「思う」と「考える」
無意識の情報処理を「思う」
自分の意志によって知的作用を発生させる(「知的作用の対象を選ぶ」と表現されている)のが「考える」
思う+考えるの営為が「思考」
sta.icon
ひっかかった
「考えるとは対象の選択である」という哲学?
sta.iconの中では
「考える」は知的作用の対象を選んだ後の、その対象をこねこねする部分を指すイメージだった
対象の選択も「考える」に含まれるが、ウェイトは大きくない
(むしろ最初はこねる方がウェイト100%で、選択という行為(営為?)も「考える」に含めるんだって視点に全然気付けなかった)
性格が出ているのかもしれない
僕は自分は出来ると思っているから、こねこね部分にウェイトを置きたい
同じ対象を選んだとしても、どこまでこねれるかが人によって違う
rashitaさんはたぶん「人間はしょうもない」と捉えていて(そんなことどこかで言ってたような)、こねこねする部分にウェイトを置くことになんていうかそうじゃない感がある……?
その前に何をこねこねするかをちゃんと選ぶべきだろう、と
あるいはモデル
対象は少ないが深い、ととらえるのか(sta.icon)
対象は浅いが多い、ととらえるのか(rashita.icon)