消費社会の神話と構造
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という流れ
アイデンティティは病
モノと一緒にひしめき合う
消費と自己実現は不可分になっている
広告を含むメディアに権威が偏る
広告は、あなたがあなたになるための物語をでっち上げることができる
コードの要素の組み合わせにもとづくまったくつくりものの「ネオ・リアリティ」が、いたるところで現実に取ってかわっている。オペレーションズ・リサーチやサイバネティックスで用いられるシミュレーション・モデルに似た膨大なシミュレーション過程が、日常生活のあらゆる領域で進められている。実物の特徴や要素を組み合わせてひとつのモデルが「製造」され、現実のさまざまな側面を組み合わせて事件や構造や状況の予測が行われ、この予測から現実の世界に働きかけるための戦術が決定される。この方法は、慎重な科学的研究の場合にはひとつの分析手段となるだろうが、マス・コミュニケーションにおいては、現実としての力をもつことになる。そこでは現実は消え失せて、メディア自身によって形を与ネられたモデルがもっているネオ・リアリティが優位に立つ。(※後点部、青色に変更) 大衆の疲労が臨界点に達し、五月革命などが起きることを示唆 言葉と者とお選ぶのも、ananを選ぶのも差異はない
消費社会の主役たちは疲れきっている。彼らの疲労については、心理=社会学的立場からさまざまな解釈を試みることができる。消費過程は、機会を均等化したり社会的(経済的または地位をめぐる)競争を緩和したりするどころか、あらゆる形態の競争を激化させる。消費することによって、われわれはついに競争状態が普遍化され、全体主義化される社会に生きるようになる。この社会では、経済、知識、欲望、肉体、記号、衝動などあらゆるレベルで競争原理が買徹し、今後はすべてのものが差異化と超差異化の絶え間ない過程において交換価値として生産されるのである。( ※傍点部、青色に変更)
小林秀雄はいっている。<私小説は亡びたが、人々は「私」を征服したらうか。> 私小説は又新しい形で現れて来るだらう。フロオベルの「マダム・ボヴァリーは私> だ」といふ有名な図式が亡びないかぎりは(「私小説論」)。しかし、こういう> いい方は馬鹿げている。われわれはこう問わねばならない。物語は亡びたが、人々は「物語」を征服したろうか、と。 「私」 アイデンティティ とは即ち、様々な「物語」の集積であり 極論、「物語」とはパターンである。 物語を構造を理解して、適切な距離を保つ
小説から遠く離れて
線の顔を持つ英雄
物語の法則
ああ、そういうパターンねと俯瞰しやすくなる
本当の自分のというものがあるとしたら、それは物語と程よい距離が取れたその地点にこそ立っている
消費が「記号」を求めるゆえに無限に続くという思想は國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』でも紹介されていました(逆に「浪費」は記号を求めないので無限には続かないそうです。本当にそうなのか?と疑問はありますが)。
https://www.youtube.com/watch?v=mlm53PGc07E&t=845s
「メルセデス・ベンツ 300・SL」と「レシタル染髪シャンプー」の広告のこうした例を引> 用しボードリヤールは、「「オプショナル」な商品の「個性化された』系列を身につけることに> よって、われわれは、われわれをほかならぬわれわれ自身にしてくれるような差異を絶えず必> 死になって探し求めている」( 111真。以下引用はすべてボードリヤール著「消費社会の神> 話と構造』)と指摘する。つまりこの消費社会においては、「個性」「本当のわたし」「自分らし> さ」は等価な交換可能なものとして選択され明示されるのである。当然、「ベンツ」を選んだ