佐々木 究(2023)カイヨワ『遊びと人間』再読
はじめに
「遊戯論の古典的作品であるロジェ・カ イヨワ(Roger Caillois, 1913-1978)の『遊びと人 間』“Les jeux et les hommes”(1958)を対象として,そこで見出されるスポーツに関する論理の概要を描きだそうとするもの」p.291
「「スポーツ」は繰り返し言及されているが,関係する議論の全体像は十分に整理されていないのではないか.」p.291
一般に,スポーツ科学分野でカイヨワが参照されるのは,スポーツの定義を定めるにあたり,その回答を「遊戯」に求めるためである(松田, 2017,p.775).
事実,カイヨワが『遊びと人間』(以 下「遊戯論」と略す)において遊戯を区分して, 競争の遊戯である「アゴン」,偶然の遊戯である「アレア」,模擬や擬態の遊戯である「ミミクリ」, めまいを求める遊戯である「イリンクス」とし, このうち「アゴン」の代表的な活動としてスポー ツを位置付けているという指摘は,よく見られる ものである(松田,2017,p.776).
「しかし,これらスポーツの「定義」の導出とそ の内容整理のために参照されるのは,本文の構成 では「第一部」の「一 定義」と,「表 1」を含む「二 分類」であり,分量としては全体(補遺を含めて 全 372 ページ)の 5 分の 1 ほどに当たる部分(原 著作では p.31 から p.92 まで)である.」p.292
「スポー ツ sport(s), sportif (ve) (s)」に関して言えば,その 用語の出現例が著作全体で 26 ヵ所ほど認められ る中で,第一部の「一」「二」ではわずか 8 ヵ所
遊戯を区分し,スポーツをその代表的な分類 項目として見ていくことは可能であるとしても, 著作全体の中でスポーツが担う固有の意味や意義 を解明していくことは十分に行われてきたとは言えない.
とりわけ西村(1989)が『遊戯論』の企図を「それぞれの社会・文化の型を,遊びを分類 する基本カテゴリーに応じて記述するあらたな社会学の構想にある」(p.16)と述べていることからすれば,著作中でのスポーツは,その概要を十分に汲み尽くされているとは考えにくいところである.
「他方,遊戯とスポーツとの関係を問うこれまで の研究においては,そもそもスポーツを「遊戯」 として定義づけること自体が不適切なのではないかという見解が提示だれている」p.292
「それらの見解に よれば,「遊戯」によるスポーツの定義では,い わゆる「仕事」として行われる「プロスポーツ」 がうまく説明できないというのである(高岡, 2013,とくに p.38-).」
実際に西村(1989,p.314) は,遊戯を「個々の行動の形式を表示する概念ではな」いとし,Osterhoudt(1977,p.12 拙訳)は「遊戯」が自らを他の具体的な活動に「結びつける」 という性質を帯びていることを指摘して,それぞれ遊戯とスポーツとの間に概念的な包摂関係を想定することに疑義を投げかけている注 1).
さらに 川谷(2011,p.152)は,遊戯に関する議論が「そもそもスポーツの本質理論であることに失敗している」と述べて,スポーツの定義を遊戯に求める 意見に否定的な見解を示している.
事実,西村(1989, p.315)は,カイヨワが「遊戯」と「実人生」と の間にあるべき「行動の構造」の違いを区別して いないとして,批判的なまなざしを投げかけてい るのである.
スポーツを遊戯との概念的な包摂関係で捉えることからカイヨワの遊戯論は注目され,同じ見方から今度は不適切なものとして批判 にさらされる.
ところが,こうした先行研究の指摘にもかかわらずカイヨワは,同じ遊戯論の他の箇所においてスポーツが遊戯であることも,同時に遊戯ではないこともあるとする見解を示している.文字通りに捉えるならば,この見解は先の分類論との間に明らかな矛盾を生じさせるものである.
しかし,もしそれが論述の瑕疵に よるものではなく,何らかの理論的要請に導かれた自覚的な見解であるとすれば,このことは,カ イヨワ遊戯論の読解に根本的な疑義を呈するものとなる.
いま,カイヨワ遊戯論の読解において「スポーツは遊戯である」(両者は概念的に包摂的関係にある)という先入見を停止するならば,カイヨワが著作中でスポーツに言及している事実そのものが 1 つの問題性として浮上してくることになるからである.
カイヨワにおいてスポーツは何であり,なぜカイヨワは自らの著作においてスポーツに言及しなければならなかったのであろうか.
こうした問いへの回答は,著作の内在的な論理へと眼差しを向けることによってのみ求められるであろう.そこで本稿では,カイヨワ遊戯論の行論全体を俯瞰的に瞥見しつつ,スポーツへの言及が展開される固有の論理を,著作の行論に即して跡づけることを試みる.
この試みは,スポーツの何たるかを考究する哲学的議論の地平におけるカイヨワ遊戯論の位置づけに再考を求めるという点 で,反証的なかたちであるが従前のスポーツ論に接続するものであり,また,著作の主題――本論を先取りすれば,それは社会分析である――との関係でスポーツに関する議論を読み直そうとする点では,スポーツの社会的な意義を考えるための前提となる先行史料の批判・分析として位置づけることができるだろう.
