第17回 現代の認識の哲学
【17-1】真理を解き明かす哲学と物理学が抱える根本問題 - 2000年前のひろゆき【認識の哲学】
プラトン(b.c 427 ~ 347)
真・善・美の追求
「真理」= ほんとうのこと を追求する哲学の側面について
人はどうやって真理を追求できるか?
人はどうやって世界を認識しているのか
イデア論
りんご、犬、丸、正義、これらをなぜ認識できるのか?
完全なりんご、完全な丸、といったものを見たことはない
だから、りんごを見た時に「どのくらいりんごっぽいのか」という発想ができる
現実の行いを見た時に、「どのくらい正義に適っているのか」という発想ができる
それは考察をするまでもなく、感覚的に行われる
そのような感覚を持てる(認識できる)のは、イデア界(魂の世界)で観念そのものを認識したことがあるから
ゲームの例
自分がマリオだったら世界をどうやって正しく認識できるか
もしマリオが自分の世界を作っているプログラムコードを全て理解できたら、次に何が起こるかを完璧に予測することができる
これを真理追求の一つのゴールとして設定できる
形而上学
目で見て、手で触れられる世界の裏側には、形のなき本質がある、と考えること
物理学の理論研究も、形而上学と似通ったところがある(と考える人もいる)
実験によって反証可能性があるということだけが違う(これが大きな違いなのだが
これはイデア論の発想と根本的には同じ
プロタゴラス(b.c 490 ~ 420)
「人間は万物の尺度」
真理などというものは存在しない、人間が勝手に世界を認識しているだけ
近代物理学の例
宇宙には永遠普遍の法則性がある、ことを確信している
近代物理学の歴史はせいぜい数百年なので、何十億年、何百億年という時間軸の中で、物理法則が普遍であるというのは憶測
(そもそも時間軸という観念を前提している、という話もある)
相対主義
ゴルギアス(b.c 483~376)
「何も存在しない、存在していても知りえない、知っても伝えられない」
存在を疑う、認知能力を疑う、伝達能力を疑う
客観世界と、主観世界の一致は、誰によっても保証されない
=> 哲学は無意味な言葉遊びに過ぎない
懐疑主義
【17-2】「客観的」な世界がないとしたら、学問は何を明らかにできるのか - デカルトとカントの認識論【認識の哲学】
デカルト(17世紀
方法論的会議
客観世界と、主観世界の一致は、誰によっても保証されない、というテーゼを継承した
「世界は夢かもしれない」
しかし、疑ったとしても、疑っているという自己の存在がなければそもそも疑うことは出来ないはずである
思考 = 存在
神の存在証明
これもまたある意味、プラトンのイデア論的な理屈の変形である
我々の認識は不完全である、しかし何かが不完全であるということは、完全なものが存在するということになる
言い換えると、なぜ我々(思考する主体)は「不完全」という概念を使えるのだろうか?
日常的には、ある時には成功し、ある時には失敗したら「今回は不完全だった」と言える
つまり実態のある完全 <-> 不完全が存在することもある
しかし、誰もがまだ経験していない「完全」を理念として想定できる
「本当に美しいものにはまだ届いていない」とか「科学はまだ宇宙の1割も解明していない」とか
完全なものを想定・想像できるということは、世界には完全な何かが存在するはずである = それを「神」と呼ぶなら、それは存在する
カント(18世紀
神の存在を論じたりするのをやめようという提案
人間の認識能力には予め限界がある
「もの自体」の認識不可能性
客観と主観は絶対に一致しない
一つの形而上学批判になっている
しかし、人間の「認識のパターン」は、共通する部分がある
だから人は、他者と「同じ世界」を共有し、「同じ世界に生きている他者」だと思うことができる
人間に共通の認識のパターンがある、というのは結局、真理追求ができるのか?出来ないのか?という答えにはなっていない
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【17-3】不毛な議論・相対主義を乗り越えて、認識について語る方法 - フッサールの現象学【認識の哲学】
フッサールの現象学(19世紀後半〜20世紀)
客観認識はできない、という前提で思考をスタートさせている
客観認識(= 普遍の正しい認識)はできない、という前提で、それでも相対主義や懐疑主義に陥らない方法は何か?
