アブダクション
アブダクション(abduction)がどういう思考方法なのかということは、すでに一一八二夜(『パース著作集』)にあらかた案内しておきました。言うまでもなく、アブダクションは「仮説的推論」というもので、適切な説明のための仮説をつくる方法のことをいいます。これは方法論なのです。しかし、その後、何人もの知人や研究者やぼくの読者と話をかわしてみて、どうもアブダクションの骨法が掴めていないように感じました。仮説形成の意図が充分にのみこめていない。
とりわけパースが、アブダクションという方法こそは「新しいアイディア(観念)を導く唯一の論理的操作」であるとみなしたこと、「帰納はひとつの値を決めるにすぎず、演繹はまったくの仮説の当然の帰結を生むだけである」とみなしたことについて、ちゃんとわかっていない。多くの諸君が「三段論法のような演繹法も仮説を設定しているように思う」と捉えてしまっているのですね。
あとでも少し説明するつもりですが、演繹法における第一段階の仮説設定は、「ある仮説が与えられているとする」という出発条件だけのもので、演繹法では説明仮説はつくれません。そこに介入するのはアブダクションだけなのです。
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そこで、今夜はアブダクションの〝骨法〟だけをかいつまんでおきます。これから書くことはむろんパースの考え方にもとづいているのですが、すでにパースについては、その博学ぶりとともにたっぷり千夜千冊したので、また、パースの説明にはいろいろの言い方が混在しているので、今夜とりあげる本はパース研究を日本で牽引してきた米盛裕二さんのものにしてあります。
ただし、この本は必ずしも明快ではない。詳細でもない。だから適宜、補っていきます。むろんパースの著作からの引用を米盛さんのものと一緒に随時組み込んでいくのですが、ほかに今夜の狙いにいくらかあずかりそうな、たとえばウィリアム・デイヴィスの『パースの認識論』(産業図書)、イヴァン・ムラデノフの『パースから読むメタファーと記憶』(勁草書房)、有馬道子の『パースの思想』(岩波書店)、それに加えてリチャード・ローティの『プラグマティズムの帰結』(御茶の水書房→ちくま学芸文庫)なども補います。
その前に一言。アブダクションは編集工学にとってもきわめて重要な方法です。一一八二夜にも「パースの編集工学を遊学する」とも「アブダクションの編集工学を遊学する」とも書いておきました。編集工学は、まさに〝3A編集工学〟とでも言いたいほどに、「アナロジー、アブダクション、アフォーダンス」の三つのAを方法として重視しているのです。とくに編集工学の実際の作業プロセス(editing process)では、アブダクティブ・アプローチを採用しているところが少なくありません(アフォーダンスについては一〇七九夜などを読んでください)。
われわれの思考には直観的なものがはたらいているだろうと思われています。ピンとくるとか、ハッとわかったとか、そういうことが実際にもよくおこる。たしかに誰だって、説明がつかない発想のようなものが突如としてパッと思い浮かんだりする。これはパースがいうところの「新しいアイディア(観念)」です。
しかしピンとくるとか、ハッとわかるって、どういうことなのか。それが容易におこるなら、いつもそうなってほしいものですが、そういうことは残念ながらときどきしかやってこない。しょっちゅうはおこらない。ということは、ここにはなんらかの「しくみ」があるはずなのです。ストッパーがあったり、抜け道があったりするのかもしれない。そのあたりを見抜いて、パースは「非仲介的な直観などありえない」と言ってのけました。そう、断言したのです。
これは、直観(intuition)はきっと何かを媒介にしている、直観は媒介的なんだということです。直観でさえ編集的なプロセスをもっているということです。今夜はまずはこのことを念頭においていただきたい。ちなみに一一八二夜では、アブダクションをあえて「推感編集」とも意訳しておいたのですが、今夜はアブダクションはアブダクションとして書き進めることにします。
で、もう一言。いまごろになって日本のビジネスマンに「ロジカル・シンキング」が流行しています。コンサル屋はたいていこれを採り入れている。日本で妙にはやりだしたのは、マッキンゼー出身の照屋華子と岡田恵子の二人が二〇〇一年に発表した『ロジカル・シンキング』(東洋経済新報社)あたりが火付け役だったでしょうか。
ロジカル・シンキングは論理学そのものではありません。「論理的な考え方をしてみること」です。日本きっての論理学者の野矢茂樹はロジカル・シンキングという用語は論理学的ではない、せいぜい企業や自治体が使いたがっている程度の用語だと言っています。実際にもコンサル屋のロジカル・シンキングはクリティカル・シンキングであることのほうが多く、そのためMECE(ミッシー)などという合言葉が流行しています。「互いに、重複せず、全体に、漏れがない」(Mutually, Exclusive, Collectively, Exhaustive)のイニシャルをとった合言葉です。でも、これはひどくつまらない。いや、まちがっています。
