筋トレは死と向き合う
スクワットで自分より重いバーベルを背負って、体で耐える時に、押しつぶされて、死を感じるんだよ。
でも死を踏み込むんでいるものが、急に病気になったり、自害したりしないだろ。
死というものを自分のコントロール下において、死を感じることでしか生を実感できないと思う。死があるから、強い生が得られると思うんだ。
僕は三島由紀夫が自害したことを肯定したり、理解できてる訳ではないが、 僕にとって筋トレをするというのはそういうことなんだ。
死の匂いを嗅ぎに行くことで、それを消し去るんだ。
死というのは、日常の延長線上で、生活の一部で、身の回りにあるのだけど、僕らはそれを捉える感覚器官がないんだ。 だって皆んな重力を普段感じないでしょ?人間の五感を拡張できた人は
意識は一見受身のやうに思はれ、行動する肉体こそ「果敢」の本質のやうに見えるのだが、肉体的勇気のドラマに於ては、この役割は実は逆になる。肉体は自己防衛の機能へひたすら退行し、明晰な意識のみが、肉体を飛び翔たせる自己放棄の決断を司る。その意識の明晰さの極限が、自己放棄のもつとも強い動因をなすのである。 苦痛を引受けるのは、つねに肉体的勇気の役割であり、いはば肉体的勇気とは、死を理解して味ははうとする嗜欲の源であり、それこそ死への認識能力の第一条件なのであつた。書斎の哲学者が、いかに死を思ひめぐらしても、死の認識能力の前提をなす肉体的勇気と縁がなければ、ついにその本質の片鱗をもつかむことがないだらう。