第22回 社会関係資本 つながりの社会学
【22-1】なぜ人の繋がりは解体されたのか?それの何が悪いのか?【社会関係資本 - 孤独なボウリング】
お金を稼ぐには、スキルを磨くよりフォロワーを増やそう
現代は信用をお金に変換できる時代
…みたいな話をするシリーズではない
↑の概念は、どちらかといえば、ブルデュー的な概念(capital social)
これは個人目線から見た「つながり」の効用
繋がりを持っておくことで、個人にどれだけ利益が出るのか、という話
今回紹介する話
社会という単位から見たときの「つながり」の効果
経済学では「外部性」と呼ぶ
つながりは、直接関係を取り結んでいる人同士の利害に留まらない利害を及ぼす
例えば、近所の人通しが仲がよく、犯罪が抑制された社会では、出張が多く地域社会にあまり繋がりを持たない人でも利益を得る
自分が出張先にいる時に自宅に強盗に入る確率を下げてくれているのは、地域のつながりの濃さであったりすることがある
あるみんながお互いを信用していない社会では、常に疑う・疑われる関係が発生して、社会生活の摩擦が強い
以前の村社会では、子供を地域の人に預けたり(預けるとわざわざ約束する必要すらない)、農業を共同で行なったり、食べ物と情報を共有したりもできた
今だと、子供の預け先も、食べ物も、情報も全部自分で手に入れないといけないのが当たり前になりつつある
昔は普通に暮らしているだけで共有されていた情報も、今は自分でアンテナを張っていないと損をする、みたいな自己責任論的な風潮もある
(社会関係資本の負の側面についても話す予定です)
周囲が孤立している中で自分だけ色んな人と仲がいいよりも、周囲がみんな仲が良く、自分だけ孤立している方がマシである
つながりに富む個人であってもつながりに乏しい社会にいる場合は、つながりに富んだ社会にいるつながりに富む個人ほどに生産的たり得ない。(p.16
孤独なボウリングは、その象徴
かつては地域の人が仲が良かったので、週末にみんなでボウリングしていた
今では一人でボウリングをしている人が多い
主に戦後から2000年までのアメリカの全国的な社会調査を元にした研究
社会から関係が失われていく過程
なぜ関係が失われたのか?
関係が失われると何か問題が起きるのか?
(時間あれば)
互酬の規範と交換の規範
私がこれをあなたにしてあげる代わりに、私は同じこと(あるいは対応する何か)を誰かからしてもらう事を期待する
一般的互酬性
相手から直接お返しをもらうことを期待しない。ただし社会の参加者一般から同様の恩恵をもらえることを期待する
その辺の人に道を聞いたり、電車で席を譲ったり、財布を届けたり
以前のシリーズで話した、安心関係と信頼関係の話にも近い
一般的互酬性とは、その社会一般をどれだけ信用できているか、と言い換えることができる
【22-2】失われた社会関係1 - 職場、サークル、政治集団の衰退【社会関係資本 - 孤独なボウリング】
コミュニティ、政治、宗教、職場など
政治参加
投票率
19世紀の間、投票率は80%付近をキープしていた
20世紀に入ると70%くらいまでダウンする
20世紀の後半に、50%台までダウンする
(この数値は南部を除いている)
南部は、黒人分離法(ジム・クロー)によって、投票率を妨げられていた
選挙税、読解テスト、不正行為、暴力など
政治の集会に参加していた人の割合
1970年をピークとして、減少傾向になっている
他にも色々まとめてみると
https://scrapbox.io/files/65c1fd08752a73002530723c.jpeg
個人で完結するような活動ほど、減少の幅が少なく、他者との協力活動ほど減少の幅が大きい
つまり繋がりの減少を示していると考えられる
コミュニティ
米国は、他国と比べてコミュニティを作ることを好んでいる
多くの米国人は、自分は何らかのコミュニティのメンバーだと自称する
68年~97年までの間に、人口100万人当たりの「非営利公式組織」は増加した
組織数は増えているが、組織あたりの参加の強度は減少している
コミュニティ参加に多くの活動を要する組織への参加率を調べると、60年代をピークに減少しているということが確認された
PTAも60年をピークに減少、クラブ活動への出席も75年から減少傾向に