パースや編集工学はそんなふうにしない。むしろ重なりから生じうるもの、漏れ(欠番)が表示すること、ズレこそがつくる意味をこそ重視するのです。なぜなら、重なりには重なるだけの、漏れるには漏れるなりのコンテクスチュアルな事情が隠れていたわけで、それらのズレから再発見もおこるからです。そこをロジカル・シンキングは消そうとしてしまう。それではダメです。
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ロジカル・シンキングとて、そのおおもとではそれなりの論理学に依拠しているのですが、そういう論理学は演繹法と帰納法を重視しています。コンサル屋のロジカル・シンキングも、主に演繹法を前提にしながら、ときに帰納法を入れこんでいます。しかしパースは演繹法でなくて、あえて帰納法に加担し、さらにそこから第三の論理学とも新たな論理思考ともいえるアブダクションの有効性を主張しました。そこが意義深い〝骨法〟になるところです。
それでは、以上のことを枕にして話をすすめますが、念のため、少しだけリクツの顛末を説明しておきます。
アリストテレス以来、論理は真理を導くための「論証のプロセス」でできているとみなされてきました。論証のプロセスとは、いくつかの前提から未知の結論を段階的に導いていくことをさします。これをまとめて「推論」(inference、reasoning)といいます。
推論の方法には、もともと分析的なものと拡張的なものがありました。ロジックの中を詰めていく詰め将棋のような推論と、ロジックによって外に広がっていこうとする推論です。この分析的な推論の代表には「演繹法」(deduction)があり、拡張的な推論には「帰納法」(induction)と、そして第三の仮説的論理ともいうべきアブダクション(abduction)があります。
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演繹法はすこぶる段階的で、分析的(analytic)です。順序だてていく推論です。かつまた、はなはだ解明的(explicative)な推論です。だから科学のロジックづくりにはけっこう向いている。技術革新をしたいのなら、またノーベル賞をとりたかったら、演繹に徹したほうがいいでしょう。
一方の帰納法のほうは観察事実をいろいろ集めてそこから共通項をさぐって推論するものなので、そのぶん自己点検的で自己監視的な推論です。帰納法はセルフモニタリングする推論なんです。
もう少し二つのちがいを端的に比較していえば、演繹法は与えられた観察データを〝説明する〟ための論理を集約的に形成するものです。わかりやすくいえば、「◇◇◇だから、☆☆☆である」という論理を数珠つなぎにしていって結論を引き出すという、そういう推論です。三段論法が有名ですね。
すなわち、一般的な大前提を根幹にして(→人は死ぬ)、そこに中間段階の展開を加え(→ソクラテスは人である)、最終の言明(→ソクラテスは死ぬ)を確立するという方法です。こういう三段論法が最もよく知られているように、演繹法は仮定をひとつずつ検証可能な真実かどうかを確認しながら進むため、導き出された結論は強い説得力をもっています。
ただし、最初の大前提(→人は死ぬ)は、仮説のようでいて仮説ではないのです。一般的な常識のように設定できるか、あるいは数学的な公理のように真とみなされるような、そういう大前提を下敷きにしておく必要がある。
ということは演繹法ははなはだ自己決定的で、問題解決的だという性質をもっているということになります。だから技術や科学にはふさわしい。いったん前提から発進しはじめると、その次からはどんどん前に進みたくなる推論なんです。けれどもそのぶん、最初の一般的な大前提に偏見や誤りがあると(たとえば「民主主義は正しい」等々)、結論もおかしなものになりかねない。
一方、帰納法は観察データにもとづいて一般化をするためのものです。たとえば「人は死ぬ」という仮説を言明するために、「ソクラテスは死んだ、真田幸村は死んだ、リンカーンは死んだ、おじいさんも死んだ、隣りの姉さんも死んだ」というような事例をどんどんあげて、そうした個々の事例の集合にもとづいて「人はみんな死ぬ」という結論を導く。
そういうふうに、いろいろなものに〝もとづく〟という方法です。アリストテレスやキケロは「枚挙法」という言い方をしていました。似ているものを探しながら推理するといってもいいでしょう。
したがって帰納法は「量から質を導くとき」に有効で、そのぶんきわめて自己規制的(self-regulative)になる。これは、量的な現象に対して強いロジックで、それゆえすこぶる自己修正的(self-corrective)な性質をもっているんですね。けれどもどこまで事例を集めればすむかというと、そこは案外はっきりしない。一定の範囲で共通項が見えたら、このくらいでいいだろうという質的な判断がまじります。
