文学とはなにか
没原稿
文学とは国語便覧に載っているような古今東西の小説、詩歌、随筆、戯曲といったものを指すと一般的には言われています。これらに共通する性質として言語によって人間を描写することが挙げられます。20世紀において人間を描写する有力媒体としてこれら文学作品以外にも漫画やアニメ、TVドラマ、映画があり、これらは小説に比べて視覚や聴覚において優位性があります。
このレポートの課題である自分にとって文学とは何かを考えるにあたって、朴銀姫先生の授業において語られていたことのうち気になった「1、大衆の文学離れ」「2、文学は人間を描くものだ」「3、リアリズムと反リアリズム」の三つに話題を絞る。
まず一について、国語便覧に載っているような近代文学を読むには歴史や古文漢文の素養が必要であるし、戦後~現代における純文学を楽しむにしても評論をよく読んで思想的テーマを学習したり文学評論に精通している必要がある。これらは一般人にとって重い負担であり、小説を読む快楽を得る前に挫折してしまうのである。小説において文体や思想の複雑さが読者の食いつきを悪くしているのに対して、ティーンズ向け小説であるライトノベルはエンターテインメント要素の割合を増やし読者に読む楽しさを与えながらも、評論的テーマについて考えさせる作品が多くあります。
一例としてアニメ化もされている西尾維新の『傷物語』を始めとした物語シリーズというライトノベル作品を主な題材に自分の考える文学について考察する。時系列において一番初めである『傷物語』において主人公阿良々木暦は異世界の境界に踏み入れてしまいそこで出会った瀕死の吸血鬼キスショットに助けの手を伸ばしてしまい、本来は利害の相反した存在である吸血鬼と同一の身体をもつようになり様々な事件に巻き込まれていく。(参考 URL)
精神医学や倫理学をテーマにした純文学作品はたくさんあるけれど、どれも身近にメンタルに問題を抱えた人がいたりして日常的にそういった病理や揉め事について考えている人には興味深く読んでくれるだろうけど、まだそういう見識を深めていない若い人でも楽しめる点で優れている。続編である『化物語』において主人公の暦は戦場ヶ原ひたぎを怪異から救い恋愛関係になる。
ライトノベルや漫画、アニメにおいて友人や恋人といった親密さについて考えさせる作品は多く(特筆すべき作品は『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』、『俺の妹がこんない可愛いわけがない』、『響け!ユーフォニアム』)、この作品においても入れ替え可能性や相性についての示唆に富みます。『偽物語』では疑似家族をテーマにしており、ノベル化もされているアニメ『輪るピングドラム』、漫画原作アニメ『うさぎドロップ』など家族の在り方が問われるアニメもいくつかあります。
『化物語』は泉鏡花『高野聖』のような怪奇小説の流れを汲みながらも、ライトノベル作品によくみられるハーレム、ガールズラブ、時間ループなどのアニメ・漫画的リアリズム要素を導入したメタフィクション作品です。
提出用
文学とは何かを考えるにあたって小説を物語と文体の2方向から考察してみる。物語として小説を読むとき、現実世界を写しとる方向と言語によって表現しうる世界を写しとる方向の2作品に分類できる。
前者の現実世界を写しとる方向では時間推移のなかでの人間の営みを言語に回収するが、そこで再認識されることは私たちが日常的に認識している現実世界のあり方は既に言語によって構成された虚構であること、そして読書のなかでそれらを更新して他者の内面や社会というシステムといった概念にリアリティーを与え、日常生活における認識に組み込み直しているという再帰性があるということだ。
これは詩歌、随筆、評論文、戯曲などでも同様であり、言語によって記述される対象が人間であり、その時間推移の物語の解釈を巡って日本語や英語といった日常言語を用いて写しとるときその営み全般を文学と呼ぶし、数学など数理的言語を日常言語に組み合わせてさらに科学という探究方法で記述に制約を与えれば心理学や社会学、医学となる。
純粋に頭の中だけで考えられた数理的構造や僕らの日常生活を制約するという意味で実在が実感できる物理法則を数理的言語と日常言語によって記述する際にも科学者は整合性やこうあって欲しいあり方といった物語というものを意識している(例えば数学が誕生し育っていく過程の物語性を考察した本に志賀浩二『数学が育っていく物語』がある)。
文学は心理学や医学と違い科学という方法に制約されることもなく(現代において売れるかどうかという実利などの制約もあるが、小説を書こうなどの小説共有サイトもあり、日本においては表現の自由もあるので他国に比べれば表現の制約は少ない。)
人間の営みを写しとることができるため、人間のあり方を見慣れない側面から異化し写しとる手法が多く発明されてきた。これらは文体の問題にも関わってくる。言語化された媒体が別の言語や文化を共有した共同体に持ち込まれれば翻訳の問題がでてくる。文化や言語の転移を繰り返し言語は変化してきた。それゆえ言語の壁が文学への参入ハードルになり文学離れということも起る。
人間の娯楽時間には制約があり、古文や漢文、外国語の学習、古典文学や評論など基礎文献の通読などに時間を投資するインセンティブが持てない人間は純文学に時間を投資するよりも、より勉強が少なくて快楽を得られる大衆文学やエンターテイメント要素を多く含んだライトノベル、また視覚性に優れた漫画、アニメ、ゲームといった別のメディアへの投資に利を求めてしまう。純文学が優れているのは歴史の蓄積の恩恵にあたることができる点である。
一つの作品から様々な物語解釈が生まれ、人間という存在を巡るテーマが思想的にも深められている。そういった作品群を巡りながら自分の認識を更新する営みは楽しいものであるし、自分も創作や新しい読みの発見など批評といった形で文学の歴史の一部になるというのも魅力的である。
近年のライトノベル、漫画やアニメにおいても文学テーマを導入した作品が多くみられ、これらの媒体は倉橋由美子の作品群にみられる反世界を純粋に体現している作品が多い。反世界とは言語によって表現しうる世界を写しとる方向であり、現実に存在しないもしくは非日常的出来事を物語したものである。
ライトノベルやアニメ、漫画では同性愛である百合ややおい、人間でない存在との恋愛ものである異類婚姻譚、異世界訪問譚、時間ループものといったジャンルがありこれらはとても人気がある。
作品によっては設定に深みを与えるため神話や古典を下敷きにしていたり、倫理学や社会学、歴史学、神学といった学問を意識しているものもある。僕が好きな西尾維新原作のアニメ『化物語』も泉鏡花のような怪奇小説や幻想文学の文脈を汲みながら、性・愛・家族の在り方を異化する良作であるし、バーテンダーが人間の罪をジャッジするアニメ『デス・パレード』も『よもつひらさか往還』に通じるものがあると思った。こういったアニメや漫画を無視して文学を語るのは難しい時代になっていると思う。( 1667文字)
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