俳句革新運動
1889年(明治22)頃から始まった文芸革新運動。
感性よりも知識を重視し、陳腐な修辞を志向する旧派俳諧に対し、92年には正岡子規(しき)が新聞「日本」に「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載して、旧派の作法指南書の俳句観を批判。
洋画家中村不折(ふせつ)から写生の方法の示唆を得た子規は旧派を「月並(つきなみ)」とよぶ一方、俳諧に対する俳句の名称を定着させた。
子規門下の河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)らによって継承された。