「何者かになりたい」呪い
作家のような1人でやる仕事を多くの人が望むのですが、難しいですよね。今、芥川賞を目指す人が10万人以上と言われています。みんな尊敬されるタイトルが欲しいんです。東大を出ても金持ちにはなれないことは知っているけれども、「この人は東大を出た」という「知的なもの」としての評価を求めているんです。
若者が金銭的に無欲であるというのは感じている
例えば「神絵師」になりたい人がめちゃくちゃたくさんいる
好きなキャラクターを描いて暮らしていきたい的な何か
金銭ではない「何者か」を求めている
とはいえ
尊敬されたいとか、自分にしかできないことで認めてもらいたいとか、そういう欲求はある(諦めてはいるが) 100人の村のなかで、100人全員が尊敬されたいと思っていたらどうなるのか
尊敬の相互ブクマみたいな地獄になるか?
尊敬に偏りが出たときに嫉妬心が起きるか?
「尊敬されてずるい」みたいな謎被害者意識が発生するか
「尊敬される」というのが他者の意向に依存したものである以上、自由にはなれないし、尊敬を仮にゼロサムだとするならば半数は不幸になる
これを解決できるかは知らんが、「他人のスコープを変える人」という役割を考えている
例えば、目の前にてんとう虫が止まってたとする
「てんとう虫がおって嬉しいね」的なことを言う
こういった些細なことを使ってコミュニケーションを取る
些細な部分に目を向けさせる
これがスコープを変えるということ
コメディアンとかピエロ的な存在
注目を浴びたくてそうするのではなく、渋滞している場所で人の向きを変える
世の中の個人に対する要求がインフレしてしまっている(能力が高いことを過剰に要求する)呪いを解く
雑(不条理)でしかも感性は繊細であることが求められる
以下を無効化したい
お客様は神様的な、他者に完全性を求める呪い
成功できなければゴミ的な、マルチ的な教条と、メンタルをやられた人が食い物にされる構造
知識層とマイルドヤンキー層の分断
承認を求め続ける人間とそれに加担するSNSの構造
達成と逸脱的な世界観のまま年をとってしまった人
このツリーが興味深い
ultraviolet(@raurublock)
「何者かになりたい人」の本当に求めているのが「自分が何者かになること」と言うより「自分が何者かであるとして扱ってくれる周囲の人々」の方、てのは割とよくあることで
これはマッチョイズム寄りの言い方だとは思う
この欲求自体は、社会的動物としての本能でもあると思う。そこを(無自覚に?)ハックしようとする人間がいるが
宗教はコミュニティであり、居場所を与えるという点ではセーフティネットである 世界的には何らかの宗教コミュニティに属する人間のほうが多い
日本の場合、「何者かになれる」後ろ盾を失い、それを自己責任に帰される社会だから深刻になるのかもしれない
自分としては「結婚して家庭を築いた」人は何者かになっているように見えてしまう…
(これ自体は偏見なので、自分が乗り越えるべき課題だと思っている。いい年した独身者に対する偏見の呪いを自分も受け継いでしまってる)
けど既婚者で不幸そうだったり、所属欲求を満たせていない人はいるなあとも思う