ただし、今日のようなビッグデータ時代では、似たような事例はそうとう集まってくるので、こういう場合の帰納法はそれなりに強力です。とはいえ、そればかりしていてはデータが厖大に重くなる。ビッグデータはこの悩みをかかえています。
さて、従来の科学や論理学やロジカル・シンキングは、もっぱら演繹法を採用してきました。アリストテレスに始まった三段論法を核とする推論形式がデカルトのころに、合理の追究は演繹法でいこうというふうになったのだと思います。
以来、合理的な科学はもっぱら演繹的に進み、実験的な化学や技術は帰納法を有効に活用し、全体としては演繹的なリクツでまとめるという論理習慣が確立していきます。ここにダイコトミー(二分法)が大いに適用されることになったわけです。しかし、演繹でも帰納でもない、もうひとつの方法があったのです。それがこれからあらためて説明する「アブダクション」によるアナロジカル・シンキングです。
もともとアブダクションは帰納法の途中から発展していきました。事例をどこまでも集めるだけではキリがないとき、いったん仮説を設定して、その仮説の地平からあたかも戻ってくるように推論を仕上げるという方法です。
この、「あたかも戻ってくるように推論を仕上げる」というところが、たいへん大事なミソです。ツボです。途中で先に進んで、そこから戻ってくる。そのため、アブダクションはまたの名を「レトロダクション」(retroduction)ともいいます。いったん仮想した概念や事例のほうに推論の道を行って、そこからまた戻りながら推論の内実を仕上げていくからです。
パースはアブダクションを拡張的推論(ampliative reasoning)だとも言っていました。拡張的機能あるいは発見的機能をもつ推論だからです。ぼくはそういうアブダクションこそ編集的機能をもっていると思っています。
それでは、どこが帰納法とアブダクションとで大きく異なるのかといえば、次の点にあります。ひとつにはアブダクションは「われわれが直接に観察したこととは違う種類の何ものか」を推論できるということです。残念ながら帰納法には「違う種類のもの」は入りません。似たものばかりが集まってくる。けれどもアブダクションは「違うもの」を引き込むことができる。ここがとても重要なところです。
もうひとつには、アブダクションは「われわれにとってしばしば直接には観察不可能な何ものか」を仮説できるという特色があります。いまだに例示されたことのない仮説的な命題や事例を想定することができるのです。これは哲学や社会学がこれまで前提にしてきた概念で言うと、いわば「ないもの」さえ推論のプロセスにもちこむことができるということで、きわめて大胆な特色になります。ぼくが気にいっているのは、ここなんですね。
このような驚くべき特徴は、アブダクションには例外性や意外性をとりこめる「飛躍」(leap)があるということを示します。
これまでの論理学はそのほとんどが「論証の論理学」(the logic of argument)でした。ほれほれ、この通りだったでしょ、だからね、と言いたい論理学ですね。正解を求める論理です。環境判断や化学実験装置や薬学にはこれが必要です。
しかし、仕事を進めるにあたっていつも論証があるべきかというと、そうでもありません。経営や自治体や個人の成長にとって、あるいは芸術や工芸の発展にとっては、論証よりも突破や転換のほうが大事かもしれません。コンサル屋や教育主義者はそういう論証をしたいために、新たなロジカル・シンキングを売りこむのを商売としているのですが、それだけでは意外な企業や例外的な学習法は生まれないし、育ちません。そこには新たな発見の論理が入りません。
新たな打開や発見に向かうには、いったん「ゆきづまり」を辞さない仮説領域に入ってみる必要があるのです。「ゆきづまり」は必ずしも五里霧中の森ではありません。何重ものレイヤーが古い層から最近の層まで重なってちらちら見えていて、そのどこかの具合が絡んだり渋滞したり、極度のストレスを受けているのです。そういうときは、その難渋を突破するために、ここにあえて仮説領域を導入することも必要です。充分にアベイラブルなことです。
パースは、このようなアブダクティブ・アプローチができる論理学を既存の「論証の論理学」ではなく、新たに「探求の論理学」(the logic of inquiry)と呼びました。発見的論理学とか仮説導入型の論理学と言ってもいいでしょう。「ゆきづまり」を打破するためのアベイラブルな論理の使いようを、「行き先」を変えた領域のなかで提示するのです。そしてこれらをまとめて「アブダクションの論理学」(the logic of abduction)と名付けました。
