研究との兼ね合い
2021.1.x 執筆中
私は数学科出身の社会科学者で、ひとつの領域を掘り下げるというよりは横断的な社会学的な思考を心掛けている。学者として大して勉強しているわけではないし、専門の数理社会学にしても大して掘り下げているわけではないので、一番範囲が広そうな社会科学者という言い方がよいのではないか、と最近は思っている。というか、元々社会学は横断的なので、社会学の当該のテーマの専門論文や専門書を読むのは当然として、関連する隣接分野とか、新聞記事や雑誌やネット記事といったいろいろな文献を横断して新しい切り口を提示することが仕事なのである。そうでないと社会のリアリティもアクチュアリティも掴めない。そんなわけで、日々、専門以外のものにばかり、興味の赴くまま勉強してきたので、インプットばかりでアウトプットが必要最低限のレベルという始末。
ただ勉強してきた経歴をいえば、高校時代は世界史や物理学が好きだったし、大学1年生の春までは物理学者に憧れていた。その後、物理学実験が退屈だったので早々に数学科に行くことにし、他の学生が実験で時間を使っている間に、高校の頃までの懸案であった圧倒的な読書不足を補うべく、学部時代は哲学や文学を読んだ。具体的には、ニーチェ、ドストエフスキー、小林秀雄、坂口安吾といった実存系である。並行してバンド活動での作曲、ピアノも弾いていた。数学は好きだったので、僕の興味は、哲学、文学、世界史、社会学を数学で結びつけることだった。大学1年生の時に、自分の武器は数学と音楽(ピアノや歌)と定義したし、苦労して身につけた数学を捨てるのはもったいないし、また数学は中学時代から今でもずっと好きで教えてもいるし、高校の免許ももっているので、今でも僕という存在にとって数学は大きな柱である。
ただ、その一方で、小林秀雄のモォツァルト論に惹かれたのもあり、音楽やピアノや芸術については数学以上に好きなのかもしれない。これは父親譲りで、私の父もやはりニーチェとドストエフスキーを基本と考えていたし、ピアノも弾くし、小学校の時は勉強よりピアノの方が大事だという教育方針だった。私も同様の考え方である。ちなみに父は家事や育児もせず将棋と囲碁ばかりやる人だったが(アマ4段くらい)、絵も描いていた。それは私にも遺伝と環境で受け継ぎ、私は高校時代は美術部だった。絵を描くのはいろいろ大変なので、ほとんど活動はしなかったが、中学時代は音楽や数学や社会より美術の方が得意だった。中学時代から相対性理論や量子力学に興味があったし、カレル・ヴァン・ウォルフレンの『日本の権力構造の謎』という本も読んでいて、どうしようもない政官財の三すくみの癒着構造に腹を立てていた。小中の頃は小説も書いていたし、文章を書くのは今も昔も変わらず得意である。根が文系なのである。とにかく、音楽や美術といった芸術、数学や物理学といった理数系の学、世界史や現代社会といった人文系の学、その他あらゆる方面に関心が拡散してしまう。いつも何かを考えていたし、いろいろと関心が拡散していつも疲れていた。私はだいぶ変わってる少年だったと思うし、今でもだいぶ変わっている大人になったと思う。変わっている、というところは今も昔も変わってない。
大学生から院生になるに連れて、東工大の先生であった今田高俊(指導教官)、橋爪大三郎、上田紀行、井口時男といった人たちだけでなく、本で、宮台真司、大澤真幸、盛山和夫、数土直紀、佐藤俊樹、ルーマン、デリダ、ドゥルーズ、バタイユ、アレント、ウォルツァー、チャールズ・テーラー、アマルティア・セン、柄谷行人、浅田彰、東浩紀といった社会学・哲学・現代思想あたりを読みすすめた。もちろん、マルクス、ウェーバー、デュルケム、ジンメルといった社会学の古典も勉強しつつ。これに加えて、ミクロ経済学一般均衡論は専門のゲーム理論の関連で、社会的選択理論(アマルティア・セン)も勉強した。私の研究関心は広くいえば、人文系の知と数学知を結びつけることであり、経済学が数学を導入してミクロ経済学理論を作り上げたように、同じことを社会学でやろうと思っていた。ミクロ社会学理論のような。だからゲーム理論、ネットワーク科学、社会的選択理論、統計学といった数理的方法は今でも私の武器である。
