なんで本はグラフじゃないのか
文章というのは、人が持つ発話というものの制約&書き文字としての取り扱いのしやすさで線形になっている
Scrapboxをそのまま本にする事例はあるが
なんか発話とかの制約以外にも、文章が線形になってる理由があるんじゃないか
何のために文章が書かれるかというと他人に情報を伝えるため
人間は何故かしらないがストーリー仕立てだと飲み込みやすい性質がある 要点だけ共有できればOKならパワポ再生で終わるはずだけど人間はわざわざ読み上げる
その要点に入った時の著者の心情とかが何故か必要とされる
この理由だけど、人間は著者の人格をシミュレートすることで理解するという傾向にあるのではないか ミラーニューロンとかの妥当性とか全く知らないのだけど、とりあえずモデル化には有効だと思う
例えば文章を読んでいる時人の脳内で人形劇が行われると考えると良い
著者の属性が公開されていると文章が飲み込みやすくなる
絵を描く場合も、上手さより「状況が伝わること」が重要だとされる
そのために人物の意図が分かるような描き方をする(見たままには描かない)
絵全体のアイデアはグラフみたいな感じにも思えるけど、描く側としては発散はさせない。出発点が複数あるが一点に収束する
つまり、ストーリー性というのは、グラフのままでは生まれないのではないか
ある種の翻訳が必要
線形性ではなく、発散 vs 収束なのかも
スクボだと結論を頭に持ってくることでこの反転を行うことができる
それはある意味でpublishなのかもしれない
hashrock(@hashedrock)
積み木やままごとやミニカー遊びやお人形遊びは、シンボルを直接操作するという感じでGUIっぽい
hashrock(@hashedrock)
そこから成長するにしたがって人間の活動は何かモーダル的なものになっていくという気がしている(根拠なし)
hashrock(@hashedrock)
他人と連携する必要が出てくるというのが、モードが現れる契機になってる気がするなあ。作業分担や作業順序があると作業のキリの良さとかSyncとかが必要になるからな
hashrock(@hashedrock)
なのでコミットやマージは人が連携するためのもっと一般的な概念なのかもしれないな。
hashrock(@hashedrock)
なのでツールの機能の位置づけを決めるとき、他ツールとエコシステムを形成したときにWYSIWYGとGit的なもののグラデーションが生まれるようにするというのはどうか。
hashrock(@hashedrock)
それはDraftとPublishedの差というような気がする。全部Draftでやればいいという考え方もあるけど、なんやかんや外部とのIF的な清書が必要だなあというところに戻ってきた
hashrock(@hashedrock)
アイデアをストーリーの形に整えるというのは、他人との意思疎通のI/Fになっていて、そこにはかなり思考が必要になる。それは文面の上に一人のキャラクターとその思考を再現するようで、これは読む側にもそのように再現されるのではないか
hashrock(@hashedrock)
なんとなく、書籍というものがグラフじゃなくて文字列で書かれることの理由になっている気がする。