探求や発見をめざすアブダクションは「発見の文脈」(the context of discovery)のための推論です。パースは論証よりも発見を重要視したんです。その発見のために、いったん仮の屋根や仮の工場をつくって、そこで次の文脈に向かっていくことを奨めた。そのことから言うと、ビックデータに立ち向かう帰納法によって「正当化のための文脈」(the context of justification)を求める論法を進めたかったのなら、途中でアブダクティブ・アプローチをするべきだったのです。いったん「ないもの」までを含めて拡張するべきなのです。
このとき、一見すると「意外性」や「例外性」に見える現象や事実や情報の束が登場するのです。ただ、これらはたいてい「驚くべき事実」や「驚くべき方向」のように見えたり、一見、リクツに合わない気がしてしまう。そうすると演繹派はビビってしまうんですね。しかし、ここがポイントです。意外性や例外性は新たな展開にとってとても重要なのです。場合によっては、そこから新たなリクツさえつくれます。
パースは「驚くべき事実C」は、われわれに疑念と探究を引き起こすトリガーなのであって、そこにはたいてい「説明仮説H」が伴うはずだと考えました。こんな例を書いています。パースは十九世紀末の人なので、ちょっと古めかしい例ですが……。
①私がトルコの地方の港町で船から降りたとき、一人の人物が馬に乗り、四人の従者がその人物の頭上を天蓋で蔽っているのに遭遇した。これほど重んじられているのはこの地方の知事か、それに準ずる人物だと思った。これは私の仮説による推論である。
②ある化石がいくつも発見された。それは魚の化石であったが、発見場所はかなりの内陸地だった。この現象を説明するためには、この陸地がかつて海洋であったと仮説するしかない。
③多くの文書がナポレオン・ボナパルト(あるいはギルガメシュ)という名の支配者に関連していた。誰もその人物を見たことはないのだが、その人物が実在していたか、物語られていたと考えるしかない。これも仮説である。
ある意外な事実Cは、その事実Cのための仮説Hとどこかで結び付いているのです。仮説Hは実在しないものかもしれないので、思索に役立たないと思われてしまいます。だからこそ、そのことが意外に思われたのです。
われわれはふだん、あまりにもたくさんの例証の羅列と蔓延した平均的判断にとらわれがちです。それゆえ「ゆきづまり」に直面すると、なにもかもが困難な事情に見えてきます。そして、その原因がさっぱりわからなくなってしまう。しかし、どんなことにも意外な兆候というものがあります。意外であるということは、そこに仮説の余地があるということです。パースはこのときこそ「アブダクティブな示唆」が立ち上がると言います。また、それをときに「閃光」とも呼んでいました。まさに「ひらめき」です。これは、ぼくが大好きなホワイトヘッドの「点-閃光」(point-flash)を想わせる用語です。その閃光こそは洞察の入口なんです。
こうしてパースは、発見的で探求的なアブダクティブ・アプローチが三段階になって進むとみなしました。次の三段階です。
第一フェーズは、探求中の問題について考えられるだろうたくさんの説明の可能性をあれこれ推理しているプロセスです。なんとかして「洞察の示唆」を求めているプロセスです。このとき、あるところで閃光が走る。それが仮説の入口です。閃光は一つとはかぎりません。
ついで第二フェーズでは、思い浮かんだ諸々の仮説のドラフトの中から、その問題の打開にふさわしいドラフト仮説を選び出します。これはレリバントな(妥当性が高い)ドラフト(シナリオ候補)から選んだアブダクティブな仮説です。何がレリバントであるかは、データからのヒントや勘もありますが、当初はいろいろあてはめて確認してみればいいでしょう。「これを適用すると推論がぐっと加速する」と感じられるなら、それがレリバントな仮説です。
こうして第三フェーズでは、この仮説にもとづいた分析的推論や演繹的推論がゴールをめざして走る。ここで、いつまでも仮説にとどまっていてはいけません。もう仮説は措いたのだから、それを確信して次に進むのです。つまり、ここから元の推論の道筋に戻ってくるべきなのです。
これがドラフト先行型の仮説を使った発見的な進め方です。注目すべきはとくに第一・第二フェーズで、どんな作業(認識・推理・思考・表現)をしていいのかが掴めないと、アブダクションのよさがわからない。その腕もふるえない。そうなると、いつもつまらないブレストに終始するというふうになりかねません。
ぼくはそこそこ編集的な思考力をもった持ち主が、いざ企画や表現の推論過程に入っていくとき、仲間たちとディスカッションやブレストばかりして、認識・推理・思考・表現のいずれかをかなりお粗末なものにしているところを何度も見てきました。そんなことばかりしていると、自分が当初に浮かべた直観や途中にひらめいたアイディアの位置(アドレス)がごちゃごちゃになってきて、一気に議論を駆け抜ける突破力を失ってしまいます。これではもったいない。
どうするといいのかというと、パースはそれには、次の四つの条件や基準を意識したり、テイストとして携えているといいと言っています。
