森鷗外
本名は林太郎。石見(島根県)津和野の生まれ。東大医学部卒業後、軍医となりドイツに留学。帰国後『舞姫』『即興詩人』などの創作・翻訳、ヨーロッパ文芸の紹介・啓蒙に活躍した。明治末期自然主義文学に対抗し、晩年は歴史小説・史伝を著した。代表作に『青年』『雁』『阿部一族』『大塩平八郎』『高瀬舟』『渋江抽斎』など。その間、軍医総監を経て陸軍省医務局長をつとめた。
井上通泰 - 『於母影』の共訳者で、歌会常磐会の創設メンバーの1人。 上田敏 - 一緒に雑誌『芸文』『万年艸』を創刊する等、親交を深めた。 木下杢太郎 - 医学生時代、鷗外に進路を相談。後年、鷗外の心境を深く理解した。 黒田清輝 - 東京美術学校の後輩教員。鷗外の依頼を受け、故原田直次郎展の発起人を務めた。 佐佐木信綱 - 『めさまし草』に歌を発表し、長年にわたって親交を深めた。 太宰治 - 希望した通り、鷗外の墓のはす向かいに埋葬された(禅林寺)。 田山花袋 - とくに鷗外の審美学(美学の旧称)が好きで、その影響を受けたと書いた。 永井荷風 - 鷗外の推薦で慶應義塾大学教授に就任。生涯その恩を忘れなかった。 中村不折 - 鷗外の自宅から別荘の表札、墓碑銘まで書いた。 萩原三圭 - ともにドイツのライプツィヒ大学に留学した。 吉田増蔵 - 晩年の鷗外に乞われ上京し、元号や勅語や皇族名などに関わり、鷗外の遺著『元号考』を補い完成させた。 夏目漱石 - 著書の贈答を続けるなど親交が少なからずあり、1910年に慶應義塾大学教授就任を打診した(漱石が辞退)。漱石の葬儀にも参列した。