数理的な社会理論を構想するというのは、遠大な目標かもしれないが、これは研究者としての私のライフワークの1つである。ただ私は30代・40代にもなってくると、理論ばかりで一生終えていいのか、と思うようになってきた。20代後半くらいに(博士課程かオーバードクター時代)、東工大社会システムCOE代表だった出口弘先生から、理論だけでなく、フィールドを持てと言われた。出口先生自身はコンテンツ産業をやっていて、それを当時、東工大助手で今は芝浦工大同僚の小山友介さんが引き継ぐ形になったわけだが、私には当時は何もなかった。ただゲーム理論の数理モデルで利他志向とか平等志向を数理モデル化して、相互行為にどんな影響を与えるかを研究していたので、社会心理学でいえば向社会的行動(pro-social)、倫理学などとも近く、ボランティアやNPOといった新しい社会の動きをフィールドにしようと動きはじめた。
それで無理せずできる、当時住んでいた逗子の実家の近くで、夏場だけの海岸の清掃活動に参加した。キマグレン(井関君は私の小学校5, 6年のクラスメイトで今はプロサーファー・ヨガ講師をしている井関かなこさんの弟)がやっている音霊というライブハウスと一緒にやっているGoodDayというNPOが主催していて、おもしろい人たちが集まっていた。たとえば、GoodDayのスタッフだった中村真広さんはツクルバという会社を作って、上場している。代表の荒 昌史さんはHITOTOWAという会社を作って、コミュニティづくりを仕事にしている。年下だしそこまで縁遠いわけではないので君づけしてしまうけど、中村君や荒君のような社会的起業家は21世紀で最も期待されている人びとであり、ネグリ=ハートあたりが言ってたマルチチュードの一種だと思っている。
ネグリの場合は、SEやプログラマのようなIT技術者を念頭に置いているとも言われているし、私もそう思うが、ジョブス(アップル)も、ザッカーバーグ(フェイスブック)も、ITだけやってるわけではなくて、リアルな世界での関心から新しいテクノロジーをクリエイトしている。そうでなければリア充をネット上にあげるスマートフォンの発想はなかっただろうし、フェイスブックがハーバード大をウリにする出会い系サイトから出発したことはよく知られている。いずれにしても、日本においても、ITをヴァーチャルな世界のままにしておくのではなく、Google Mapとスマホの連携のようにリアルと一体化させる、というような可能性がGoodDay周辺の人びと、特に中村君には感じられた。
中村君も荒君もエシカルな要素があったし、2000年代は環境NPOの時代だった。その一方で、福祉NPOの雄たるフローレンスの駒崎弘樹さんとは2018年に出会うことになる。奥さんの美紀さんとはしょっちゅう道で会うし、その縁で、彼女がヴォーカル出身なので、王子ストリートピアノに関連して、ライブをしたさいに私は伴奏もしている。ついでにいうと、駒崎弘樹さんは私の小学校5, 6年の時のクラスメイトで元横須賀市長の吉田雄人の友人でもあった。吉田雄人は今は公民連携の仕事をしている。
今田研にいたときに、ゼミでよく公共哲学の勉強をしていた。阪神淡路大震災のあった1995年はボランティア元年であり、1998年にNPO法が施行され、2000年代には今は世界的な組織なっているGreen BirdやGoodDay、フローレンスが誕生している。駒崎弘樹さんが出た慶応のSFCは、1990年代にできたと思うし、日本でも今のソーシャル・ベンチャー、コミュニティ・ビジネスに連なる制度の準備は、1990年代になされたのだと思う。オウム真理教がテロを起こした1995年は世直し志向をもった若い人たちが新興宗教やニューエイジといったものにのめりこむ80年代的なものが倒れ、それにかわって、ボランティア・NPO・ソーシャルベンチャーが台頭してくるメモリアルな年なのである。なお、新興宗教も属す精神世界的なものは、今日ではスピリチュアルという名称で脈々と生き続けている。それは共同体としての宗教から、個人の全体性としての文学へという流れと同様に、占い師のような個人的な形が日本ではメインになっているのかもしれない。