A「もっともらしさ」(plausibility)。プラウジビリティという言葉は訳しにくい言葉ですが、「もっともらしさ」とするのが一番でしょう。これはぼくも『知の編集工学』(朝日文庫)で重視したことで、編集的思考や編集作業には欠かせません。わかりやすくいえば、「ぴったりくる、うまくあてはまりそう、似合っている、いい具合だ」ということで、誰もが服装選びなどならピンとくるだろうことを、論理や推論や思考過程にもちこむのです。ただし、もちこむときは一気に、大胆にもちこんだほうがいい。
B「検証可能性」(verifiability)。アブダクションは仮説の先行的導入で進捗するのだから、そのいくつもの導入仮説をしだいに切り落としていくプロセスが必要です。このとき少し検証的であるようにするのがコツです。結論を急いで、どんどこ切り落としてはまずい。フィルターをかけながら切り落とすのがコツです。
そうすると、ムダな情報を切り落としても、そのとき使ったフィルターという武器が残ります。ぼくの場合はこのフィルターに「略図的原型」にもとづく思考を使います。パースはそのフィルタリングには「いったん怪しむこと」が必要だと言っています。妥当な仮説を残すには、その仮説に疑義を挟んでみるということです。ともかくもドラフト仮説にいつまでもこだわってはまずい。パースはこうも言っています。「最も魅力のある仮説は、それが偽である場合はもっとも容易に反証可能なものだという特徴をもつ」。
C「取り扱い単純性」(simplicity)。いくつかの仮説のうち、魅力のあるものが複数ありすぎるときは、まずは単純なものを選んだほうがいい。ついで、もうひとつには、いくつかの仮説を複合編集的につなげていくといいはずです。
パースは、ここで単純性というのは論理的な単純性のことではなく、「もっともらしさ」にもとづく単純性なのだと強調します。そこには「うん、これだったんだ」と思えるようなわかりやすさがあるはずなのです。これはジグソーパズルのピースが見つかる感じではありません。そうではなくて、これまでの仮説による推論のあれこれのプロセスに、あたかも別のところからのマッピング・レイヤーがかぶさって、下に置いておいた地形やプロジェクト・ストリームがはっきり浮き上がって見えてくるというような、そんな感じです。
D「思考の経済性」(economy)。ここでいう経済性とは思考上の経済力のことで、エルンスト・マッハの運動知覚論やマイケル・ポランニーの発見的論理が重視したこととほぼ同じものにあたります。すなわち思考力をどのくらい節約して、効率をあげられるかということです。節約というのは省力化というよりも、複合思考のループ(回路)を最小の複合性にすることです。
パースは多くの人間には動物から受け継いだ能力があり、それは「よりよく推測する能力」(power of guessing right)であったはずだと考えていました。われわれにはそういう能力がそなわっているはずで、アブダクションはその生き物たちがもっていた自然的本能(natural instinct)をうまく活用するのだとも言っています。しかし、最初から本能的であってはいけない。推論がかなり佳境に入ってから本能を使うんですね。これはすぐれたアスリートやアーティストたちがやっていることでしょう。
以上、ここまでがアブダクションの仮説力が推論として有効になるときの手立てのようなものです。
それではさらに、実際にアブダクティブな思考に入ってみると、どうか。もっともっと劇的な効果があらわれます。それはとても気持ちがいいものです。気持ちがいいというのは、自分で推理をしていると「山道の霧が晴れていく」「抜き手をきって海原を進んでいく」といった快感があるということに近い。ただそれには、次のような類推や推論のやりかたにちょっぴり長けていく必要があります。
三つほど挙げてみます。いずれもパースがさまざまな著作のなかで強調していることでもあるのですが、同時にこれらは、ぼくが作業してきた編集工学的な思考や表現のプロセスの実感にもぴったり合致するものです。
第一に、編集的な思索や仕事をしたいなら、すべての試みを「アブダクション→演繹→帰納」の順にやってみることです。
ここに与えられた問題があるとします。その問題の核心を探求しながら、そこにソリューションをもたらすのが仕事のコアコンピタンスだとします(たいていの仕事はそうなっていますね)。このとき、最初から問題の中に含まれる「驚くべき事実C」にできるかぎり早く注目してしまうことを奨めたい。いいかえれば、その問題に含まれる意外性や例外性をできるだけ早めに発見して、つまりは早々に「ゆきづまり」を想定して、それがどんなに非常識に見えようとも、その意外性や例外性を議論できる仮説ステージを早期につくってみることです。つまりアブダクションを最初におこしてしまうのです。
