第2章 生きている限り関係なしで成り立つものはない
#社会構成主義
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第2章 関係こそすべてのはじまり
第2章は、「なっ、なるほど!そんな視点があったんだ!」 or 「いやいやそれは屁理屈では……」 と、ガーゲンが好きか嫌いかの分かれ道になるような序章でした。
私たちは普段、私とあなたは別の人と境界線を引いています(境界画定的存在)。
でも例えば、今こうしてnoteを読んでいる時、「読んでいるあなた」「note」「私」に境界線が引けるでしょうか?
ここでは、そもそもnoteを書くために用いている「言葉」は「私」だけのものではなく歴史的背景から使われてきたものであるし、このnoteを読んでいるときの「あなた」の意識はこの「言葉」に向いていて……
つまり、生きていく上で、「私」や「あなた」個人だけを切り取る=境界線をつくるなんていうことは不可能だ、ということが最初に書かれています。
📕わかりやすい事例「協応行為」
個ではなく関係性で社会が成り立っているということは、返す相手がいないと意味が成り立たないということです。例えば、
A「今日はいい天気だね!」
B「そうだね、散歩しようか?」
これは、Aのセリフだけで反応がないと意味が成り立たないし、逆にAがなく突然Bだけ呟いたら謎な人です。
このように、相互作用で、関係性から意味は生まれてくるというのが、協応行為ということのようです。
これへの反論。「いや、でも一人でいる時間だって沢山あるし、“関係”の外にある行為も多くない?例えばシャワーしてる時は何も“関係”してないよ」
読みながら思っていたら、まさに書かれていました&読書会でも盛り上がったので、解釈をいくつか。
【本の記載】
シャワーの行為自体は1人だが、「誰かに会うために準備」しているのでは?つまり、行為というのは関係の中に深く埋め込まれている
【読書会で上がったもの】
シャワーを浴びれるようにしてくれた人のおかげでシャワーが浴びれている(水道屋さん、施工屋さん等々)
シャワーを浴びるように要請している社会との関係性もある
シャワーを浴びるとスッキリする!ということは、これまでの関係性の中で学んできた
つまり、今その行為をしていることの背景には、他の人との関係がある。それは避けては通れない事実、という感じです。
そして、特徴としては制約と可塑性があるそうです。
制約は、意味を生み出すために不可欠。可塑性は文脈依存で機能する。例えば、
A「今日はいい天気だね!」
B「そうだね、散歩しようか?」
B'「そうだね…マラソン大会嫌だなぁ」
と、同じ「そうだね」でも文脈によって機能が変わるし、その次に続く言葉で意味が変わってくるという感じでしょうか。
📕因果関係から関係の合流
と、ここまでは比較的わかりやすかったのですが、この先はいまいち飲み込めきれてない部分になります。
「XだからY(因果関係で説明をする)」というのは、XとYそれぞれが個別に境界が引かれている状態。
でも、ここまで見てきた通り、「シャワーを浴びる」という一人でしている行為でさえ、関係性に埋め込まれたものである、ということは、因果関係で捉えない方が良いのでは?という投げかけでした。
では代わりになんというのか?それは、「合流点」というアイデアが示されています。
が、読み直してもわかるようでわからない、私にとって現状では霧がかった状態でした。
👨‍👩‍👧‍👦読書会の面白み
実はこの読書会は、翻訳の鮫島輝美さんと東村知子さんのお二人も参加してくださってるとても豪華な会でして……
今回の鮫島さんの言葉が印象的だったので一部抜粋して残しておきます。
ガーゲンを読んだ時にもつ、分からなさ・消化不良さ「わかったような、わからないような」というのは、ガーゲンの後味。
これは、「当たり前」を一回緩めてみません?というお誘いで、社会構成主義の境界をクリアにしたいことが目的ではないからでは?
そして最後は、「これが正解」という理解を探していくよりも、大喜利のように、読んで感じたこと、思ったことを自由に話していく会がいいね、ということになりました。
今後も2週に1度、みんなで読み進めて行きたいと思います。
第3章 「心の中のこと」と思ってたことも、全て「関係」による