新たな名称――おそらくは「三次集団」――を付ける必要がある。その会員の大多数にとって、唯一の会員活動とは会費の小切手を切ることか、時折ニュースレターに目を通すことである。そのような組織の何らかの会合に出席する者はほとんどいない多くは全く出席しないし、ほとんどの会員は他の会員と意識して出会うこともありそうもない。 全米野生生物連盟や全米ライフル協会の任意の二会員の間の絆は、ガーデニングクラブや祈禱会の二会員の間の絆のようなものではなく、むしろ東西海岸に分かれ た二 人 のヤンキースファン(や、おそらくは熱心なL・L・ビーンのカタログ利用者)の間の絆に近い――すなわち、同じ利益関心の幾分かを共有しているが、互いの存在には気づかないのである。その紐帯は共通の象徴、リーダー、おそらくは共有された理想とつながってはいるが、互いを結びつけてはいない。(p.57
多くの米国人は、自分は何らかのコミュニティのメンバーだと自称する
が、出席回数や委員を務める人の割合は減少を続けている
宗教と職場のつながりを見ても同じような傾向が見て取れる
教会へ行く頻度は減り、宗教的コミュニティへの参与も減少した
協会に所属している人の割合も減少したが、70年からは横ばい
職場では、労働組合の組織率が一貫して低下傾向にある
職場における友好関係の満足度も1950年から90年代を比較すると低下している
組織的な生活から、多くの者がドロップアウトした
組織に所属していると言いつつも、その活動の中での社会関係が減少している例も少なくない
【22-3】失われた社会関係2 - 家族・友人との繋がり【社会関係資本 - 孤独なボウリング】
では、明示的な組織ではなく、インフォーマルなつながりはどうか?
いわゆる友達とか家族のこと
75-97年までの値を集計すると、多くの人が、友人を家に招いたり、トランプをしたりなどインフォーマルな関係を築いていることが確認できた
しかし、友人を家に招く回数は75年から97年までで減少している
代わりに家族で食事をしているかというと、そうでもなく、家族全員で夕食を食べるかという質問に「強く当てはまる」人の割合も減少し、そもそも未婚者も増加している
バーやナイトクラブへ通う人の割合も減って、代わりにファストフードを食べるようになった
集団で行うカードゲーム(トランプ)の回数は80年代から減少し続け、代わりにテレビゲームやカジノなどに代替されて来た
時間日記研究をみても、インフォーマルな社交に割かれる割合は減少してきている
ボウリングの団体も、第5章で見て来た統計と同じく、6,70年代にピークを迎えたあと、現象に転じている
リーグボウリングは定期的に酸化が必要で、社会関係資本の形成に役立っていた
一方、観戦スポーツは成長しており、これは社会関係資本という側面からみれば増加に寄与している
「見る」時間が増え、「する」時間は減少した
短期的愛他主義と、長期的自己利益によって特徴づけられる
不誠実が続く社会でこの互酬性は機能しない
関係が密な社会では、評判が大事になるために、裏切るコストが高まって互酬性が機能しやすい
1952年から98年までの間に、「人々は正直で道徳的な生活に向かっていると思うか」についての回答は、減少し続けて来た
社会への信頼は弱まり続けて来た
特に若い世代(高校生)に顕著であった
これは世代的遷移によって説明ができる
https://gyazo.com/759354d32245abef6c85ed076faf4141
個別のコホートは変化していないが、世代が置き換えられていく中で、社会全体の信頼性低下が発生している
これは礼儀正しさ、社会的規範を守ろうという意識にも変化をもたらしている
道路の一時的指標式を「守らないドライバーの割合」は80年代から上昇して来ている
また、米国での犯罪率というもの65年から75年まで上昇し、そこから横ばいである
この裏返しとして、法によって治安を安定化させようという動きも統計に現れている
警察官、ガード、警備員は20世紀に入ってから緩やかに増加し続けているが、70年代からその上昇率が高まった
弁護士と判事は70年までほぼ横ばいであったが、そこから増加を始めた
【22-4】なぜ社会の繋がりは弱まったのか?仕事のしすぎ?テレビの見過ぎ?【社会関係資本 - 孤独なボウリング】
ここまでのまとめ
アメリカの研究によれば、20世紀の2/3まで、人々はフォーマル・インフォーマル問わず積極的な社会関係を持っており、(一般的な)他者への信頼感も高かった
70年を過ぎたあたりから繋がりと信頼感、一般的互酬は減退した
「公共の風景に興味を持って批判的に眺めているようになった。ゲームを自分でプレイせず、後ろから眺めて口出しする」
薄い繋がりが濃い繋がりを置き換えて「有限責任コミュニティ」を形成した
地域型から機能型への転換。結果的に互酬性は失われる
4つの仮説を検証していく
1. 忙しくなった?
