第36回 10分で哲学史 (史上最強の哲学入門)
挨拶
よろしくお願いします。
今回はなんですか?
10分で哲学史やります。
なんで?
史上最強の哲学入門という本を紹介
この本は、初心者向けにとても完結にストーリーだってまとまっているから、非常にわかりやすい、刃牙に一応習っているw
表紙も刃牙の作者に書いてもらったらしい
本書は、哲学が題材として扱うものを、真理編、国家編、神編、存在編、の4つに分け、そこに関連する哲学者の思想を紹介している
分け方に違和感がある方もいるかもしれないが、一旦本乗っ取る形で進めていく
このうち、真理編、に絞って今回は話をしていく。THE 哲学、と呼べるところ
ですが、普通に話をしていても面白くないので、3分でアウトラインを話して、そのアウトラインを常に示しながら、そこに注釈をつけていく形で話していく、という挑戦をできたらと思っています
初めて哲学を勉強しようとした時に、いろんな人がいろんなことを言ってるけど、結局何がどうなったの?誰の話が正しいの?(正しさというのはないが)、となって、一人一人の話は面白いけど、歴史的な前後関係や全体像を掴みにくい印象があった。
一人一人の話も面白いのだけど、そうじゃん!いやちゃうんか!でも確かにそうだ!いやちゃうんかい!を繰り返すことの楽しさを感じてほしい
ので、哲学史の全体の流れへの注釈という形で話をしていけたらと思っています
哲学に馴染みがないけど、勉強してみたかったという人には、きっかけとなるコンテンツにできれば
今回の話はもちろん、我々よりも知識があるリスナーの方も大勢いらっしゃると思うので、そういう方々は、もちろん復讐としても使えるコンテンツにできたらと思いますし、
ああ、この人の話から本当は、あの人が別の思想を立てて、みたいなサイドストーリーを無限に思いつけちゃうと思うので、そういうのを考えながら、もしできたらSpotifyのコメント機能というのもあるので、そこにコメントをしてもらったり、Xの方で、「#趣味学」でコメントをしてもらえると、全員で学べるコンテンツを作っていけると思うので、ぜひお願いできらと思います。
いいコンテンツがあれば、説明欄に貼ってあるScrapboxの方にある台本に、貼り付けていこうと思います
流れ
人々は神話によって定められた価値観に則ったルールの上で生活をしていた
例えば、これは犯罪、こうやって儀式をする、など
しかし、農耕によって一つの集落で多くの人口を養えるようになり、集落が統合されていったり、交流が始まった
そうすると、絶対的だと思っていた価値観が違う?神話も違うの?と気づき始める
(プロタゴラス、人それぞれじゃん)
そこで、プロタゴラスは絶対的なものなんてなくて、集団、人、それぞれに重要な価値観があり、何が正義か、正しいか、も変わるんだよ、という相対主義を打ち出す
tanimutomo.icon 多様性とかにも似た概念だよねぇ
この相対主義が、弁論(相手を議論で打ち負かす)が重視されていた政治家に重宝され、それが知識・頭の良さだとみなされていった
(ソクラテス、ちゃんと正しいものを考えようよ)
それに対して、ソクラテスは、それって考えること放棄してない?政治においてそんなことしていたら何の政策もできないし、法律もできなくない?といった
そしてソクラテスは、みんなにちゃんと考えてもらうために、口だけ上手く言ってる人たちも、みんな何も分かってない、ということを自覚させるために、「それってどういうこと?」という質問をし続けた。これがいわゆる「無知の知」
(デカルト、疑えないのは自分だけ)
それってどういうこと?本当にあってるの?を限界まで疑い続けたのがデカルト。2+3=5も悪霊がいてそれがあっていると夢を見せているだけだ、という疑いまでするようになる。狂ってる。
そして、デカルトは、「疑ってる自分」がいる、ことは疑えないのではないか?それを疑ったとしても、またその疑っている自分がいることは事実であり、、とループするから、これは疑い用のない事実だと。これが「われ思うゆえに我あり」。
(ヒューム、全ては経験だ)
これに対して、ヒューム、デカルトの我、という概念は、もっと分解できて、何か継続した痛みなどの感覚を経験することで、私、というものができているだけじゃないか、と言い始めた
つまり、私とかそういう単位ではなくて、経験が全てであり、神も科学も経験から想像したものにすぎない。ちょっと相対主義的なより戻しがきた。
(カント、人間の共通ものだけを考えよう)
これに対しカントは、経験が全てだとしたら、数学とか、異なる経験をしてきた人間同士が同じ結論に至れるのおかしくね?人間には、時間と空間で経験する、などの共通の様式があるから同じ結論至れるわけで、そこを突き詰めることで真理の探究はできるはずだ、と。
しかし、人間にわかるのはせいぜい3次元のことだけだ。それでわかることが本当に正しいかはわからない。未知の10次元生物が出てきた時に間違っていると言われる可能性はある。でもそれでいいじゃないか。人間がわかるものの中で探究していこうよ、と。
(ヘーゲル、ぶつけて新しい考えを作って探究していこう)
カントはゴールを示してくれた、そこに方法論を提示したのがヘーゲル
弁証法という、横てる人は見たら長方形、上から見てる人は円、という議論をしているときに、じゃあ円柱じゃん!という両方を兼ねる答えを見つけていくことで探究していけるじゃん!
