大漢和辞典ができるまで
大漢和辞典
収録する漢字数は五万を超える。
このような大規模の辞書は、漢字の本家の中国にも前例がなく、まさに前人未到、20世紀の偉業といってもいいだろう。 しかし、この辞典の編纂は、非常に困難を極めた。
何度も、中止の危機が訪れ、そして、それを乗り越えて完成したのである。
大修館書店の創業者。
文化に貢献する事業をやりたかったのだそうだ。
1925年、「従来の倍以上の大規模な漢和辞典」(当初構想では1巻本)の構想を思いついた鈴木は、漢字研究で知られた諸橋轍次に打診する。 そのあまりの途方の無さに当初は断られた。
1年3ヶ月がかりの交渉の末、持ち前の熱意で口説き落とす。
諸橋による予備調査の結果、当初の予想をさらに遥かに超えた大著となることが判明。 あまりに膨大な量であることから躊躇もあったが、鈴木と諸橋は協議の結果、刊行作業の続行に踏み切る。
プロジェクトとしては早くも注意信号である。
このとき、今までのすべての資料が焼失してしまう。
それでも鈴木は、戦後、再び辞典編纂の事業を再開する。 しかし、活字を彫る職人の不足などから従来形態での刊行は不可能であることが判明した。
そこで、鈴木は写真植字機研究所(写研)の石井茂吉に写植原字の作成を依頼。
しかし、石井は病気を理由に断る。
鈴木は1年以上かけてこれを持ち前の熱意で口説き落とす。(またかよ)
実に編纂開始以来35年の歳月と、延べ26万人の労力、時価約10億円に達する巨額の資金を要した。
この事業は、大修館書店の経営にも、かなりの負担になったという。
漢文学者。
文学博士。
東洋文化の研究に漢字・漢語の研究は不可欠と考えていた諸橋は、内容の充実した辞典が必要と感じたという。 また、辛亥革命の混乱期にも関わらず、学問への情熱を失わない中国人の学者たちに、いたく感銘を受けたという。 1925年、鈴木から巨大な漢和辞典の構想を持ちかけられる。 予想される規模の大きさと、自身の都合がつかないからと、一旦は断るが、最終的には承諾。
諸橋は自分の研究のために、調べた漢字をカードにしていた。
そのカード数は膨大なものとなっていた。
初めは、諸橋が教鞭を執っていた大東文化学院(現大東文化大学)の学生たちが主力となり、分担して膨大な典籍から漢字と熟語を集めカードに整理していった。
もちろん、リレーショナルデータベースなんか無かった時代なので、分類・照合は手作業で行った。
実に気が遠くなるような作業である。
最終的に集めた漢字は5万、典拠を明示し用例を掲げた語彙は50万に及んだ。
1931年、編纂基礎作業の結果、当初の計画に収まりきらないほど膨大な分量になることが判明。 頑張りすぎだ、諸橋。
あまりに膨大な量であることから躊躇もあったが、鈴木と諸橋は協議の結果、刊行作業の続行に踏み切る。
漢和辞典は高い完成度を追求して構想がどんどん膨らんでいった。 膨大な作業は戦時体制においても中断されることもなく粛々と進められた。
そして、終戦。まさに踏んだり蹴ったりである。
文字通り、お先真っ暗な状態である。
しかし、諸橋は大漢和辞典の編纂の情熱を失わなかった。
このとき、若き日の留学で中国の学者たちの姿勢に学ぶところが大きかったという。
以下、順当に続刊を刊行していく。
平和な時代の恩恵である。
このとき、諸橋は78歳になっていた。
大漢和辞典のためには、これまでに活字化されていない文字の活字を新しくつくらなければならない。
約5万もの文字を、である。
一文字をつくるのにも、次のよう作業が必要である。
鉛筆で下書き、
ペンや小筆でかき、
修正をして、筆を入れる、
そして仕上げ、
このような作業が必要である。
なかには今までに見たこともないような変な字や、難しい文字もある。 1951年、鈴木より「大漢和辞典」を刊行するために使用する文字(写植原字)の製作を依頼された。 このとき石井は64歳。
依頼を受けた石井は当初、病気を理由に断る。
しかし、鈴木は1年以上かけて説得し、石井は、損得抜きでこの仕事を引き受ける。
石井は、独力で47500字におよぶ写植原字を8年がかりで書き上げた。
おそるべき職人技である。
結果的になんとかなったから良かったものの、もし仮に途中で石井氏が倒れてしまったらどうなっていたのだろう。
結び
なにか運命みたいなものを感じてしまう。
鈴木、諸橋、石井の三氏のうち、誰か一人でも欠けたらこの辞典は完成しなかったのではないか。
そう思わずにはいられない。