現実界とは何か
象徴界は言語の世界であり、人間の世界とは言語を媒介する世界であった。だが、言語であらわすことのできない、言語以前の生の領域が確かにある。それが、現実界だ。
木を見たとしよう。この木について人は、幹は茶色で緑の葉っぱを付けていて10m以上の高さがある、と説明したとする。しかし言葉にする以前に、木それ自体に遭遇していたはずである。そして木と地面と空といった区別が存在ない状態、これこそが現実界である。ほかにも、圧倒されるような美しい景色や、突然遭遇した事件の、言語化される以前のものが現実界であり、そのとき人は現実界に遭遇しているといえる。
人は現実界を説明できないのに、なぜ現実界は重要なのだろうか。それは、現実界と象徴界が密接に関わっているからに他ならない。そしてポイントは双方向的に関係をもっているのである。
ラカン曰く、「<象徴界>は<現実界>に穴を穿ち、さまざまに違ったかたちに彫り上げる」(51)。「実際、<現実界>を認識する方法のひとつは、なにかが<象徴化>の作用をうけないときに、それと気づくことである」(52)。例えばコロナを考えてみよう。コロナは中国で発生したとか、人口を減らすための策略だとか、収束することはないとか、さまざまな説が飛び交うが、その象徴化とは関係なしに、コロナは広がり続けている。つまりコロナには象徴化しきれない部分があるということであり、コロナは現実界の乱入と見ることができる。
逆からみると、象徴界以前に現実界がある。現実界を象徴化することで意味を持つという観点に立つと、現実界は象徴界に先立つ。だが、象徴界が完成したあとの残りのものが現実界だとみるならば、現実界は象徴界のあとにくる。これは矛盾である。しかしだからこそ、ラカンの解説者として有名な思想家ジジェクは現実界を評価する(ジジェクの否定性の概念をおおまかに掴みたい方はこちら:「クリームなしコーヒー」と「ミルクなしコーヒー」からみるジジェクの思想)。現実界は矛盾がそのままにある場所なのだ。このようにみると、想像界は矛盾が和解した場、象徴界は差異によって、「AではないB」によって定義づけられる場であるともいえるのである。