我々が議論するために必要なのは、客観認識ではなく、間主観的な共通了解である
デカルトがいうような「世界は夢かもしれない」は確かに反論しきれない
しかし、それを本気で信じながら生活している人はいない(少ない)
言い換えると、我々は世界や他者の存在を確信しながら生きている
現象学的還元
まず物(客観的な)があって、それを我々が認識する、と考えるのではなく、
まず我々の認識があって、認識の結果、我々はそれが存在していると確信を得る、というように原因と結果を入れ替える
正しい世界認識(客観認識)にどれだけ近いか?どうすれば近づけるのか?という問いそのものをやめて、なぜ今我々はこんな認識をしているのだろうか?という問いにシフトする
形而上学的な問いをやめようとする発想であり、かといって相対主義には陥らないようにしている
この発想は、「正しさ」の不毛な論争を退ける
他者を説得するときに、「自分の方が正しく世界を認識できているから、自分の意見の方が正しい」などということは形而上学的な姿勢である
そうではなくて、なぜ自分と相手の「確信している世界」が違うのか、という問いに置き換える
(猫が飛行機に乗っている動画)
https://youtu.be/J_8mdH20qTQ?si=zDfkh3w35fVWovdf&t=55
(削除箇所)
「意志と表彰としての世界」 生の意志による世界文節
我々の認識はどのような構造になっているか?
ショーペンハウアー
ニーチェ
【17-4】デリダの脱構築 - なぜ「決めないこと」が正義だといえるのか【認識の哲学】
デリダによるフッサール批判、脱構築の発想
現象学以前の真理を探究する哲学は、現象を下位に、その裏側に潜む本質を上位に置く、形而上学だった
現象 = りんごが木から落ちた、本質 = 万有引力の法則
これに対し現象学は、客観世界があると想定するのではなく、むしろ現象の側に注目することで形而上学を批判した
しかし、逆に現象学は、「現前性 ≒ 今ここに見えるもの」を上位にして、それ以外を下位に置く思想である
現前と同時に、それを認識する「自我」を特権化している
自我は世界と触れる以前に独立して存在しており、その自我が世界と接触することによって、現前(現象)する
認識は客観に先立つ
まず、この瞬間に知覚し、認識し、思考する「私」を起点としている
自我の独立性から出発する現前性を正当とみなす、根拠はない
自我という発想は、他人、他者という概念を持たなければ生じないことを考えれば、独立した自我と、認識者を想定することはできないはずである
このような発想は、西洋哲学が古くから持っていた偏見である
このような発想 = 現前性(今ここに見えるもの)を上位に置いて世界を見ようとする考え方
ロゴス(理性)中心主義
本質と表現の対立(内容と形式)
プラトンの書いた文章には、大事な部分もあるし、そうでない部分もある(主要な主張と、枝葉末節がある)
だから、テクストは要約ができるし、「理解すること」もできる
しかしデリダは、このような発想そのものを批判している
(だから本当はこうやってpodcastでデリダの思想の一部を取り上げるようなこともデリダ的ではないとも言える)
しかし、そんなことを言ってしまえば、秩序が成り立たないではないか?デリダの脱構築は、相対主義やニヒリズムの類なのではないか?
(という反論は色々な人が行った)
デリダはこれに対して、「脱構築は正義である」「脱構築は肯定の思想である」と言い切っている
現実に対して秩序づけをすること、語ることは、それ自体が一つの無根拠な暴力性(正当化)を持っている
秩序を作ることは、「部分的な肯定」にしかならない
先に見たように、ある情報から、中心的なものと外縁的なものを区別する、というのがまさしくそれである
現実を一般化することは、特殊性を抑圧する
「現実を処理可能にしてしまう」ことが問題である
名前をつけることで「同じもの」として扱う、数値を与えて「比較可能なもの」として扱う、
このような秩序づけによって、他者そのものと出会うことがなくなる
初対面の人とのコミュニケーションの例
一般化しないと法(秩序)が作れない、しかしそれをすると何かを抑圧し「なかったこと」にしてしまう
この不可能性の経験こそ、正義の経験である