サピア=ウォーフの仮説
1984(小説)のWikipedia読んでて知ったかも?t3.icon
@rkmt: 「言語化」と言っている人々はデカルト型(?)の、まず思考があって言語はそれを伝達する手段、と思っている人が多い気がしてる。そうすると「言語では伝わらないものがある」という意見に流れがち。一方、サピア=ウォーフ型の「言語そのものが思考を既定する」という立場だと、言語「化」のバケがなく
2026/03/22にこれは違うでしょみたいな話をした気がする
言語「化」のバケがなく、言語=思考
このへん違うよね
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強い言語相対論と弱い言語相対論があって、強いのはともかく弱いほうは常識的な立場なんじゃないのって思う
東京に出た関西出身の人が、標準語を喋ってるときは大人しくて、地元に帰って関西弁で話してるときはテンション高い、みたいなやつとか(書いててそれは言語の問題じゃないだろとおもいました、例えが下手、しかしどれがどう影響しているか判断するのは難しいとしても、なんだか影響はありそうな感じというか、うまく実験すればなにか言えそう感はある)
「言語化」の話でいえば自分はなんか常識的なことしかいえない
「規定する」というと言い過ぎだが、「影響する」というのはありそう。影響の度合いは具体的には分からないが、度合いにしても簡単に示せるものじゃなさそう(シチュエーションによったりだとか、言語の何がどう影響を与えるかってのはいろいろありそう)
「言語化」は大事だと思う。言葉にしなきゃ伝わらないものがあるし。
文法がないと伝えられない複雑さはある気がする。情報の圧縮率が高い分だけメディア的に有利なところがありそう。
もちろん圧縮率が高い分だけ「正しく伝わる」ための共通する前提条件が厳しくなると思う。
あと言語化によって切り捨てられる感覚みたいなものもある(ことばで表現できないこと。言葉では伝えられないがほかの手段では伝えられるものってあるんだろうけど、なんとなく正しく伝わっているか判断するのが難しそう、言語は正しく伝わっているか判断するのが他の手段と比べて簡単そう)。
「正しく伝わる」というとき、どれだけのものを期待するかによる。社会的な話?
一方で、思考を伝える方法は言語以外にもいろいろな手段がある。絵を描いたり、身体を一生懸命に動かしてみたりとか。
どちらにどう優劣をつけるかってのはこれまた状況によるんじゃないの?
現代社会(主語が大きい)においては言語優位のほうが生きやすそう、なんとなく
「言語化」というとき、なにを言語化するかの話が抜けている?思考の言語化、感覚の言語化......。
ここまで書いてて暦本純一の元ツイートを読んだら、細かい話は置いておいて、心がけとしての「言語化」みたいな話は分かるなと思った。壁打ち的に言葉を書いて頭の中を整理する(例えば現に今)ということを「言語化」というのなら、そういう「言語化」はだいじだとおもいました
でもこれ言語相対論関係なくないか
ツイッターのオタクすぎて、サピア・ウォーフの仮説というと、2010年代後半にツイッターの一部界隈でポストモダン批判の文脈でサピア・ウォーフの仮説について議論(というよりツイバトル)があったことくらいしか思い出せない
すべて記憶の彼方だが、ポストモダニズムが前提とするソシュールの言語相対論的な言語観は現代の言語学的には正しくないんだ、だからポストモダニズムも正しくない、みたいな話が発端だった気がする
ポモ批判で言語相対論を焦点にするのは正しいんだろうか、というのは今の個人的な感想
ソシュールから延焼してサピア・ウォーフの仮説もこき下ろす流れになり、一方で、実際にウォーフの本を読んでみるとそんな単純な話ではないよ、と指摘する人が現れ、議論するうちになんかツイバトル然としてきて......みたいな流れだった
あのころはこのルートのポモ批判(社会構築主義批判)がポリコレ批判に回収されていなくて、なんか平和だった気がする
#思考と言語