お金を稼ぐことに追われ、労働時間が増加し、結果として社会関係に時間が使えなくなった?
2. 都市化の影響?
人が都市に移動するようになって、地域関係が失われた?
3. テレビが普及したせい?
4. 世代の問題
世代の価値観は30歳までに触れたものに大きく影響を受ける
先に見た例でも、「他人は一般的に信頼できるか?」という質問では遅く生まれた世代の方が顕著に信頼できないと答えていた
このように世代の価値観が社会関係を阻んでいるのではないか?
しかしそれぞれの仮説に対して、明確な答えを出すことは難しい
かなりモヤっとした結論になってしまう
1. お金・時間の問題?
平均で見ると労働時間が増加している・自由時間が減少している、というデータはない
が、その内実で見ると教育水準が高いものは自由時間を失い、そうでないものが自由時間を手にしたという変化があったことはわかっている
-> 高学歴女性の労働力率の増加による効果
女性の労働力率の増加は社会関係資本を低下させたのか?
フルタイム労働者になった女性の社会関係資本構築に費やす時間は増加した
専業主婦など、それ以外の女性については減少した
未婚の男女についても社会関係資本は減少しているため、これが原因だとはいえない
結果として、お金や時間の問題は、社会的なつながりの現象を説明しきるだけの要員にはなっていない
2. 都市化の影響?
日本でも東京一極集中、などと呼ばれて都市に人が集まるようになっている
結論:影響がないとはいえないがこれもやはり説明できていない
なぜなら、都市だけではなく小さな街や農村部でも社会関係が減少しているから
都市化の影響は、階級や人種を超えた人々の関与を減少させた
大都市郊外に、同質性の高い人たちで住むようになったので
郊外で住む人の相互扶助関係は失われて、ご近所付き合いが希薄化したことは確か
しかしこれは多かれ少なかれ農村などでも起きている
3. テレビが普及したせい?
1950年に1日4.5時間だった平均視聴時間は、85年には7時間まで上昇した
テレビを主要な娯楽と答える者は、そうでないものに比べてコミュニティ事業やクラブ会合などへの参加が低かった
他の変数(教育水準、世代、性別、地域、居住都市規模、労働負担、結婚、子ども、収入、経済的不安、宗教、人種、地理的移動性、通勤時間 、持ち家の有無 、その他)をコントロールしても、テレビ視聴は社会参加の予測変数として有意であった
テレビは実際に周囲の人と関わることなく、「コミュニティに参加している感覚」を得られるという効果がある
しかしこれは、元々人と関わりが薄かった人がテレビを見るようになった、というだけなのでは?