ふつう、問題にとりかかってしばらくは、その問題の中心部にあることばかりを追いかけるでしょう。それはもちろん必要なのですが、同時にそこにまじっている異質性にも注目する必要があるのです。これは九鬼周造が「いき」とか「偶然性」と呼んだものにもあたります。
それには、与えられた問題をさまざまな角度で検討して、この仮説から観察可能な予測がどのくらいあるのかを演繹的に導き出しておくようにします。これでとりあえずの問題の方向が見えてきたら、その問題が社会や企業や人間の認知過程でどのくらい確かめられるものになるのかを、帰納的に(インダクティブに)調べます。
つまり、探索探究の最初の段階でアブダクションによって「発見の文脈」にアテをつけ、最後の段階で仮説がどのくらい経験的な観測にもあてはまるかを帰納させていく。これが重要です。この当初のアブダクションと最後の帰納とのあいだで、適宜、演繹的な実証説明をすればいいのです。
第二に、これは少し慣れてくるとそこそこできるようになるはずなんですが、その問題がどんな帰納的帰結をもたらせばいいかということを想定しつつ、アブダクティブな仮説をつくるクセをもつことです。
それには、問題の帰納的帰結には三つのタイプがあることを見通しておきます。三つというのは、単純帰納(crude induction)、量的帰納(quantitative induction)、質的帰納(qualitative induction)のいずれか、あるいはその複合形があるということです。そして、そのいずれが問題の帰着にふさわしいかをあらかじめ想定しておくのです。
単純帰納は過去の経験や既知の知識にもとづいて未来の出来事や未知のカテゴリーの傾向についての一般化をおこなうことを、量的帰納は確率にもとづいて一般化をおこなうことを、質的帰納は仮説を意味的に検証して一般化をもたらすことをいいます。
このやりかたは、帰納法がすぐれて自己修正的で自己規制的であるという特徴をつかっています。わかりますよね。ここでは述べませんが、このやりかたはオートポイエーシスな方法にも似ています。オートポイエーシスがどういうものであるかは、一〇六三夜に紹介したマトゥラーナやヴァレラの議論、および河本英夫がそれを発展させたすぐれた解説書を読まれるといいでしょう(→千夜千冊エディション『情報生命』第三章所収)。
第三に、これがアブダクションの効力を最も劇的にしているものなのですが、アブダクティブ・アプローチの積み重ねをしていくと、必ずや新たなルールとロールとツールを生み出せるということがわかってきます。
たいていは、まずその問題解決にまつわる新たなルールが輪郭をもって立ちあらわれます。ついでそのルールを推進するためのロール(ときに新たなチーム)が想定できるようになり、最後にそれらを円滑に理解すべきツールが、イノベーティブに見えてくるはずです。編集工学では、この「ルール・ロール・ツール」の三点セットを風邪薬っぽく「ルル3条」と名付けています。ただし、その推論(仕事)にとって、いったい新たなルールが必要なのか、新たなロールを加えればいいのか、それともなんらかのツールの開発が推論(仕事)を革新できるのか、そのことは最初はわかりません。けれどもアブダクティブ・アプローチをしているかぎり、それは必ず見えてくるのです。
このことは、仮説に携わってきた者でないとなかなか獲得できません。ふだんから既存のルール・ロール・ツールに汲々としているようでは、とうていこの発見プロセスには立ち会えないし、新たな提案に立ち向かえないでしょう。
ぼくの経験では、だいたいこんなところがアブダクションがもたらす仮説形成プロセスの独壇場になるのではないかと思います。
もっとも、これだけでアブダクションの骨法のコツが合点できたかどうか、やや心配です。そこで、パースの方法でさらに実践的になっているのは「メタファーの活用」と「関係の重視」だったということを、あらためて付け加えておくことにします。
以下、イヴァン・ムラデノフの二〇〇六年の刺激的な著書『パースから読むメタファーと記憶』(勁草書房)を援用しながら説明します。ムラデノフはブルガリアのパース研究者で、ソフィア大学やニューブルガリア大学で哲学や記号論を教えている俊英で、まだ六十歳になったばかりです。ぼくが見るところ、かなり鋭い考察力の持ち主です。
ただし、ここからはいささかめんどうな議論になるので(ぼくが思い切って集約して説明するので)、わかりにくければうっちゃってもらってかまいません。でも、けっこう重要な指摘が含まれるので、気になる人はじっくり読んでください。
思考や推論には必ずや「概念」(category)が必要です。概念というのは、わかりやすくいえば抽象力をもった言葉のことです。概念はあたりまえのことですが、概念化(カテゴライズ)することで生まれます。たとえばリンゴから「赤」「球体」「果物」を導き出すのが概念化です。人生から「生」「死」「退屈」を抜き出すのも概念化です。そうするとその概念は他にもあてはまるようになります。