こういう意味では、社会はたしかに進歩しているといえる。世直し志向をもった人たちは、50年代、60年代には学生闘争で挫折を味わった。70年代には初期の村上春樹のように喫茶店を営み、社会変革というよりは身近な生活世界を居場所にする。80年代の新興宗教の喧騒の後、90年代後半にはカリフォルニア・イデオロギーたるIT革命でネット社会が実現してしまう。世界を変えたくても変えられなかった変革への意志は、ネット社会によって半ば実現された。そこではSNS(の前進であるホームページやパソコン通信)で人びとが互いの内面を吐露しあい、ある種の精神的な絆が深まった。もちろんそれは今日では夢物語かもしれない。しかしネットの黎明期においては、互いに疎遠だった者どうしが理解しあうという理想郷が半ば実現されていたようだ。もちろん今日では2chやtwitterにみるように、一般にはネットでの繋がりは足の引っ張り合いのようなところが多いし、これが大衆化というものなのかと落胆する向きもあるかもしれない。しかしながらたとえば、ピアノ、社会的起業、地域といったポジティブなワードをテーマとするアカウントを作れば、同じようなアカウントをする人同士が繋がり、一般には幸福度が薄いとされるtwitterにおいても充実した繋がりを感じることができる。要は人とどんな繋がり方をするかなのである。そのためには努力をしないと手に入らないような一種の専門性のようなものが必要なのだが、それさえあれば、SNSは必ずしも砂漠のような世界ではない。
私はSNSを通じて(主にmixi)、また、リアルな付き合いを通じて、社会的企業家たちが活躍する「ソーシャル業界」を徐々にフィールドとしていく。GoodDayに参加したのは、2007年7月7日だったようだ。777だ。もう13年以上も前のことなのだが、昨日のことのように覚えている。占い師でDJの大久保淳君と出会った日だったからだ。上述したスピリチュアルな流れは、鏡リュウジの弟子でもある彼にも引き継がれている。その日は宮台真司や社会学についていろいろ話した。このあたりのことは2008年に科研報告書にまとめておいてある。 2009年に芝浦工大に助教として着任し、そこからはもう教育だけで精一杯だった。私はもともと多方面に興味がある人間なので、あまりたくさんの仕事ができるわけでもない。しかし自分の専門は、横断することだと思っていた。数学から経済学そして社会学へ。理論からフィールドへ。おそらく日本で最もエキセントリックな東大の社会学者の見田宗介がいうように、横断することじたいは目的ではなく、研究テーマに即してやむにやまれず横断するものでないといけない。私は専攻したゲーム理論への不満から修士時代に人間の利他性に興味をもった。だからこそ見田宗介の『価値意識の構造』のような本や、アリストテレスのニコマコス倫理学(中庸のような)やカント倫理学(普遍化可能性)をかじってきたし、「ソーシャル業界」といわれる社会的起業家たちのフィールドにも出ていった。
24歳の頃に修士論文のテーマを決めて「僅かな利他性による協力の実現」という論文を2001年に出版した。博士課程の1年生の頃だ。修士論文はありがたいことにオペレーションズ学会の学会賞をいただいた。それからもう20年も経ったのかと思うと、ずいぶんと月日を感じる。大人としての自我に目覚めるのが中学2年生の14歳くらいだが、そこからの10年で修士論文を書いていたわけで、この10年間で人間はずいぶんと成長するものだと思う。25歳からの20年は、それまでの10年に比べたら何もしてない気もしてしまう(就職はできたが)。それくらい10代から20代前半というのは、人間にとって、すくなくとも私にとっては成長期だったのだと思う。もちろんそれは大人として仕事をするための準備期間なのだから当然ではあるが。
人文社会系の博士課程は、文系特有の空気感かもしれないが、さまざまなものを研究者として勉強し、吸収する期間であり、文系としては知識がなさすぎた私にとってはひたすら勉強の日々だった。数理系の仕事をしながら、非常勤講師もはじめて学生に教えながら、勉強して、ようやく博士号をとったのが2008年くらいか。3年でとらないといけないのに、7年間もかかっているのだから優秀とはほど遠い。そうではあるが、仕事しながらも、いろいろ勉強できてそれなりに意味のある7年だったと思う。親にはずいぶん心配をかけたとも思う。
