小さな物語としてのギャザリング - 「純文学を読み切らないと出られない部屋」に参加して
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土曜の残業を終えて、だだっ広い公園の入り口にたち。
無機質なコンクリートとは対照的に、歩きスマホをしようものなら、足を救われるような木々の根に命の蠢きを感じながら、座標を目指す。この辺かとGoogle Mapで座標の方角を確認すると、俯いて本を黙読する若い人たちが目に入った。
この同じ地面で、ちょうど四十年前、歩行者天国の合間に音楽を鳴らして踊っていた若者たちがいた。竹の子族と呼ばれた連中だ。制度の外側で、ただ身体を寄せ合って踊っていた。
同じ場所で、また人が集まっている。ランニングクラブ、筋トレコミュニティ、趣味を口実にしたゆるい群れ。名前は違うが、やっていることは似ている。会社や血縁などの外で、身体を介して、つかのまの紐帯をつくる。ギャザリング、とでも総称しておこう。 生成AIによって、仕事の価値や将来の見通しさえ揺らぎはじめている。労働に人生の意味を預けることも、以前ほど簡単ではなくなった。国や企業などビジョンに何も共感ができない。もう僕らは大きな物語を作ることも、信じることもできず、目先の一年、いや1日で効用が得られる営みにしか、嗜むことができなくなっているのではと。
走れば今日、達成した記録をSNSあげることができる。鍛えれば今日、身体が張り、成長を実感する。今日もそうだ。「純文学を読み切らないと出られない部屋」に参加すれば、1冊の本を読み切った達成感を得られる。
社会学の祖、デュルケームは「集合的沸騰」という現象が、祭祀の場で発生すると説明した。同じ目的のために同じ行動をとることで、人々の感情が呼応し、熱狂的な一体感や強い感情的エネルギーを生み出す。僕はこの現象を欲することは、三大欲求と同じように、人類の生得的に備わったものだと確信している。 戦争経験者は時に、「あの時はなんだか皆んなが手を取り合って楽しかった」と言う。猛烈に働くベンチャー経験者も「週7働いて数字達成するのが気持ちよかった」と言う。その物語の中にいる時、人は苦しみすら意味に変換できる。疲労も、犠牲も、不安も、「自分たちは何か大きなものに参加している」という感覚によって、ある種の高揚に変わってしまう。
かつては、そうした国・企業という大きな物語の中に、個々人が耽溺することができていた。
でも令和の僕らは、もうそういう大きな物語を信じきれない。「この船に乗っていれば未来へ行ける」と言うものは存在しない。スペースシャトルの中に乗っても、みんなは宙ぶらりんになり、それぞれがバラバラだ。だから僕らは、もっとインスタントに手を取り合える小さな物語に縋りたくなっているのだろう。国や企業のような巨大な物語ではなく、「今日、この場にいる人たちと達成できること」 が、今の時代にとって一番リアルな物語になっている。行き過ぎた資本主義社会による、類的存在(社会の一部であると言う感覚)からの疎外。そこで、「集合的沸騰」を体感できるギャザリングが、今令和に新たに勃興しているのではないだろうか。 SNSで可視化され過ぎて、社会構造も、資本主義も、人間の欲望も、メタ的に見えてしまう。見えすぎるがゆえに、何かに本気で乗ることが難しくなる。二谷のように。けれど、だからといってすべてをニヒルに済ませることもできない。ギャザリングに集まる人々を、単に「陽キャの集まり」と片づけることはもうできない。そうした冷笑的な態度そのものも、いまや「まだそんなところでニヒっているのか」と、メタ的に批判される対象になってしまう。いまの令和に求められている感性とは、おそらく、浅田彰的な「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」ことなのだと思う。 他方、ギャザリングにくる人は、それを本業として人生の軸として置いていない。そこに没入しているわけでも、ニヒるにスマホの画面から冷笑しているわけでもない。シラケている。けれど、ノっている。ノっている。けれど、どこかでシラケている。この構造に非常に近しい。そこには、バラバラになった社会の中で、もう一度“共にある感覚”を取り戻そうとする、かなり根源的な欲望がある。