第34回 キューバ危機とJFK
こんにちは。
趣味としての学問のです。
このポッドキャストとは、{さまざまな学問分野の本を取り上げて、日々の生活や仕事からは見えてこない視点を探ってみようという番組です。}
IT企業の経営をやっているの谷村と、
元社会学専攻の新井で、お送りしていきます。
今回私、谷村が話を持ってきたんですけど、
キューバ危機 映像の世紀
NHKの映像の世紀
1962年10月15~28日の13日間
ソ連の核ミサイルがキューバに輸送されたことがわかった
救ったのは、
ソ連の潜水艦の副艦長
1959年にカストロが首相になった
ゲバラと一緒にアメリカが支援していた軍事政権を打倒する
民主主義思想を持っていた
が、キューバでカストロが倒したのはアメリカが支援していた政権だったため、当時の大統領であるアイゼンハワーは、会談を拒否してゴルフをした その後、アイゼンハワーが進めていたカストロ政権打倒の計画をJFKが推し進め、ピッグス湾事件が起こる アメリカは国交を断絶し、1961年4月15日にキューバ軍機に偽装して空軍飛行場を爆撃し、上陸侵攻を開始した
それに対して、ソ連が支援して追い返すことに成功する
これでケネディ政権は大きく勝たむことになる
そしてキューバを偵察していた飛行機を発見して、ぺンコフスキーから詳細が届いた
父母をソ連に殺されていて、共産主義の闇を知っていた
ルメイ空軍参謀総長は第二次世界大戦で活躍したこともあり、先制攻撃を強く主張していた
ルメイはJFKに対しても強気な態度を見せる程だった
録音も残っており、悪魔の代弁者を利用した、とも割れている
神童と呼ばれ、44歳で国防長官へ就任した
海上封鎖案を提案
キューバ周辺の海域でソ連からの持ち込み物を検査する
戦争行為と取られてもおかしくはないが、直接衝突を避けつつ、断固たる姿勢を見せるには最適だろうと
8日目に国民にケネディが海上封鎖を説明
ペンコフスキーは逮捕された
キューバもソ連も全軍臨戦体制へ
その後国連安保理で、アメリカは事実を公表し揺さぶりをかける
アメリカの報道記者ジョンスカリに対してのソ連の相談と、フルシチョフからの書簡で、フルシチョフがキューバに責めないなら撤去すると言ってることがわかった
が、トルコからのミサイルの撤去要求が追加された
そして、同日にフルシチョフの指示はなかったらしいが、キューバ東部でアメリカの戦闘機が攻撃を受けて墜落した
ここにルメイが今しかない、今なら勝てる、と主張
そこに対峙したのがマクナマラ
元々はルメイの部下で、日本への原爆投下の計画を作っていた
しかし、マクナマラは後悔していた、勝つためなら無差別に10万の市民を殺していいのかと
ルメイはイエスだった
マクナマラはこれに対し
戦争は目的と手段が釣り合っていなければならない
ケネディも時間を稼いでいたが、流石に明日も攻撃するされたら報復宣言をだし、基地を破壊しに行く、といった
ここから潜水艦の話になる
潜水艦を海上封鎖付近で発見し、アメリカ空軍は事前の予告通り、浮上を促す合図として、演習用の爆雷を投下した
しかし、浮上の合図だとは伝わっておらず、戦争が始まったと艦長は判断した
発射にはもう1人の同意が必要で、それが副艦長のワシリー・アルヒーポフ 冷静に沈めようと思えばできたはずだから、浮上せよの合図に違いない、と言った
爆雷投下から4時間後に浮上した
同時期にアメリカ側でも同じことがあったとわかった
沖縄の読谷村で
核ミサイルに発射命令がきていた
1機はソ連、他は別の国だったので、怪しんで確認したら誤報だったらしい
アメリカはトルコからの撤去を飲むことになった
ソ連も撤去した
ケネディは、勘違いや誤報によって緊張状態から悪化していったりするので、本当に冷静に対処しないといけない、と語った
ペンコフスキーは死刑になったが、偉大な事業に貢献できたのなら、何の後悔もない、と言っていた
その翌年、ケネディはテキサス州で撃たれ、この世を去った
ジョン・F・ケネディと3人の家族 映像の世紀
父・ジョセフ
1920年代に移民が大量に来ていた時に、アイルランドからの移民としてやってきた その中でも長男のジョーがジョセフの期待を背負っていた
JFKは病気がちでベッドで本を読んで過ごす少年だった
父のジョセフは、ウォール街で有名な相場士となり、大金を得た
大恐慌の前に売り捌いていた
儲けたいなら法律で禁止されていることを、禁止される前にやること
その後、巨万の富を得た後にルーズベルトへの資金援助から政界に近づく 目指すは大統領
証券取引所のトップに
そして、大統領を多く輩出している駐英大使に就任
その後ナチスのヒトラーがトップになったのに対して、宥和的な方針を協調した がロンドンも空襲に遭い、その時は事前に郊外に逃げていた
イギリスの民主主義は終わったと発言したことで、ルーズベルトの反感を買った そして、駐英大使を辞任した
ケネディ一家は臆病者と評されることになる
大統領へ
これに対抗するために
ジョンもその後を追った
そして、ジョンが日本の駆逐艦に衝突をした後に仲間のロープを口で咥えて泳ぎ?救出したことで英雄扱いされる
ジョーは今まで弟のジョンに負けたことはなかったので非常に悔しかった
そこでジョーは危険な戦地に志願し、そこで命を落とすことになる
そのご、ジョセフの期待はジョンが背負うことになる、期待ではなく要求だったらしい
ジョンが下院に選出
そこでもジョセフの金による工作があった、と言われている
それまで当選していた人が辞退をしたり、同じ名前の人が立候補していたり、など
その後、上院議員となり、ついに1960年に大統領選に出馬
この時、43歳で、選挙で当選した中では最年少での就任
ルーズベルトのニューディールに寄せる形で
この時に経済発展もしていたので、宇宙開発に力を入れて、アポロ計画などを指導した 初のテレビ討論会が行われた、90%の普及率だったテレビを使った
テレビの仕様に合わせる為に、濃紺のスーツに着替えて目立つようにし、常にテレビカメラを見て話すように意識した
そして、0.2ポイント差で当選することになる
活躍と暗殺
南部の大学で黒人学生の受け入れを拒否する市長に対して、軍まで招集して門から市長を退くように説得したりした
公民権法は、その後、副大統領であったリンドンジョンソンが大統領になった後の1964年に制定された 1963年、任期3年ちょっとで、テキサス州のダラスで車で遊説中に銃で暗殺された
これには多くの国民が悲しむとともに、フルシチョフやカストロまでもが哀悼の意を示した。敵ながらあっぱれ、ということだろう。 平和を望んでいるとわかっていたからこそ解決できた、ということらしい
tanimutomo.icon 逆に三体の皮肉で、平和を望んでいるからこそ、あそこまでフルシチョフはリスクを犯してでもトルコからの撤退をさせられた、とも考えられる 陰謀論説は結構出ている
というのも犯人であるリー・ハーヴェイ・オズワルドは、反抗の2日語に警察署で銃殺され、その後も原因不明のまま操作が幕を閉じたから
今でも議論の対象になっていたりする
弟の死
その後、弟のロバートケネディが1968年の大統領選に出馬し、勝利を確信した際の演説中にLA市内で銃殺された
そして、この選挙では、JFKに敗れたリチャードニクソンが大統領になる
ジョセフは、3人の息子に先立たれたあと、息を引き取ることになる