2009年からは教育の仕事で精一杯だったが、2年くらい経って、すこし慣れてきたころからピアノを復活させる。2011年は震災の年だったが、その前年くらいに、当時の友人に悲愴の三楽章を聴かせたらダメ出ししかなかった。けっこうショックだったのもあり、ピアノをちゃんと弾かないといけないな、できればジャズがいいな、などと思ったし、作曲も復活させたかったのだと思う。そこからピアノ教室に通いはじめ、ピアノ教室内で生徒同士でのピアノパーティを主宰し、ピアノ・コミュニティを作りはじめる。これは趣味のプロジェクトだったけれども、GoodDayでの経験や、院生時代に音楽の勉強も兼ねて行っていたクラブ・カルチャーの経験を生かしたものでもある。
GoodDayで出会った大久保淳君はDJであり、当時からクラブミュージックに傾倒していた僕にとっては、先生でもあった。彼を通じていろいろなDJと知り合った。彼らは音楽に関しては学者のように非常に多くの知識をもっていて勉強しており、かつセンスがよかった。そしてクラブこそが最先端の音楽の実験場であり、カッティングエッジな人びとが集う、最もクリエイティブな場であることも理解した。もっとも、それはハウスやジャズといったジャンルのクラブなのかもしれないが。大久保淳君は、ソーシャル業界、スピリチュアル業界、そしてクラブカルチャーといったあい交わることがなさそうな業界をクロスオーバーしていた。そしてそのどれも、私は興味がある世界だった。
私は大学生の頃にユングも読んでいたし、その後に、フロイトやラカンといった精神分析もすこしはかじっていたが、学部時代に勧誘されたので新興宗教のフィールドワークをしていた時代があった。そこはカルトではあったが、共同体とかコミュニティについて多くを学ばせてもらったし、そこで得た結論は結局、自分が尊敬している人が信じているから神を信じる、というものだった。結局のところ人が人を惹きつけていた。もともと哲学、数学、芸術に興味がある人間が宗教やスピリチュアルに興味をもたないわけがない。しかしそこで学んだのは組織や人間についてのより経営学的なものだった。あるいは権力といってもいい。
私は数学を学び、経済学を学び、社会学を中心に、様々な人文社会科学を学んできた。そのアカデミックな学びの中で、数理的な社会理論を構想してきた。しかしそれと並行して、あんまり他の人がしないような、けっこういろんな社会経験を積んできたようにも思う。学部時代のカルト体験、20代後半のクラブカルチャー、30歳前後からの環境NPO体験、30代半ばからのピアノコミュニティの構築、40代からのマルシェ参画、そしてストリートピアノ主催。
2009年に東大宮にあるキャンパスに通いやすく便利で活気があっておもしろそうということで赤羽に住んでからは、飲み屋街で有名な赤羽の飲食店をフィールドにしようと、いろいろな店で食べはじめる。赤羽一番街や裏赤羽の優秀な飲食店経営者たちをそのうち取材したいと思っていた。この構想はじつはまだあるが、今はピアノだけで難しい。
赤羽の魅力は飲食店だけではない。荒川土手とよばれる広い河川敷と、赤水門と青水門という2つの水門は岩淵とよばれるこの地域のシンボルだった。岩淵は赤羽のほぼ一部なのだが、住民運動でこの地名が残ったのである。私は荒川土手が、特に桜の季節の土手がどこよりも好きになった。それで家を買った。将来的にはここで子供を育てたいと思えた(それはもはや実現しないとは思うが)。自然環境や地勢、そしてあとで知ることになる宿場町としての岩淵の歴史といったものが、この赤羽地域への関心をより大きいものにした。
自分が住んでいる地域をよいものに誰もがしていけば、日本社会全体がよくなる。そういうボトムアップな発想は単純だが、ここには積分という思考があるから、それほど多くの人が気づいているわけではないとも思う。地域のことに取り組めば、その地域はよくなるだろうが、別のもっと問題がある地域はどうするのか。そちらを優先すべきではないのか。もちろん、そういう疑問はあるだろう。だが、重要なのは住民みずからが自分が住んでいる地域をよくしていくという姿勢である。これが市民自治というものだ。だから皆、自分が住んでる街をよくしていけばいい。もちろん、自分が好きな街や気になる街、縁がある街をよくしたってよい。さきの「別のもっと問題がある地域はどうするのか。そちらを優先すべきではないのか」というのは県とか国とかの行政官の発想であって、市民や住民の発想ではない。