ある方向でつくられていく概念の群れには、よく知られているように、上位概念と下位概念ができていきます。中間概念もできます。この、意味のうえでの包含関係は多くはツリー構造的に、あるいは内属外包的に、またしばしば交差したりレイヤーをまたいだりしてトポロジカルになります。そうなると、概念はかなり入り交じることになってきて、これらの出自や系統がわかりにくくなる。子供のころに「好き」とか「大事」といった言葉でいろいろなことを選別していたのが、「愛」とか「重要」とか「必要」という言葉を知ると、ちょっと困ってしまうことに似ています。
そこでパースは、これらの概念に「しるし」をつけることを提案しました。それが有名な「イコン」(類似記号)、「インデックス」(指標記号)、「シンボル」(象徴記号)という思考記号(thought sign)の区別です。パースが〝記号学の父〟と称されるようになったのは、この「しるし」付けの先駆者でもあったからです。
パースの記号の10クラスの分類
『パースから読むメタファーと記憶』 p.96
ただし、「しるし」が付いたからといって、これらは概念化がおわってからの記号化であって、イコン、インデックス、シンボルの区別によって、すぐにわれわれの思考が意味深くなったり、豊かになったりするわけではありません。
となると、そもそも概念化することに何かの発生特質の傾向があったことを想定したほうがいいということになります。実は概念化のプロセスには三つのしくみがはたらいていたのです。ぼくはこのような概念化のプロセスにしくみをもたらすことを、四十年前に「概念工事」と名付けたものでした。三つのしくみは次のようなものです。
①隠された意味をあらわし指し示すための概念化
②検索する自己を励起するための概念化
③退行した精神(effete mind)を広い解釈領域に転換するための概念化
このちがいはけっこう重要です。「隠された意味をあらわす」「検索する自己を励起する」「退行した精神に広い解釈を与える」という、この三つの概念化をめぐる特長こそ、アブダクティブ・アプローチにおいてもエディティング・プロセスにおいても重要なのです。
この三つの概念化は、何のちがいかというと、知覚上でおこるメタファーのちがいに対応しています。
そもそも推論は「注意」(attention)から始まります。「注意のカーソル」の動きをそのつど追えること、それが推論の本来です。パースも「注意は後続する思考に大きな影響を及ぼしている」と言ってます。このとき、われわれの「注意」はいったい何をおこしながら進行しているかというと、その注意が向けられた対象や流れがもつ「意味らしさ」の外示作用(デノテーション=denotation)と、内示作用(コノテーション=connotation)とを、二つ感じながら進みます。
たとえば文章を読んでいるときなら、その文字があらわす言葉や文意が示す直接的で外示的な意味を掴みつつ、その文字や言葉や文意が含むであろう暗示的で内示的な意味を追っているのです。電車から窓の外の町を見ていても、映画やテレビドラマを見ていても、まったく同じようにデノテーション(外示)とコノテーション(内示)がおこっています。ただし、これらは完全に同時には進まない。行ったり来たり、入ったり出たりしながら、進んでいく。
これを詳しく解剖すると、どうなるか。それが「隠された意味をあらわす」と「検索する自己を励起する」と「退行した精神に広い解釈を与える」という作用になっているわけなんですね。
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われわれには、そもそも定位的な思考が数分たりとも持続できないという特質があります。おそらく脳(認知作用)がそうなっているからです。
眼球は一点を凝視しつづけられなくてしょっちゅう微細に動くし、耳から入る音響からその音源の方角を決められません。思考もこれとほぼ同様で、哲学史が早くからあきらかにしたように、同じことをそのまま静止させて考えられるようにはなっていないんです。これは「自同律」といわれてきたもので、同じことを考える前にループに入ってしまうということをあらわします。眠る前に何かを考えていると、たいていループすることを体験しているでしょう。
では定位的になれずに、どうなってしまうかというと、のべつ注意のカーソルがちらちら動くんですね。ときに大胆にも動く。これを認知的にいうと、必ずや連想的になり、類推的になっているということになります。
つまり、われわれの思考習慣は、もともと類似(likeness)や類像(icons)を追うようになっているのです。思考というのはそもそもがメタフォリカルなのです。思考はもともとそういう「メタファーのゆらぎ」の中を進むようになっているのです。ただ、われわれはのべつまくなしに連想的な類似思考をしつづけているために、それらがどのような道筋でどんなバスストップを通過しているのかが、わからない。注意のカーソルのアドレスと動向が自分で見分けにくくなっている。そのためけっこう混乱するのです。