図らずも電波が届きにくいカナダの街で、対照実験が行われることになった
その結果、テレビが導入された地域はそうでない地域と比べて、明らかに社会参加が低下した
しかも、あまり社会参加に積極的に関わっていない者だけではなく、中心的な人物においてもそれは見られた
テレビは他の趣味と違って「多いほど多い」わけではない
テレビは人を受動的にさせる
また、人と関わっている感覚を得られる娯楽である
たとえば毎日目にするYoutuberの人は、自分の隣人であるかのように錯覚してしまう
特に昼間のテレビ番組を見ている人ほど、市民的参加を積極的に行っていない
20世紀後半のテレビは、人々の余暇活動、時間と金銭が投じられる先を「集団的で積極的な「する」こと」から「個人的で受動的な「みる」こと」へと転じさせた8
4. 世代の問題
明らかに、遅く生まれるほど、一般的信頼感、社会参加の率が減少している
30年代中盤以降から、減少傾向が強まり、以降増加や横ばいになることがほとんどない
30年代に生まれたものは、物心ついてから第二次世界大戦を経験した
X世代(65-80年生まれ)は、「偉大なる集合的イベント」を体験したことがない
大学生への意識調査をみると、目標として大切なことの中で、「経済的に豊かになる」は上昇し、代わりに「政治の流れについていく」「地域活動に参加する」などは減少している
自殺率を見ても、高齢者の自殺率は減少し、若年層の自殺率は増加傾向にある
デュルケムは、自己本位的自殺として、社会統合が十分にされていないと自殺しやすくなるとした
所属感
46年以前に生まれた世代は、家族・友人・同僚以外にも、近所の人や教会、地域などを挙げたのに対し、64年以降の世代は、同僚までで、他にはあまり感じないと答えた
家族・友人は以前同様、所属している感覚があるが、それ以外のコミュニティは所属する対象ではなくなった
まとめると、社会関係資本が減少した一番の理由は世代変化であり、次にテレビ、そしてそれらと比べると少ない影響を、労働と都市化も有している、ということである
【22-5】 治安、健康、幸福感を維持するためには社会関係が必要?【社会関係資本 - 孤独なボウリング】
社会関係資本の効用
社会的ジレンマ、コモンズの悲劇を避けることができる
取引コストが下がる(相手を過度に不審がっていては、取引コストが高い
情報が流れるパイプになり、個々人の目的達成にもつながる
個人が連帯感を持つことで、他者の不幸と自分の行動を結びつけて考えることができるようになる
今風にいうと、無敵の人が生まれづらくなる。無敵にまでならなくても、自分さえ良ければいい、という人は大抵その人本人がかつて周囲から恵まれなかった経験を有している)
いくつかの実証的研究
1. 子供にとっての環境
児童福祉 = 子供の死亡率、高校の中退率、少年犯罪の率、10代の通学・労働を行わないもの(引きこもり)の率、子供の貧困率など
これらは、社会関係資本が高い地域ほど優れていた
また、世帯の経済的な収入が少なくても、母親の社会関係資本が高いと子供の教育達成は高くなる
2. 治安維持
社会関係資本が高い州ほど、暴力犯罪が減少する
そして「殴り合いなら人並み以上にできる」と答える人も減少する
教会、商店、学校やレクリエーション施設などを含む地域コミュニティが減少すると、地域の道徳的結束が弱まる
子供が非行に走りやすくなり、それを諌める習慣が失われる
3. 経済的な利得
経済的な研究として有名なものは、グラノベッターの弱い紐帯の話であろう 仕事を紹介してくれたり、社内で有利な立場になるためには、強い紐帯よりも弱い紐帯の方が機能する
ある調査では、職探しにおいて男性の80%が友人の紹介を頼りにするとあった
また別の研究では、仕事における取引の満足度は、友人と取引した場合の方が高かった
情報の質と、身元を担保してくれる機能がある
シリコンバレーも、社会関係資本の好例であると考えることができる
彼らは表面上競争相手だが、仕事の後の飲み会を共にして、互いに情報交換を行なってきた
転職の多い業界において、社会関係資本は自分の仕事を有利に運ぶために重要なものだった
ただこの利益につながる、というのがゼロサム的なものなのか、プラスサム的なものなのかは議論が必要である
4. 健康と幸福感
デュルケムの自殺論にまで遡ることができる
その後多くの研究によって、うつ病などの精神病、そしてそれ以外の癌や脳卒中、風邪なども社会的繋がりとの連関があることが確認された
社会的孤立は、喫煙、肥満、高血圧、運動不足などを経由して、健康への影響をもたらす
州ごとで比較しても、社会関係資本の指数と健康の指数(年齢を調整した死亡率、自殺率、ガン患者率、医療費支出、成人の喫煙率(-)は相関関係にあった
生活の満足度に対する質問への回答と、社会参加(家に人を招く、教会に行く、クラブ会合に行く、ボランティアをするなど)の質問への回答も相関している
月に1度未満の層とそれ以上の層で、平均的な満足度以上かどうかが分かれている
他方で、その頻度が多くなり過ぎればやや幸福度がマイナスになることも明らかになっている
社会関係資本の負の側面
自由と両立するのか?