欧米に比べて、日本社会は明治政府以来か、江戸幕府以来かはわからないが、中央集権的で、政治はお上や偉い人がやることで、下々(しもじも)はそれに従っていればよいという考えがすこし強かったかもしれない。だがそれでは私の考えでは、人間として不十分なのである。人間は精神的な存在であるとともに、肉体(身体)をもつ物質的な存在である。身体はどこかの場所にいなければならない。そしてその場所で飲み食いしたり、家で寝る。地域というのは、そういった物質的な面のある人間が集っている場所でもあり、子供が育つ場所でもある。地域は物質面を含む人間をトータルなものして、完成させるものだと思う。地域の様々な人びとと繋がり、その地域を自分たちで治めていくべきなのである。これが自治というものだが、自治には地域の人びとの繋がりが絶対に欠かせない。それがなければ官僚機構である行政が分断された個人や世帯を管理するだけになってしまう。
そしてできれば、クリエイティブな、発見があり、創造的な、おもしろい人と地域で繋がりたいと私は思っていた。そういったクリエイティブ・クラス(フロリダ)が多くいるのが、日本では東京、京都、鎌倉、横浜といった都市なのである。地域のうち、都市とよばれる職業や趣味がさまざまな異質な人びとが住んでいる場所は情報発信を含めた文化が花開く興味深い場である。私が東京に住んでいるのは、そういう都市に興味をもっているからでもある。
私たちは地域に住む人たちと繋がることによって、人間的に完成する。自分が住んでいる地域となんの交流もなければ寂しいものだ。特に私のように子供がいない人間にとっては、都市でのクリエイティビティこそが、最大の魅力になるし、そのクリエイティビティに自らも参画しなければ、地域との繋がりも得られないのである。
こうして私は飲食店を飲み歩く消費者・観察者として、(街の顔である)飲食店主や、他の業種の店主など街(地域社会)を支えるさまざまな人びとへのリスペクトを深めていくとともに、自分もチャンスがあれば街を支え、地域社会に貢献する側になりたいと思うようになった。荒川河川敷をもち、下町の人懐っこい人びとが営む路地裏の飲食店が大好きな私だからこそ、この地域の都市社会学をやりたいと思うようになった。成蹊時代の教え子が赤羽出身だったのだが、彼女がなぜ都市社会学に興味があると言ったのを、私は30代になってやっと理解できたのだった。
地域や都市を分析するには、地域の人びとのネットワークを捕まえることが本質だと思う。むろん、道の区画とか街路樹といった物質的なハード、都市の外観は手掛かりになるが、都市の本質は、おそらく店の集合にあって、その店主たちや働いている人びとやそういった人たちの繋がりであるネットワーク、人的資本と社会関係資本、あるいは文化資本といったものである。だから店のネットワークといってもいい。赤羽にもさまざまなネットワークやグループがある。
しかし店だけが街を動かしているのではない。店は非常に重要だが、一般の住民がより参加・参画できるのは、マルシェのようなイベントである。そしてこういった仮設のものは、元々ないものを人びとの繋がりによって作るので、エネルギーがないとできない。社会的起業、コミュニティ・ビジネス、あるいはエリア・リノベーションといった用語で今日語られる参加性の高い21世紀型のまちづくりは、おそらくマルシェが典型である。マルシェは最も表層的かもしれないイベントだが、より構造的な人びとの繋がりを有む装置である。また、地域レベルでのコミュニティ・デザインを考えるのであれば、知人や友人を招待できるマルシェは、音楽フェスや伝統的な祭りと同様に、新しい祝祭空間であり、出会いの場なのである。これが従来のものと違うのは、参画の障壁が低く、ちょっとした手作りのアクセサリーや手工芸品などを売ったり、食べ物を販売したりといった学校の文化祭にも近いもので、いわゆる会社員や主婦がちょっとした小商いができる、という点だろう。
じっさい、私は数十年来の長屋をリノベーションしたシェアキッチン付きコワーキング・スペースで、シェアハウスにも似た新住民たちが集っているコトイロ岩淵が主催する宿場町まるしぇでさまざまな地域のアクターと出会うことになった。地域社会の課題を自分たちの力で解決したい、あるいは地域社会をおもしろくしたい、そういった意気込みのある人たちとの出会いは、地域に生きるほかない私たちの生を格段に豊かにしてくれる。