(キルケゴール、命をかけれるものが真理じゃないのか)
んなこと言ったって、じゃあいつ真理に辿り着くんだ、何が正解なんだ?そんな終わりのない存在を追っていても意味がない。
人類にとって、とかじゃなくて、自分自身が、そのためなら死ねる!というものが真理じゃないか、と。
(サルトル、何がいいかわからんけど、どうせなら大きいことをやろうぜ)
いやいや、んなこと言われたって、そんなもの見つからねーよ!どの価値観、思想を信じたいいのかわからない、それを決めるための価値観もわからない、、人間は自由と言われながらも、選択の責任を引き受けなければならない、選ばなかったとしてもだ。
何が正しいかなんて誰にもわからない、何もしなくてもいいかもしれない、でもせっかく生きるなら、間違ってるかもしれないけどできるだけ大きい選択を決断して行動しようぜ、と言って若者を奮い立たせた
(レヴィ=ストロース、その先に何があるの?進歩なんてねーぞ。)
これと決めて行動し、対立して発展して、を繰り返すことで、本当に我々は前に進んでいるのか?進歩しているのか?
我々西洋人が遅れていると思っていたアマゾンの民族の人たちも、我々が何百年もかけて探究した数学の構造を使って、ルール作りやコミュニティを運営しているぞ?東西でも発展の仕方が違うだけで、インド・仏教哲学の方が先に同じこと言ってるよ?直線的に進歩していくなんて傲慢だろ
(デューイ、真理じゃなくて役に立つことを考えよう)
2回の世界大戦、核爆弾の発明、ホロコーストによる大量虐殺。これが理性によって発展した人間の活動である。こんなものが人間の発展の行く末あっていいわけがない。
そこでデューイは、理性で真理を追い求めるというのはやめて、何が役に立つのか、をもっとちゃんと考えよう、と言った。人を殺すのが悪いのだって、何のためにそのルールがあるのか、を考えればわかるでしょう。みんなが安全に暮らすためだよ。
(デリダ、そもそもそのやり方や営みの前提がおかしいではないか)
また、デリダも、そのような西洋中心の理性一辺倒のやり方を否定した
これまでの先人たちの残したものを可能な限り書いた本人の意図を解釈して作り上げるやり方を否定し、我々で解釈をして構築していこうよ、という新たな方向性を示した
(レヴィナス、全部わかるなんてない、それでも続けていこう)
全部否定はしない。学問が発展した結果、物理学においても数学においても限界が見えてきていることは事実であり、それは哲学においても同じことである。つまり、どんなに探求をし続けても、完璧な理論を構築しようとも、説明できない他者が枠の外に存在してしまう。
しかし他者がいて、それでも真理を求める気持ちを持って向き合い続けるからこそ、我々は新たな可能性や理論を作っていけるのではないか。その他者の存在と、真理を求める人類の想いは真理ではなかろうか。
2️⃣
bc 485 - bc 410
ギリシャ
絶対的な真理なんてない、人それぞれ
ソクラテスより有名だった
農耕によってできた
説明できないことを神話に納めていた
犯罪も、決まり事も、場所によって正義は違う
しかし、農耕によって集落が集約されていくことで、差異に気づきはじめ、それにより絶対的なものはない、という認識にいたる
相対主義でなにを重要にするか、正義は何か、を変えることで白黒を反転させられるため、その当時の弁論が重視された政治家において重要だったので流行った
bc 469 - bc 399
ギリシャ
人それぞれよね、の方がまともに見える?