実際、60年代以降アメリカでは他者に対する寛容さが増加しているので、社会関係が緩くなったことで、寛容さが増加して自由になったのではないか?という意見もある
時系列的にはこれらは相関しているように見えるが、地域や個人の単位で相関を取るとそのような傾向はない
社会参加の高い個人・地域ほど、男女や人種による権利の平等に対して肯定的である
平等と両立するのか?
これについても、所得分配の平等性が高い地域では社会関係資本も強い
(新井: 地域間の不平等について議論できていない気がする)
ある社会関係と別の社会関係が敵対することはありうる
同一人種内の強い関係が、異人種間の関係を阻むことはありうる
【22-6】生活スタイルが変わると社会関係は弱体化する - 19世紀アメリカの荒廃と再生【社会関係資本 - 孤独なボウリング】
現代の現状は、19世紀末~20世紀初期の状況と整合的に思える部分がある
19世紀の後半に、近代化が推し進められる過程でそれ以前の社会関係資本が解体された時代があった
いわゆる農村的な前近代社会から、工業化された近代社会へと以降したのがこの時期であった
経済は成長し、移民も増加した
電気技術の普及、交通の便の向上によって、小売商や独立職人が、企業に置き換えられていった
負の側面も多かった
都市の発達によって人々が密集すると疫病が蔓延する
貧困者と犯罪者が街に集まってスラムを形成する
犯罪の増加、都市の荒廃、教育格差・貧富の差の高まりなどが発生した
当時に書かれた文章の中には、キリスト教の隣人愛に背くような社会的行為が蔓延していると嘆く言葉もあった
正しく現代のようであった
社会が著しく変化すると、それ以前の社会関係が解体されて個人主義的発想が台頭してくる
社会的ダーウィニズムも信奉されていて、市場による競争が社会を適者生存でよくしていくと考えられていた
また、電気通信技術に対する楽観すらもあった
電話をはじめとする通信技術によって直接民主制が実現するのではないか?という見方すらもあった
インターネットに感じられた楽観的な発想もこれに近しいのではないか?
この時代の人々は、このような状況に対抗して、コミュニティを形成した
社交クラブの結社数は、20世紀初期にピークを迎えた
さらに結社数だけではなく、結社の規模もピークに達していた(米国人口の1%を超える男女が入会していたコミュニティがつくられるようになった)
ボーイスカウトとか、赤十字とかもこの頃つくられた
企業による非人間的な扱いに対抗して労働組合の組織化が推し進められた
相互扶助を行う友愛コミュニティーが形成され、生命・健康保険などを提供した
児童虐待の防止組織や、運動公園を作ろうとする活動もあった
これらがコミュニティ意識と市民意識、協力を引き出した
最初に私的な問題の解決(余暇や自助団体)のためにコミュニティーが作られ始め、
次第に地域の問題や政治改革に視点を向けたコミュニティが形成されるようになった
政治参加を行うためには、社会関係資本はむしろその前提条件になっている
つまり政治に参加しているから、地域社会にはコミットしないというような代替関係にはない