対性理論を確証したエディントン隊による日蝕観測など
これらの内容はどれも重要な意義を持っているが、メタ物語という視点で見れば、啓蒙と進歩という印象を増幅させる神話作用を持っている
また、この中で「検証可能な知」の素晴らしさを示し、そうではない(検証不可能な知)と科学を区別することがいかに有用かを示した
こうして科学の歴史は、真理を蓄積していく営みであるかのように描き出される
しかしそももそも、決定実験自体が単純には成立していないケースも多々ある
光の波動説、粒子説を決定づけるとしたフーコーの実験は、確かに光の波動説こそ正しいものだとするものであった
しかしこれによって決着がついていないことは周知の事実であり、実際にはその後の量子論が正しいパラダイムとして認知されている
実際、理論は反証する例が見つけ出されても直ちに全てが捨て去られることは少なく、より良い理論が登場するまでは、部分的修正、アドホックな仮説や例外として隔離してやり過ごすことが多い
つまり、決定実験が時代の流れを分ける世紀の事件となることはほとんどなく、むしろ後から支配的となった理論が、それを「決定づけたシーン」として演出されることの方が多いと言える
そうなると、検証と反証という手続きの決定的な地位も揺るがされることになる
(まとめ)科学もまた、一つの物語という側面を持ち、特にたくさんの論文を読まないような我々が科学を信じているのは、幼少期から科学のサクセスストーリーを聞かされてきたからではないか?とも思えてくるかもしれない
【38-5】科学的に証明する、とはどういうことか?ー科 学の言葉と日常の言葉【科学の解釈学】
経験世界と論証世界
我々がリアリティを感じる領域は、二つに分けて考えることができる
主観世界と客観世界、のようにいうことができるかもしれない
これは、経験と論証とも言い換えられる
前者は、生活の中で使われる日常的な言語にその根拠を持つ。後者は「概念枠」の共有にその根拠を持っている
それゆえ、〈経験のアプリオリ〉が、生活世界のカテゴリー的分節化の共同性を保証することによって、言明の意味理解すなわちコミュニケーションを可能にする条件であるのに対し、〈論証のアプリオリ〉は言明の「妥当性」や「評価」に関する公共的な討議、すなわちメタ・コミュニケーションを可能にする条件だ、
野家啓一. 科学の解釈学 (講談社学術文庫) (p.95). 講談社. Kindle 版.
これはユルゲン・ハーバーマスの議論に依拠している
前者はカテゴリー的意味(厳密性を取り払った)の条件を形づくり、後者は「妥当性要求」の条件を形作っている
我々は、生まれた時から科学的な枠組みで世界を捉えることはないし、科学者であったとしても常に科学的な枠組みで世界を捉えているわけではない。日常世界での経験は別物である
雲は水蒸気の塊であるという認識が科学的であったとしても、我々は日常生活で雲を「雲」として経験する
暖かいものが実際には分子の運動の平均であるとしても、我々はそれを「暖かい」として経験する
前者は我々の生活の「リアリティ」を規定しているのに対して、後者は「客観的とみなされる事柄」を規定している