その出会いの1人が赤羽ストリートピアノ共同主催の仁科さんだった。こうして私は赤羽を拠点としてストリートピアノ主催者としての活動をはじめることになる。そしてこの活動は、2010年代を通じて温めてきた(ピアノ教室内の)ピアノ・コミュニティづくりという一種のコミュニティ・デザインの延長線上にあるものだった。よりオープンで開かれたコミュニティへ向けて、ストリートピアノ・コミュニティが全国レベルで作られはじめていくと同時に、主催者コミュニティも作られていく。2020年後半は、そのような時期だった。これは仁科さんがシェアハウスをはじめたことも大きい。
研究との兼ね合い、ということでいえば、ストリートピアノ主催というこの実践は、一種の社会実験ということだろうか。ストリートピアノは、地域に潤いを与える、わりと低いコストで大きな効果をもたらすコスパのよい社会事業だと思う。2008年に現代アート作家のルーク・ジェラムがはじめたストリートピアノという試みは、今日では世界中に拡散し、日本でもここ2, 3年ほどで大ブレイクしている。
2008年、ジェラムの「プレイ・ミー、アイム・ユアーズ (Play Me, I'm Yours)」の展示が各地の都市を巡回し始めた。ニューヨーク、ブラジルの都市、バルセロナなど世界中の46都市の公共空間に、1300台以上のピアノが設置された。公園、鉄道駅、市場をはじめ、橋やフェリーなど様々な場所に置かれたピアノは、誰もが弾いて楽しめるようにされた11。wikipedia 私はストリートピアノを通じて、研究者としては何を目指しているのだろうか。もちろんストリートピアノという世界的でもあり特殊日本的でもある社会現象を探究することを通じて、今日の社会の在り様をより深く理解することにある。社会学者は、ある現象を通じて、社会全体へと遡行する。ストリートピアノは、現代社会の切り口なのである。だが、私はそれだけを考えているわけではない。エツィオーニというコミュニタリアンは、かなりコミュニティを実践したのだという。また、山崎亮にみるように、コミュニティ・デザインは、HITOTOWAのような企業にみるように、じっさいに仕事として企業が請け負う仕事になりつつある。
私はさまざまなコミュニティに身をおいていて、かつ自身でピアノ・コミュニティを作った経験がある。あるいは作り続けている。2020年にはコロナ禍でピアノパーティもライブもできないなかで、ピアノ・コミュニティが求心力を持ち続けるためもあり、そのコアとしてpiacrossという配信ユニット(ピアノ・イベントユニット)をプロデュースした。これは寺ピアノ常設化や王子ストリートピアノなどと同時に行ったもので、寺ピアノにも絡んでいる。
このように、コミュニティ・デザインを当事者として実践していくことは、社会学者にとってきわめて重要な経験に思えるのである。これは参与観察をはるかに超えている。質的研究という社会学の方法においてはインタビューや参与観察といった方法があるが、これらはもちろん重要である。特に複数のインタビューはリアリティを理解するうえで、重要である。だがそれに加えて、私はどうしても当事者には叶わないのではないか、という問題意識があった。いかに社会学者が外から取材(調査)して、コミュニティや人びとのリアリティを鮮やかに剔出したとしても、当事者の言はそれを覆してしまうかもしれない。なぜなら当事者は調査者よりずっと前から課題に取り組んでいるし、そのぶんいろいろなことを知っていて理解しているのが常だから。そうであれば、当事者こそが語るべきだし、当事者が書いた方がよいのではないか。
このように書いてしまうと、自伝のようなものになってしまうが、当事者になれるのならばなってしまって、それを言語化するのが一番私にはよいように思える。それができないから、インタビューやアンケートや参与観察を使うのである。そうすると外的視点や客観的視点がなくなるかもしれないが、それはそれでインタビューやアンケートを組み合わせればよい。重要なことは、そういったインタビューなどの知見が当事者の言によって覆されないということではないだろうか。
また、私自身はこうした社会学的研究にそこそこに興味はあるものの、本来は理論家なので、今いるフィールド経験が、自身の社会理論を経験的に裏打ちするものと考えている。たしかに狭い経験かもしれないが、ないよりはましなのである。