しかし、まずは「検索する自己」をあきらかにし、その自己がデノテーションとコノテーションを適度に使いながら、「隠された意味」を追い求めているとみなせば、どうでしょうか。けっこう、自分の連想思考がどこに向かっているかがはっきり見えてくるはずです。
それでは、メタフォリカルな概念工事が「退行した精神に広い解釈を与える」という作用をもっているとは、どういうことなのか。ちょっと難しいかもしれませんが、次のように考えてみるといいはずです。
注意のカーソルが進んでいくということは(つまり推論を前に進めていくということは)、次々にカーソル・ポイントに登場する対象や情報のあらわれに光を当てているということにあたります。このことは、見方を変えれば、通り過ぎた「あらわれ」を次々に後ろに退行させているということになります。レトロスペクティブにしているということになる。「今は山中、今は浜」の歌が「森や林や田や畑、あとへあとへと飛んでいく」ようなものです。
その、次々に後退していく「あらわれ」は、カーソルの地点から見ればいささか暗い「遠のく風景」ですが、これを注意のカーソルを動かしている「検索する自己」から見れば、その退行していく暗い領域には、なんらかの意識や精神が残響しているということになります。もっと大事なことをいえば、その退行している領域こそは、自分がそのつど想定してきた連想のつながりの総体(あるいはその一部)が脈動していた痕跡のようなものなのですね。
以上、「検索する自己を励起する」ということは、実は「隠された意味をあらわす」という作用とともに、「退行した精神に広い解釈を与える」という作用をもたらしていたということだったのです。アブダクティブ・アプローチとは、まさにこのことだったのですね。仮説形成のプロセスには、このようなメタフォリカルな三つの作用がはたらいていたのです。
今夜の「アブダクティブな骨法」についての話はこれでおわりです。
ぜひとも何かの役に立ててください。何の役に立てるかは諸姉諸兄次第です。おそらくすぐに仕事に役立たせたいと思うでしょうが、だったら、その前に今夜最後のヒントを言っておきます。
仕事に役立たせるには、二つのTPOを身におぼえさせておいてほしいのです。ひとつは、クライアントなどの相手がいる仕事のとき、もうひとつは、調べたり書いたり作ったりする仕事のときです。二つはかなりちがいます。なぜなら相手がいる仕事の場合は、相手に対してアブダクティブにかかわる必要があり、自分でパソコン仕事やデザイン仕事をするなら、自分の知覚作業や表現作業に対してアブダクティブになる必要があるからです。
相手にアブダクティブになるとは、先方に対して仮説を共有させることがゼツヒツの骨法になるということです。それには「もっともらしさ」「検証可能性」「取り扱い単純性」「思考の経済性」を相手と一緒に共有するのです。これに対して、自分にアブダクティブになるとは、この千夜千冊を書くのもそういう仕事ですが、自分で「隠された意味をあらわす」と「検索する自己を励起する」と「退行した精神に広い解釈を与える」を実験しつづけることが必要です。
自分にアブダクティブになるにはどうするかというと、できるだけ読書によってその感覚を実感しておくのがいいと思います。読書というのは、著者のテキストを読むことですが、読み手としてはそのテキストから自分なりの理解をすることが必要です。それには要約できたかどうか、人に伝えられるかどうか、何か別のものとの関連で理解できるかどうかが、ポイントです。
どうすればそのポイントを獲得できるのか。どんなテキストも大きくいえば「導き出す」と「振り落とす」という二つのエディティング・フィルターで出来ています。著者たちはたいていこのフィルターによってテキストライティングをしています。実は本を読むとはその「導き出し」と「振り落とし」を辿りつつ、そこに読み手のアブダクションをどう出入りさせるかということなんですね。
そこで読書をするにあたっては、自分の好きなテキストや信用したい誰かのテキストを選び、そこに「導き出す流れ」と「振り落とす流れ」が見えてくるようにするといいということになります。そういうふうに「読み」の習慣を仕向けておくのがおすすめです。読みながら、「導き出す」と「振り落とす」を区別して、その上で新たに束ねていくのです。
次に、相手のある仕事のためのエクササイズですが、これはふだんのルーチンワークでのコミュニケーションを鍛えます。仲間どうし、会議での発言、チーム内での注文と制作などを、できるかぎり仮説部分と実証部分を分けておくのです。ぼくはどうしてきたかというと、小さな仕事をしているときに自分なりのアブダクティブ・モデルを何度もつくって確認し、それがやや大きな仕事になったとき(そこにたいてい複数の相手が登場するのですが)、そのモデルの拡張を試すというふうにしてきました。
それでは、あとは諸君がこのことを試してみる番です。以上の方法を、ぼくは「アルス・コンビナトリアの方法」とも呼んでいます(→千夜千冊エディション『神と理性』第二章を参照してください)。