II 遊戯としてのスポーツ
一般に,体育・スポーツ学分野でカイヨワ遊戯論が参照される場合,「スポーツは遊戯である」 という概念的な包摂関係による定義づけと,同時 に,遊戯およびスポーツ概念の内実の説明が行われている.すなわち「遊戯 les jeux」とは,1)自発的な活動であることを意味する「自由 libre」, 2)定められた時間・空間の中で行われることを指す「隔離 séparée」,3)遊戯の参加者に創意工夫の余地があり結果がわからないという「未確定性 incertaine」,4)いかなる財産や富も作り出すこと がないという「非生産性 improductive」,5)通常 の法規を停止して一時的に新たな法を立ち上げ, これに従うことを意味する「規則 réglée」,6)二 次的な現実または明白に非現実であるという意識を伴うという「虚構 fictive」,といった性質を持つ活動とされる(Caillois, 1967, pp.42-43;カイヨ ワ,2014,p.40;それぞれの項目の説明については,竹之下,1972,pp.146-147 をも参照).
また「遊 戯」は「競技的,競争的な遊び」である「アゴン agôn」,「賭けごとなどの,運あるいは偶然による 遊び」である「アレア alea」,「物真似あるいは変 装による遊び」である「ミミクリ mimicry」,そ して「眩暈あるいは知覚の不安定化による遊び」 である「イリンクス ilinx」に区分されるのであ っ て(Caillois, 1967, pp.45-75; カ イ ヨ ワ,2014, pp.42-66;それぞれの項目の説明については,佐 藤,2004,pp.49-50 を参照した)注 2),スポーツは, このうち「アゴン」に分類される,ということになる.
このようにして「スポーツは競争的な遊戯である」という図式的な理解が導かれている.
こうした説明図式に直観的な補足をしている のが,原著作ですでに与えられている「表 1」で ある.「スポーツ(的な競技一般)compétitions sportives en général」が「アゴン」の欄に記載され ており,スポーツがアゴンに分類される遊戯の一 種であることを端的に示している(Caillois, 1967, p.92;カイヨワ,2014,p.81)注 3).
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次のような言及がある.
(引用者注:ぺてん師と)同様に,遊戯の活動を職業としている人も遊戯の活動の本質 を少しも変えはしない.たしかに,彼は遊ん でいるのではない.彼は仕事をしているの だ.陸上競技選手 les athlètes や俳優は,報酬 と引きかえにプレイするプロフェッショナ ルであり,楽しみしか期待していないアマチュアではないとしても,競争 la compétition あるいは劇の本質は変わりはしない.違いは彼らにだけ関わっている(Caillois, 1967, p.104;カイヨワ,2014,p.92).
「スポーツ」に関 する外延として出現した種目と一致するものであり,そうした職業者は,「アマチュア」と同じ「活動」をすることができ,その「本質」を変えるこ とがないが,しかし「遊んでいるのではない」と 明言されている.
「プロフェッショナル」は「競争」や「劇」を実 践するものの,彼らが実践しているのは遊戯ではないのである.
この点で,カイヨワがいわゆるアマチュアリズ ム的立場からスポーツ批判を展開していると考 えるのは早計である
たしかに著作が執筆され た 1950 年代という時代背景と,「遊戯の堕落」と いう著作の文脈からすれば,プロスポーツに対す る消極的な見解は想定されることかもしれない. しかし「遊戯の堕落」はプロが成立していること とは異なる事態であり,このことはカイヨワ自身が明言しているとおりである.
カイヨワは,「遊戯の原理が堕落したのだ.ここで注意しなければならぬのは,それはぺてん師や遊戯のプロがいるからそうなるのではなく,もっぱら現実に感染し 侵されることでそうなるという点だ」と述べている(Caillois, 1967, pp.103-104; カ イ ヨ ワ,2014, p.91).
このようにカイヨワにおいてプロフェッショナ ルの存在は,遊戯の堕落に関係していない注 4).
しかし規範論的な批判を免れたとしても,概念論的には,同じ「競争」や「劇」が遊戯であり,かつ同時に遊戯ではないという新たな困難が浮上 している.カイヨワは,「スポーツは遊戯であり, かつ遊戯ではない」という一見して矛盾する記述 をしているかに見えるのである.あるいは上述の 西村(1989,p.315)が批判するように,カイヨ ワは「遊戯」と「実人生」との間の「行動の構造」 の違いに気付いていなかったのであろうか.
プロフェッショナ ルにおいて遊戯はその構成要件を満たしていない.
「非生産性」「自由」
では,「遊戯の活動の本質」「競争あるいは劇の本質」と述べられている「変化しない」ものはどうか.