それにしても、忘れないうちに、いちいち言語化していくのは、研究者や学者にとっては大事なことかもしれない。私は当事者であるが、当事者が社会科学の諸概念を駆使して、また他の事象との比較検討をふまえて文章を書いたりはしない。社会学者が、ジェンダーのムーブメントにみるように、社会的実践をすることはわりとよくあることだと思うが、それはわりとロビーイングとか、批判という形が多いように思う。もっとささやかな形で、コミュニティづくり(コミュニティデザイン)を通じておだやかな形で、学問に貢献することもできるような気がする。たとえば、私はスピリチュアルな分野や、クラブカルチャーに興味があるが、それらの当事者ではないので、当事者の声を聞いてみたいと思うし、それらをまとめた本を読んでみたいと思わなくもない。じっさい、クラブカルチャーという本はもっていた。認識するには言語化するほかないのであり、当事者が自ら出版するかわりに社会学者が調査してまとめる、ルポライターやまとめる、というのは意義がある仕事である。
私が赤羽ストリートピアノによって知ろうとしていることの1つは、赤羽の人びとにとってストリートピアノというものがどのようなものとして位置づけられていくのか、ということかもしれない。このほとんど歴史をもたないストリートピアノという試みは、定着するか否かも定かではなく、すべては社会実験である。10年前にはじまったマルシェ(ないしそれに類するもの)は、それなりに定着し、地域で何かやりたいアクティブな人びとにとってはなくてはならないものになりつつある気もする。コトイロというシェアキッチン付きコミュニティスペース(コワーキング・スペース)や、いくつかのシェアハウスは、互いに繋がっていて、地域のほかのさまざまなアクターやイベントと繋がりをもちはじめている。ストリートピアノや赤羽や北区や城北地域のさまざまなイベントが、どのような意味をもっていくのかは、これから当事者として経験していかなければ分からないのである。イベントは一時的なものかもしれないが、それによってさまざまな新しいイベントのきっかけになりうる。そのイベントで繋がったから、次のイベントが可能になり、イベントがイベントを産んでいくのである。それはイベントが人を繋げていくからだ。だからイベントは一過的なものではなく、人を繋げることができれば、後続するイベントによって新しい意味を獲得する。
私は以前に環境NPOをフィールドにしていたときにハッとしたのは、愛地球博によって、全国の環境NPO的なことやっている若者が集まり、それで全国レベルの交流が広がった、とのことだった。イベントを立てることは、金銭的にも時間的にも労力的にも大変なことだが、それを税金を使ってやる意義のひとつは、NPO間のネットワークづくりということなのである。こうして組織間でネットワークができれば、競争と協力の関係によって、この界隈(ソーシャル業界)全体が組織されていくことになる。
同様のことは、地域でも起こる。赤羽や北区のように、さまざまな集団やネットワークが動いている地域では、そのダイナミズムがかなり興味深い。これは地域に住む当事者にしか知りえないことかもしれないが、さまざまな集団や個人が競争と協力のネットワークによって互いに刺激しあいながら、イベントを組んで活動しているのである。
たとえばそこにはコミュニティ・ビジネスとして経済を回すものになるか、否かという観点もある。あることが奨励される場合もあれば、純粋にボランティアが奨励される場合もあるかもしれない。しかし、近年では副収入になるくらいには経済を回すものでないと、サステナブルではないから続けていくのが難しいということになるようである。
私はストリートピアノだけでなく、赤羽や北区という地域全体を語りたいと思っている。私が住んでいるこの地域は、非常におもしろい地域で、しかも今はとてもホットである。以前からある朝日新聞が後援している馬鹿祭り、清野とおるさんのマンガ、赤羽一番街の観光地化、宮坂一郎さんの花火会、北マルシェと宿場町まるしぇという2つのマルシェといったさまざまな文脈があるなかでのストリートピアノと寺ピアノなのである。そして私自身は、ライブ仲間をもっと今後の北区の音楽まちづくりに関わっていくことができないものか、と考えてもいる。活動を続けていけば、おのずとその地域における意味や意義がみえてくるとも思う。今はまだ歴史が浅すぎて、そこまで達してはいない。継続は力なり。今はこの事業を続け、発展させることしかできない。本格的な言語化にはまだ早いが、日誌をつけたり、このように時折、まとまった記事を書くなどはできると思う。