アスリートとしてのYouTube
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#YouTube道
YouTubeをやるということは、アスリートとして生きるということだ。
これは比喩ではない。僕は本気でそう思っている。
全世界が競技フィールドだ
まず、市場を見てほしい。YouTubeという競技場には壁がない。ジャンルの壁も、国境の壁もない。僕たちが奪い合っているのは、視聴者の可処分時間だ。その相手は同ジャンルのチャンネルだけじゃない。MrBeastであり、加藤純一であり、水曜日のダウンタウンだ。全世界の、あらゆるコンテンツと同じフィールドに立っている。ローカルの大会に出ているつもりでいたら、いつの間にかワールドカップの予選が始まっている。そういう場所だ。
「すごいですね」はスタートライン
そこで戦うために必要な努力量は、一般的な感覚からすれば異常に見えるだろう。だが、アスリートにとってはそれが普通だ。パンピーの「すごいですね」は、アスリートの日常にすぎない。周囲に驚かれるレベルの努力は、この市場ではスタートラインでしかない。
1日8時間では戦えない
だから、「仕事」という枠組みで捉えている限り、この世界では戦えない。仕事は1日8時間。残業があっても、週末があって、オンとオフがある。ではアスリートはどうか。土日も時間も関係ない。食事、睡眠、体調管理、すべてがパフォーマンスに直結する。コンディションが落ちれば、企画力も編集のキレも落ちる。つまり、健康管理をすることは、YouTubeを伸ばすことそのものだ。生活のすべてが競技の一部になる。「仕事」ではなく「競技生活」として捉えなければ、この市場の要求水準には応えられない。
教科書を作る
そしてもう一つ、アスリートの世界と決定的に似ている点がある。教科書がないということだ。
アスリートは、運動という科学でもまだ完全には解明されていない領域に挑んでいる。正解が書かれたマニュアルは存在しない。大谷翔平はシーズン中であってもフォームを変える。結果が出ていても、もっと良くなる可能性があれば躊躇しない。イチローは当時の常識に反して筋トレをせず、自分の身体感覚を信じ抜いた。どちらも、誰かの教科書をなぞったのではない。自分自身で仮説を立て、試し、修正し続けた結果だ。
YouTubeも同じだ。アルゴリズムは変わる。視聴者の感覚も変わる。昨日の正解が今日の不正解になる。他人のノウハウを真似るだけでは、ローカル大会の選手止まりだ。この市場で生き残るには、自分自身の方法論を構築し、仮説検証を回し続けるしかない。
君のアレテーは何だ
アスリートとして生きるなら、自分のアレテーに向き合い続けなければならない。
アレテーとは、古代ギリシャの言葉で「卓越性」を意味する。自分だけが持つ、固有の卓越性。それを見つけ、磨き続けることが、アスリートの本質だ。
「自分の才能は何か」を考えろという話は、よくある。でもそれは「どうしたいか?」「何が好きか?」という問いになりがちで、その立て方では足りない。
見るべきは、状態だ。
サムネを作ったあと、反省点が勝手に湧き上がってくる。編集された動画を見て、「もっと面白くできるだろう」と怒りが込み上げる。そういう、自分では意図していないのにアテンションが向かってしまう先。そこから生まれる情動。それがアレテーの手がかりだ。
ピッチャーの才能を持っているのに、キャッチャーをやっている人がいる。本人すら気づいていない。だからこそ、自分の内側で起きていることを観察し続ける必要がある。何に自分は反応しているのか。何に怒り、何に心が動くのか。その問いを、やめてはいけない。
数字にならないものを見つめろ
もちろん、分かりやすい話もできる。もしサムネで圧倒的な成果を出せる才能があるなら、サムネだけをやり続けてもいいかもしれない。サムネの力で再生数や売上を2倍にできたら、その浮いたお金で他の職務を人に任せられる。合理的だ。
でも、僕が言いたいのはそういうことじゃない。
芸術とは、そういうものだ。自分の状態と、自分の人生と向き合って、初めて外が開けていく。
たとえば、演者のモチベーションをめちゃくちゃ高く上げられるとか。再生数が落ちてしんどいときでも、チームを鼓舞できるとか。そういう、数字では絶対に表現できないもの。KPIにも、ポートフォリオにも載らないもの。
それこそが、君が見つめるべきものだ。
静かな問いを持ち続けろ
YouTubeはアスリートの世界だ。全世界と戦い、常識外れの努力を日常にし、教科書のない道を自力で切り拓く。しかしその根底にあるのは、自分自身の状態に耳を澄まし、自分だけの卓越性を問い続けるという、極めて静かな営みだ。
その静かな問いを持ち続けられる人だけが、この競技を長く続けられる。