真理への熱い気持ちがなくなると、何も考えようとしなくなる
実世界との接触においては考えなければならない
民主主義においてはすごく重要で、何が正しいか、を徹底的に議論してから投票が行われるべき
そこで相対主義に陥ると、誰もが考えることを放棄することにつながるので、民主主義が機能しなくなる
口の上手い、扇動政治家が当選してしまう
何も言ってない、見せかけのセリフだけの人間
これは今のポピュリズムと全くもって同じ
下手にこうあるべき、とかいうと、相対主義で刺される可能性があるので、相手の批判をするか、抽象論をかざしておくのが1番有利であり、楽。
そこで出てきたのがソクラテス
バカなふりをして、相手の話の定義を深掘りし続けたりする
質問する側が攻撃者になるので、質問される側はいつか行き詰まって敗北する
ここですごかったのが、ソクラテスは相手に勝ちたかったわけではない
わからないよね、だから適当なこと言ってないで、ちゃんと考えようよ、と言いたかった
真理に対する熱い欲求をとりもどしたかった
だからソクラテスは、聞かれても自分はわからない、と答えていた
相対主義への問題提起の方法としての無知の知だった
社会に真理探究の欲求を取り戻したかった
それに対して特に若者は熱狂し、弟子入りを志願するものが増え、有名になった
しかし、ソクラテスによりわりをくった政治家は彼を、若者を堕落させた罪、で死刑宣告する
だが、いつでも逃げられるようになってらしい、しかし罪を認めれば、だが。逃げるということは戦わない、勝てない、ということだから。
しかし、それでも逃げなかった
そこからプラトンなどが生まれていく
その後キリスト教の勢力が強まり、神学をベースとした哲学になっていく
が、ルネサンスによる古典回帰、宗教改革によるキリスト教への懐疑、などにより、論理をベースとした真理探究や哲学に戻っていった
そこから理性ベースの近代に入っていく
ここにでてきたのが、17世紀のデカルト
tanimutomo.icon めも
この辺の話で行くと、よく話に上がるのは、声がでかいやつとか、とにかく何か反論するのがミーティングおける価値で、昇進の鍵になる、みたいなケース
DeNAのなんばさんと住吉さんというエンタメ事業本部の役員の人言ってた
結論を必ず出さないといけないわけではないので、わからないよね、ここは、と積極的に言う役が必要、と。
それによって戦いの熱を冷まして冷静な議論にしむけるらしい
例えば機能とかデザインでAかBか迷ってて、どっちがいいかなぁ、みたいな時に
これはミーティングにおけるソクラテス
3️⃣
1596 - 1650
フランス
哲学以外にも数学に通じていた、デカルト座標
数学とは公理をベースとして、定理が作られていくもの
公理が同じなら、誰でも同じ結論に至る
哲学においても使えないだろうか?考え始めえた
それまでの、俺はこう思うというのをベースとした、XX主義や、YY説などに飽きおり、誰もが納得する説明を作りたいと思っていた
そこで、誰もが認めざるを得ない第一原理(公理)を出発点として、哲学体系を構築していこうと考えた
公理を定義しないといけないからこそ、それは絶対的な真理とも言えるものでなければならない
そのために何もかもを疑い始めた
目の前にリンゴがあることは真実か?ということまでも疑い始めた
数学はどうか?でも夢を見ている時は、論理的に正しくないことが起きていても、それに気づかない。今夢を見ている可能性を否定できないということは、数学だって確かとは言えない
悪霊がいて何か夢を見せている、まで仮定し始めた
そしてある日気づく
我々が認識しているものは、全て疑うことができてしまう、つまろ全て嘘かもしれない。
しかし、全てを疑うことができたとしても、疑っている私がいること、そのこと自体は疑い得ないのではないか。
疑っている私、を疑ったとしても、それを疑っている私がいることはやはり事実だから
つまりループするので。
こうしてたどり着いたのが、「我思う故に、我あり。」
1711 - 1776
私がいるなら、認識しているものも存在する
私自身も神が作ったものだから、その認識も正しいはずである
疑ってた割に最後は適当やん
しかし、我思うゆえに我あり、まではよかったので、そこからいろんな哲学体系が作られていく
全ての知覚や認識は、経験によるもの、という論
デカルトの我、という概念も何か、精神的実態のようなものを取り出しているように聞こえる。もっとシンプルだよ、と。
ヒュームはデカルトの我、を、知覚する経験の連なり、でしかない、といった
私、というのは、私という継続した感覚を生み出している痛みなどの知覚体験
それが本当に現実と一致しているかどうか、の保証はどこにもない
神を否定したのはこの時代ではえぐい、デカルトすらやらなかった
ヒューム以外の経験論者も神は経験に由来しない特別なもの、とした
過去の経験の組み合わせで作れるのが、複合概念
ペガサスはあかりやすくそうであり、神も同じである、と。
つまり、神は幼少期の親などの絶対的に慕わなければならない存在などから生まれた想像された複合概念にすぎない、と言った
科学も同じように複合概念だと
科学と現実世界が一致している保証はないだろう、と。これも経験の産物だと。
火が熱い、も、経験的に100回そうでも、絶対にそうなるかはわからない
火に近づいた時に、妖精さんや、未知の物理現象Xによって
状態Aの時に状態 Bという経験を、ただただ定式化しただけである、と。
これがイギリス経験論。しかし、これはインド・仏教哲学ですでに通ってきた道と言われる。
4️⃣
1724-1804
なぜ数学などは、別の経験をしてきた人間同士が同じ結論に至れるのか?
