『待つ』という行為は宗教における最も強力なプラクティスの一つである
世界宗教においては
食事の前に祈る
睡眠の前に祈る
というように、生物が最も幸せを感じる日常行為の前に祈ることが定められている
これは「祈る」という行為によって「待つ」という行為を行わせているのである
では、この待つという行為には何の意味があるのだろうか
実は、人間は待つことによって幸福を増幅することができるのである
なぜか?
これは「待つ」ことによって「認識」ができるからである
そもそも幸福というのは認識しなければ実感することもない
つまり、どんなに幸福なことがその人へ降り注いでいたとしても、その人がそれを認識しない限りはその人は幸福になり得ないのだ
したがって
人は幸福を享受する直前に待たされることによって、
これから得る幸福の大きさを認識し、
実際にその幸福を享受した際には大きな感動を得ることとなる
大きな感動を得る すなわち脳内に強力な書き込みを行うのである
「なんか めちゃくちゃデカい収穫が得られた❗️」と
この書き込みは当然に 脳内にさらなる処理を引き起こす
「めちゃくちゃデカい収穫⁉️それどうやって得られたんや⁉️」という質疑プロセスの始動である
この質疑プロセスは収穫を得るに至った因果の特定を目指し
そしてそれが見つかれば、その因果は深く脳内に刻まれることとなる
ところでイスラム教のラマダンは興味深い
ラマダンは「食事や性行為を太陽の出ている時間において禁止する(すなわち待つ)」というプラクティスであるが
これは一年のうちに1ヶ月しか適用されない
人間は『惰性』という機能が実装されているため、どんなことにも「慣れる」ことができる
そうすると『待つ』という行為にすら慣れてしまうのである
つまり、待っているが待っていないのと変わらない状態になることができてしまうのである
そこでプラクティスを常時行わせるのではなく、年に1ヶ月のみ行わせる
というシステムを発明したのである
これによって人々は日中の断食に慣れることがないので、毎年ラマダンの月には確実に「めっちゃ待つ」という体験を得られるのである