主催ストピ動画をまとめての気づき
私が主催した各ストピ、すなわち「赤羽ストリートピアノ」「東大宮ストリートピアノ」「岩淵パブリックピアノ(寺ピアノ)」「王子ストリートピアノ」においてYouTuberの皆さんがYouTubeにアップロードしてくれた動画のまとめサイトを作ってみた。 こうしてまとめてみると、100本以上の動画を36名ものYouTuberがアップしてくている。その時・その場所でのイベントを、時間的には半永久的に、空間的にも無制限に開かれたものへと、要はメディア化してくれるYouTuberの皆さんは、広告収入を得る以上に、社会貢献していると思う。
主催自身が写真・動画・文章でイベントを総括しておくことも重要だが、ネット社会の今日では、それ以上に、YouTuberを含むイベント参加者がソーシャルメディアに投稿すれば、参加者ひとりひとりがメディアといえる。特にtwitterはリツイートという機能があるので、そういった参加者たちの感想や意見や映像を簡単にシェアすることができる。こうして、その日その場限りのイベントも、ある種の永続性と広がりをもつことができる。なかでも動画は現場を生き生きと伝えることができる。しかもYouTuberの動画は、過剰に編集され脚色されることを嫌がる向きもあるが、現場の感覚や内面的なものを掘り下げて、あるいは現場をさまざまな解釈によって再構成・再表現した作品であり、イベントの価値を高めるものである。
主催はこうしたYouTuberの動画をまとめることで、イベントの広がりとインパクトを把握することができる。YouTuberの動画や参加者のツイートやフェイスブック記事、Instagramの写真などにより、事後的にイベントを知った人も楽しめるのである。こうしてネット時代のイベントは、YouTube、twitter、instagram、Facebookという各種のソーシャルメディア(SNS)によって、ネット上にいわば永遠の命を得る。しかもそこではそれぞれ感じ方や考え方が異なるゆえに当然ながら表現の仕方も異なる多様な参加者によって言語化・作品化されていき、1つのイベントがもつ多面性を具現化してくれる。写真や動画だけでなく言語化することによって、意味の多層性といったものにも光が当てられる。
ピアノを1台、商店街に用意し、twitterやFacebookのようなソーシャルメディア(SNS)で主に告知するだけ、予定されたプログラムなどない。自由に人が集まり、自由に演奏し、自由にセッションし、自由に秩序が形作られる。ストリートピアノとは、そのような自由な音楽の祭典、自由な秩序なのである。(もちろん自由と秩序とが相反するものだというホッブスの秩序問題がここでは下敷きにされており、それらが止揚された1つの解答がストリートピアノにはある。)
だからこそストリートピアノは大変楽しく、興味深く、知的にも感情的にもエキサイティングでおもしろく、極めて魅力的な生き物であって、生き生きと人びとが輝いていく。ここでは人びとは奏者も聴き手も、選択の連続を経験している。聴き手はいつ帰ってもいいし、誰と喋ってもいい。飲食しながら聴いてもいい。どこで聴いてもいい。参加者1人1人の細やかな選択の連続が場の雰囲気を作り上げていく。決められた席でプログラムに沿った演奏を黙って聴くホールでの演奏会とは真逆なのがストリートピアノなのである。ドストエフスキーに由来するバフチンのカーニバルの概念とも関係するかもしれない。多数の声、ポリフォニーなど。
そして、そこから出てきた最終的な作品であり結晶が、奏者たちによるYouTube動画だろう。そのようなYouTube動画をまとめて整理してみる、という試みはあまりなかったかもしれない。これは私が研究者だからかもしれないが、YouTuber動画もまた貴重なデータであり一次資料である。主催しているだけに、現場と動画との違いを語ることもできるが、それだけでなく、動画群が示すものが、果たして現場の多面性を表現するものなのかどうかは検証が要るかもしれない。
YouTuber動画群は、もちろん私が主催したイベントにとどまらない。日々、新しい動画は作られていくが、それらの総体を認識し、分析し、理解し、解釈し、総合的に語っていくことはけっこう求められていることなのではないだろうか。