人間の経験は違うかもしれないが、共通してるものがあるはずだ
時間と空間の一旦で経験する、という共通の形式を持っている
全人間に共通である
縛られないりんごはだれも見れないよね
なぜそうなるのか?
そういう脳を持って生まれてきたから
経験の内容はそれぞれだが、経験の仕方に共通性はあるのだから、同じ結論に至るような真理を導き出すことは可能だ
ダニやイソギンチャクは1次元の感覚器官で世界を捉えているかもしれない。人間とは違う。
では人間が正しいのか?そうではない。より高次元の感覚器官を持つ生命体がいたら、我々もダニやイソギンチャクだ。
我々は世界の本当の姿など捉えられるわけがない、感覚器官がいくら高次元になろうとそれは変わらない
なぜか?
生物が知ってるりんごは、それぞれの感覚器官を通して経験されたものであり、本当の姿、りんごそれ自体、というのは、全生物が経験する前のもの、ということになり、そんなもの誰も知りようがない
でもそれで良い。
知りようがない世界は諦めて、現実に知りえる範囲に限定して探求を進めるべき、と言った
tanimutomo.icon 高次元を理論と数式上で扱えるかもしれない、それはどうなんだろう。それも人間に解釈可能な形式としてしか捉えられないし、経験できない、と言えるのか。理論や数式も経験か?
真理とは、人間によって規定されるものである
人間の上位の概念とし手の真理ではなく、人間のもとで定義されてる真理を追い求めようと
普遍的で全世界共通、ではない、といった
人間にとっての正しいと思えることを探究していこう
これが転換期となった
1770-1831
カントはゴールを示しただけ
方法を提示したのがヘーゲル
近代哲学を完成させた、と言われる
弁証法によって少しずつ発展していく
弁証法のためには論争を戦わせることが大事
真理に対して、反真理をぶつけて、超真理を生み出す
そして、超真理に対して反超真理を導き出し、、
の繰り返し
ヘーゲルは歴史の流れも弁証法で説明し、これが人類が真理に到達するための唯一の方法である、とした
フランス革命もそうなると、戦った後の正しい次の真理だよね、という解釈になっていった (変えるかな)
1813-1855
デンマーク
ヘーゲルは賞賛された
ということは弁証法自体も発展していくはず、そのため否定した
人間味のないものだ、いつ手に入れられるかもわからない、ので意味がない
人類にとって、とかではなく、人がそのためなら死ねる、ものが真理だ、と。
舞っているだけではつまらないではないか。
1905-1980
ノーベル文学賞に選ばれたが、全ての人間は生きながら神格化されるには値しない、としてこれを辞退した
ヘーゲルとキルケゴールの対立があった
ここに参戦して真理を探求しよう、といって若者から支持を集めた
自由の刑
自由とは、何が正しいのかわからないのに、好きにしろ、と放り出された不安定な状態
いっそ神から道、人生を示された方が楽
数ある価値観から何を選んで決断すれば良いのか
決断するための価値観を選ぶための価値観が、、となる
つまり不可能
人生において何をすべきか、は神も国家も学校も誰も教えてくれない
不安な中、どれを選ぶか決めなければいけない、自由なのだ
ずっとゲームをやってても良い
しかし、いつ後悔しても全て自分の責任
望んでもない世界に放り出されて責任を追わされる
だからこそ人間は歴史に参加するべきである
何を選択するべきかわからないからといって、何も選ばず無為に人生を過ごすより
間違ってるかもしれないリスクを背負ってでも、何かを選んでいきた方がましだ
どうせ自由の刑を背負っているのだから、何をしても同じな訳だ。ならいっそ決断して行動してやれ、というマッチョ理論。
tanimutomo.icon これかなり好きだな。アレントにも似てる。この時代だからかな。
そして、どうせやるなら小さいことではなく、できるだけ大きいこと、をやったらどうだ
それの最たる例が、人間の真理を探究し、理想の世界を実現してこうとする歴史、という舞台に立ってみたらどうだ、というわけだ
政治の季節への繋がり
歴史という文脈でいくと、その時代は資本主義全盛期でそれによって経済が発展していってる時代