俳優にとってもやはり,劇の上演は模擬な のである.彼は化粧をし,衣装をつけ,役を 演じ,台詞を朗唱する.そして幕がおり照明 が消えると,彼は現実にもどる.二つの世界 の分離はやはり絶対的なのだ.また,競輪, ボクシング,テニス,サッカーの職業選手 にとって,試合 l’épreuve,対戦 le match,競 走 la course は,やはり規則をもった形式的 な競争であることに変わりはない.終わると すぐ,観衆は出口へ急ぐ.選手は日々の苦労 に立ちかえる.彼は自分の利益を守り,将来 の安楽をなるたけ保証してくれる計画を考 え,実行に移さねばならない(Caillois, 1967, p.105;カイヨワ,2014,pp.92-93).
以上から,プロフェッショナルであっても変わ らない「遊戯の活動の本質」「競争あるいは劇の 本質」とは,これら「規則」や「隔離」という要件に関するものであり,スポーツ(を含む「競争」, あるいは「劇」も)は,これらの要件を遊戯と共有するものの,遊戯の定義にある全ての要件は満たしていないということができる.
このことは, スポーツなどの活動が,本性上,すでに遊戯とは別個に成立しており,それらが,遊戯と包摂関係 にある概念ではなく,内包・外延が交差する異種 の概念であることを示している.
遊戯とスポーツが異種概念であるとの見解は, 現代のスポーツの概念規定を巡る議論でもしばし ば目にするものである.
それらの見解を整理すれ ば,スポーツは遊戯としても仕事としても実践が 可能な固有の活動を表す概念であり,遊戯は,そ うした個別の活動と,実際にこれを営む「人々と の関係性」の 1 つとして成立する,ということに なる(高岡,2013,p.40;また,Drewe, 2003;ド ゥルー,2012;樋口,1992;Osterhoudt, 1977,な どをも参照).
西村(1989,p.314)によれば,遊 戯とは「個々の行動の形式を表示する概念ではな く,個々の行動の構造や,そのふるまいにおける 存在の独特の様態を表示する概念」なのであり, こうした見解はカイヨワ遊戯論での議論にも妥当 するものがあるように思われる.
「表 1」にもあるように スポーツが遊戯の区分肢である「アゴン」に分類 されていることは明らかであるが,論理学的には「分類」という操作は「任意」に行うことができ, いわゆる「交差概念」同士でも可能とされている (大貫ほか,2016).つまり「表 1」は,スポーツ と遊戯との概念的な包摂関係を明記したものではなく,スポーツが遊戯として行われる場合,それ は「アゴン」に分類されることになると操作的に解されるべきである.
スポーツは遊戯ではない. ただし遊戯(アゴン)として実践されることができる.
III 著作の主題と方法論
遊戯論の主題についてカイヨワは,第一部の末尾において「遊戯を出発点とする社会学の基礎 づけを考えている」(傍点は原文イタリック)と 述べて(Caillois, 1967, p.142;カイヨワ,2014,p.124),自らの著述の意図が社会一般の分析にあ ること,そして遊戯がその手段となり得るとの見 通しを明らかにしている.
このことは,著作の「序 論」における次のような見解と対応している.
以上,いくつかの例を見れば,遊戯の原理 の刻印,影響といったものに人は気づく.少 なくとも,遊戯固有の願望に並行した現象の あることに気づく.人はそこに,文明の歩みそのものを辿りうる(Caillois, 1967, p.20;カ イヨワ,2014,p.23).
原始的社会――私はむしろ混沌の社会と名 づけたいのだが――は,オーストラリアのそ れであれ,アメリカのそれであれ,アフリカのそれであれ,仮面と憑依,すなわちミミ クリとイリンクスとが支配している社会であ る.これに対して,インカ,アッシリア,中 国,ローマは,官僚機構,職歴,法規と計算 法,管理された階級的特権などを特徴とする 秩序社会であり,これらの社会においては,アレアとアゴン,すなわちここでは能力と家柄とが,社会的機能の最重要の,ただし相補的な要素となっている.これらの社会は,先の社会と対比していえば,計算の社会である (傍点部は原文イタリック)(Caillois, 1967,pp.171-172;カイヨワ,2014,pp.146-147).
ここでの「アゴン」「アレア」「ミミクリ」「イ リンクス」は,明らかに,前節で見たような遊戯 の区分肢ではないように思われるからである.別 の箇所でカイヨワ「遊戯はあくまでも分離さ れ,閉鎖されたものである.永続的で堅固な制度 や集団生活には,原則的には,重大な影響を及ぼ さないことになっている」と述べていることとあ わせると(Caillois, 1967, p.135;カイヨワ,2014, p.118),「分離」や「閉鎖」された「遊戯」とい う固有の活動が,社会全体との間に「支配」とい った影響関係を取り結ぶとは考えにくいからであ る.上で引いた西村(1989,p.16)における「遊 びを分類する基本カテゴリー」という解釈ともど も,これら 4 つの要件の意義については,改めて 検討していく必要がある.
1.遊戯論におけるもう 1 つの「表」:「表 2」への注目
2. 「表 2」におけるスポーツ
IV モデルとしてのスポーツ
V おわりに