第11章 自分の価値観を押し付けないことで対立を柔らかくする
#社会構成主義
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第11章 道徳相対主義から関係規定的責任へ
第11章は第4部「道徳から聖なるものへ」の最初の章です。わかりやすい!と思った章の直後にこれ…でちょっと途方もない気持ちになりましたが、読書会のメリット、色んな人と話ながら読む中で、少しは消化できたかなと思います。
📕関係の中で善悪を生み出す段階
これまでの章でも出てきた通り、「これが善い」と規定することで、お互いの善と善がぶつかってしまう時には、相手は悪になってしまいます(道義的な悪)。
ジブリの映画とかだとこういう描かれ方が多い気がしています。どちらにも事情があって、でもそれがお互い反してしまうと争いになってしまう。
これが行きすぎてしまうと、美徳の名のもとに他者にとって道義的な悪を排除していく「邪悪な美徳」にシフトするそうです。最近だと不謹慎狩りやコロナの自粛警察何かもこれなんでしょうか・・・?
こう言ったものを、第1階の道徳と本書では書かれています。
📕価値が違うものの共存を考える
問題は、全く対立のない状態を作り出すことではなく、互いの根絶にまで至ることのないような対立のアプローチの方法を見つけることである。
ではどうしていったら良いのか?のヒントが続きに書かれていました。
初めに紹介されていたのは「いろんな考えがあるよね、それもわかる、これもわかる」と容認する、道徳的多元主義(道徳的相対主義)の考え方。
ただこれには、全く異なる文化・価値観にあった時にも、本当に全てを容認できるのだろうか?と疑問を投げかけています。
そこで第2階の道徳の考え方が書いてあるのですが、とても難しくて、読書会の中で出てきたことをメモしておきます。
善と善のぶつかり合いがあった時に、お互いに相入れないままでも、一緒に共通の何かを生み出すことができるのでは? 誰もが変幻自在的存在であるのだから、自分の経験の中に何かしら共感できるものを見つけていけるのでは?
話に上がった具体例
車のごっこ遊びをしているグループと、入りたいけど入れてもらえない子。
大人の呼びかけで、入れてもらえなかった子はガソリンスタンドを作った。
いつの間にか車遊びをしていたグループもガソリンスタンドにやってきて、一緒に遊ぶように。
📕大人の価値観を子どもに押し付けないこと
この、価値が異なるものの共存の話をしている時に、特に子どもとのやりとりを思い出しました。
例えば我が家でよくある光景は、子どもが「怒られたー」と泣く時(大人からしたら、そら自分が悪いでしょ…ということが大半…)、
◯ピシャーン「そりゃ悪いから怒られたんだよ」
◯ぽやーん 「怒られて悲しかったんだね」
この、ぽやーんを大事にしていきたいと思いました。
そのためには、大人の価値観を押し付けないことが必要です。「お姉ちゃんだからゆずってあげてね」なんて、最たるものだと思います。
この辺りは、以前親業講座の方でも出ていたのでいつかまとめたいと思います。
📕対立した時に一呼吸おきたいこと
✅「自分が絶対正しい!あなたが間違っている」というスタンスになっていることに気づいていない? それに気づくことがその先への第一歩
✅違う立場があるということ自体を知ることが大事。 そもそもそういう他の立場や違う次元の人がいるということ自体が理解できない人も多い?