労働者に対する搾取も今より酷かったであろう
しかし、ヘーゲルの弁証法的にいえば、それは対立によって否定され、次の社会の形が作られるはず
その当時は、マルクスの共産主義社会が次の時代の社会構造として認識されており、ソ連の共産主義社会にも宣伝によって注目が集まっていた
これらの背景と日本だと吉本隆明の共同幻想論などがあり、政治の季節を迎えることとなる
そして、1991年ソ連も崩壊する
5️⃣
ベルギー
1908-2009
サルトルと仲良かったが、人類の追い求める、直線的に発展していく歴史なんてあるのか?という形で対立していった
ちょうどこの時期に参与観察が流行った
未開人は幼稚だと思われていたが、実際には西洋とは異なる発展をとげ、合理的な構造が存在する
全て西洋の遅れであり、我々は導く必要があると
そもそも東西でも考え方が異なる
東洋では、輪のように回るものとされている
そのため、誰が何をしたか、という記録ではなく、神話的に物語的にどういうことが起こったか、だけを書く
つまり、無限に回るので、100年前も1000年前の人にも当てはめられるくらいに象徴的なことを書く、書き換えていく
そこに人間の本質が湧き上がる
これが東洋における人類の歴史
西洋は唯一自分たちが目指すべき真理への到達の道が歴史だと。
1859-1952
アメリカ?
便利な考えを真理と呼べばいい
世界大戦、核爆弾、ホロコーストなどによって、理性によって人類は発展してるなどと考える人はいなくなってしまった
これにより近代哲学が否定され、今の現代哲学が始まる
信仰により真理に到達しようとする中世哲学が否定され、理性により真理に到達しようという近代哲学が作られ、今はそれも否定され生まれたのが現代哲学
真理よりも役に立つか考えよう、という哲学
固いとは何か、を考えても答えがです仕方ないので、最初から固いものはどんな役に立つのか?を最初から考えれば良い
生きるための道具として全て考える
人を殺すのは悪い理由は、なんのためにそのルールがあるのか、を考えれば良い
そうしたらみんな安全に暮らせるよね
道徳は意味ないの?となるが、そうではない
長い間役立つとされ、語り継がれてきたものである以上は意味があるもの、らしい
一年後に死ぬ、という事実も真実ではあるが真理ではないかもしれない
1930-2004
真理批判者
ポスト構造主義
西洋批判、理性批判
西洋は音声中心主義、話し手中心主義である
話し手の意図を聞き手が汲み取る、というのが重要
話し手の意図が会話における真理なのだ
自分が話したことの理解を聞いて、違う違う、と否定したくなるよね
話し手に直接聞いて確認しないと無理、なんなら原理的には無理
だからこそ、読み手中心主義、でよくないか?を主張した
読み手の解釈を重視する、それぞれが真理でいいじゃないか、正確にいうとどちらも正しくない、状態でいいのではないか
同一性と差異の反復運動が現代思想
我々は意図ではなく、言葉を通してしかやり取りできない
直接著者から聞いたとしても、言葉Aが入っていて、その意味を別々の理解をしてるかもしれない
翻訳とかはもっとそうである。いろんな文脈の上に言葉が構築されている方、対応関係など取れない。
意図そのものをやり取りしてないのだから、分かりようがない
つまり、同じ言語を使っていてコミュニケーションをしていても、絶対にお互いの意図を100%理解することはできない
だからこそ、読む、それによる解釈、を何よりも重要視する。自分でそれを構築していくことが重要なのだ。
古典などに対して、何が正しいか、で争うのではなく、自分なりの解釈を示していこうという、新たな方向性を示した
6️⃣
これまで築き上げてきたものに対して、読み手が解釈したものが真理とか、実用的なものを選択する、とか、そういう話になっていくと、ソクラテスの前の時代の相対主義的な時代に逆戻りしてないか?となる
その理由2つ
真理を求める活動は致命的
今の人類は真理のために闘おう、とやってしまったら滅亡する
意見が異なることで、殺戮兵器を使うことができてしまうわけで、そんな状態で戦おう、というのは手放しで推奨できない
