無限列車・雑感
2020.11.21(土)
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浦和パルコにて、鬼滅の刃・無限列車編を映画館にて1人で観る。
最初に気になった点から。これは映画後の物語の展開で理解できることになるのではあるが、猗窩座(あかざ)の登場にはやや違和感があり、理不尽さが残る。というより、むしろこの理不尽さこそがこの作品の第一のテーマなのかもしれない。
つぎに気になった点。魘夢の人間時代のプロフィールが劇中で描かれていないので、那田蜘蛛山の累のように敵の中にある共感できる要素がない。そのために、作品に深みをあまり感じることができない。魘夢は100%の悪なので、鬼滅の刃の中ではわりと珍しい鬼なのではないだろうか。炭次郎、煉獄にしても、家族の絆がテーマとなっている。この意味では、那田蜘蛛山の累も家族がテーマになっており、シリーズに共通していえそうだが、無限列車編では、魘夢と猗窩座という鬼たちのほうに家族のストーリーがなかったために、那田蜘蛛山編のようなわかりやすい感動はなかった。
加えて第三に、煉獄というキャラクターが竹を割ったような真っ直ぐさが感情移入を少々困難にしている。しかし展開が進むにつれて、煉獄の過去が開示され、しだいに共感できるようになってくる。異質感のある知り合いが徐々に自分にとって大切な存在になってくる感覚はある。
ところで、100%の悪であった魘夢とは対照的に猗窩座は人間的な鬼として描かれている。人間が老い、衰えて死ぬ、儚い存在であることとほぼ永遠に強くなっていくことの対比は興味深い。しかしながら人間的ではあるが、冒頭にあげたように、猗窩座は超越的に強く、理不尽な存在として表現される。
この理不尽さを際立たせるのもあり、最も印象的なのは、猗窩座と煉獄の戦いに全くついていけない炭次郎たちの無力感だろう。自分たちより遥かに強い存在を前にしてどうすることもできない不甲斐なさ。これは那田蜘蛛山の累でもそうだったがそれ以上に、主人公である炭次郎たちが成長の過程にあって、まだまだ未熟な存在であることを強調している。おそらくこの作品で一番共感的なのは、この未熟さであり、多くの人びとが涙するのもこの点だろう。じっさい炭次郎たちも延々と泣く。炎(ほむら)というエンディングテーマもこの線を受けたものであり、勢いのある紅蓮華ではダメなのである。
強い敵を倒したらますます強い敵が出てくるというジャンプの王道パターンではあるが、那田蜘蛛山編のような家族に関するテーマよりも力が主題となってくる。そうした力の理不尽さは今後の主人公たちの成長にバネになるほかない。そういった意味では生きる勇気を与えてくれる映画なのかもしれない。
2020/12 追記
鬼滅の刃が大ヒットしていることの最大の理由は、おそらくコロナなのだと思う。ネット上でこのことを書いている記事もあった。コロナで亡くなっ人びとが鬼に食われた人びと、煉獄さんがコロナと戦って死んでいった医療関係者と重なる。
コロナというどうにもならない脅威に晒されている今。一人一人の僕らにできることは、ほとんど何もない。手洗いうがいか、マスクをするくらいしかできない。
そして戦い、死んでいってしまう人から、何も受け取ることができない。その余裕もなく隔離され、人生の最期に残してくれたものをしっかり受け継ぐこともできない。
これはまさに『鬼滅の刃』で描いている状況と全く同じではないですか。
長い戦いが続き、未来も見えない。
みんなの心が折れそうな、これが今の日本の状況です。
でも、それでも…
心を燃やせ歯を食いしばって前を向け
また、コロナではなくても、今日の日本社会の酷い現状と構造が、カタルシス(浄化)を求めて大ヒットを生んでいるという分析もある。
鬼、鬼殺隊、どちらの陣営も、厳しく監視されながら危険な任務を与えられ、命のやり取りによって、その存在が消費され続けている。こんな状態が長年の間繰り返し続いけられているというのだ。この絶望的な世界観は、災害や経済状況、政治状況を含めた近年の日本の社会情勢が背景にあるのではないか。国連で調査している「世界幸福度ランキング」において、ここ5年間、日本の順位は下降の一途を辿っている。そのような暗い世相によって、人々が『鬼滅の刃』のダークで不幸な物語に共鳴しているのかもしれない。
不幸のなかで感じるささやかな慰めこそが需要ということか。