政治思想による対立などもそうである
ようは現代世界が、複雑になり過ぎてしまったがゆえに、人間の手には追えない状態になっている
一旦人それぞれ、ということも使わないといけない
学問が難しすぎて、これ以上真理探究するのが難しいことがわかってきた
シンクロニシティ、と呼ばれる
物理学における不確定性原理の発見など
大統一理論を探していた、これが物理学の最終目標に近い
しかし、不確定性原理が発見されてしまい、科学的観測の限界がわかってしまったため、科学的探究に限界が来てしまった
数学における不完全性定理
数学は確実に真理に辿り着けると思われているが、実際にはどんなに完全に見える数学体系を構築しても証明不可能な命題が作れてしまう
どんなに頑張って構築しても越えられない、ということがわかった
学問を推し進めていけば真理にどんどん近づけると思っていたが、不可能なラインが見えてきてしまった
科学に期待されていた真理の探究の限界が見えてしまったことで、多くの人が失望し始めた
カントは、人間のわかる範囲での真理を探究しようと言い、それを進めてきたわけだが、ついにその限界が明らかになってしまったと。
この状況において、真理に対してどんな態度をとりえるか?
理性批判、西洋批判、真理批判、の批判三兄弟であるが、
もう一つ他者がある、ここから真理とは何か、をもう一度見つめ直してみる
ユダヤ人
リトアニア
1906-1995
ナチスによって親族全員殺された、自身も収容されていた
虐殺されても明日も何事もなく続いていく恐ろしさ
明日自分が死んでも、何も変わらず存在し続ける世界
これを、イリヤ、と名付けた
ここに「他者」を感じるようになる
いろんな哲学者が、私と無関係なもので満ち溢れている、と気づき始める
他者とは理解できない何か、コントロールできない何か
数学でも物理学でも、囲いの外の理解できない不確実性定理などの「他者」が存在する
学問体系においても同じということ
ここでいう他者、というのは
私の主張を否定してくるもの、私の生存や権利とは無関係に存在するもの、私の理解をすり抜けるもの
端的にいうと、自分の思い通りにならない、よくわからない、もの
どんなに完璧な哲学体系、数学体系、物理学の理論を構築しても、そこに必ず説明できない「他者」が存在してしまう、ということ、がわかってしまった
それらは全て、何らかの言葉の組み合わせであり、なんらかの囲いで説明されたもの、なので、そこには必然的に他者が存在してしまうのだ
宗教も科学も同じように真理を探究するものと言えるが、両方とも言葉やそれを介した思考に縛られている
である以上は思考したり表現したりするものの範囲は有限である
であれば、あの外には知らない世界があるはず
それが他者
他者に見出せる可能性
他者とは、人類を自己完結というひとりぼっちから救ってくれる唯一の可能性
全てが完璧な哲学体系、数学体系を作れたとして、全てが予想つく世界で楽しいだろうか?
もし他者がおらず、全て自分の中で知りえる事象なのだとしたら、そんな世界つまらないよね
本当、という言葉を使うのは、よくわかってないことに対して使う言葉である。絶対にわかっているものであれば、本当に、とかの言葉を使わないだろう
どんなに何を考えても、本当、つまり、他者が否定をしてくる。しかしそれを無視してはいけない。そうしたら不毛な自己完結、独り言に終わってしまうから。それこそ敗北である。
常に他者を意識して、傷つくことを恐れながらも、向き合わなければならない。
現代における真理として確実なもの
どんな主張をしようとも、それを否定してくる他者が存在すること
自己矛盾になってしまうが、それ自体が真であることを証明してる
つまり、私、と、他者、の存在。しかし、ここには友好的な関係は成立しない。
私にとって他者とは不快であり、地獄であり、理解不可能なもの
だからこそ問いかけが可能な唯一の存在
その問いかけによって、新しい可能性、新しい理論、を作っていける
その関係を断絶させず保てるのは、人間の真理を追い求める気持ちであり、熱い想い。
真理という幻想はそのためにあり、それこそが真理なのでは。