ピアノまちづくり
ピアノまちづくり:ストリートピアノ・寺ピアノ・ピアノラウンジ
2020.11.17~(執筆中)
ピアノを介したまちづくりを進めている。ピアノを弾いてきたし、ピアノで作曲してきたから、僕にとってピアノは自分の一部みたいなもので、これを通じて何か社会に貢献できることができないかと考えてきた。そんなおり、2019年にストリートピアノと出会って、これだと思った。00年代の環境NPOへのコミットからはじまり、2017年からライブをはじめ、2018年から空き家リノベーションやマルシェ、まちづくり、コミュニティづくりといったことに参画していた矢先のことだった。
アーティスト特権性の脱構築とカーニバル性
誰でも自由に弾けるストリートピアノの本質は、演奏者とオーディエンスが入れ替わることにある。通常の音楽イベントでは、演奏者は予めブッキングされており、プログラム通りにライブやコンサートは進められる。通常、オーディエンスは告知されたイベントに合わせて集まってくるが、多くの場合、特定の演奏家やアーティストが目当てである。
一方、ストリートピアノは、誰でも自由に弾けるために、特定の演奏家やアーティストのパフォーマンスを目的とするものではない。対価なしに、誰もが見られ、聴かれる公共空間でのパフォーマンスを誰もが担うことができることに、ストリートピアノの革新性(新しさ)がある。
しかしこれはいってみれば、何年、何十年も技を磨き、研鑽を積んできたプロフェッショナルなアーティストをある意味で否定するものともいえる。職業芸術家は、自らの芸や技術を披露することを生業(なりわい)とするので、無条件に無料で提供することはできない。無料で提供する場合には、基本的には自身のプロモーション(広報)であったり、公的な助成金やパトロンからの支援が必要だろう。
プロの演奏家がストリートピアノにどのように向かうべきかについてはopen questionであって、誰もが合意できるようなソリューションはないだろうが、ふだんの自分のイベントでは知り会えない人びとに知ってもらうよい機会、つまり広報的なものと考えればよいと思う。だからプロの演奏家がストリートピアノに出てくるメリットはあるし、それをYouTube等の動画でネット上で公開することももちろん、自身を知ってもらう広報の一環になる。なお、プロ演奏家のパフォーマンスがアマチュア演奏家を弾きにくくさせるということはありうるが、それはストピイベント運営上の問題である。プロが弾いたら小休止を入れるとか、子どもが弾くとか、セッションをやるとかすればリセットされる。
ストリートピアノがプロ演奏家にとっても、すくなくとも広報上のメリットがあることは了解されたと思うが、本当に重要なことは、アマチュア演奏家にとってストリートピアノは広報以上の社会参加である、という点である。プロ演奏家は、ステージやコンサートなどで自身のパフォーマンスを披露できるが、アマチュア演奏家にはそのような場は相対的に少ない。だからこそ、ストリートピアノで最も輝けるのは、アマチュア演奏家なのである。これにはプロアーティストのある種の特権性を脱構築する契機がある。ストリートピアノでは、プロもアマも、有名も無名も関係なく、同じ演奏者として平等である。もちろん腕の良し悪しやパフォーマンスの巧拙はあるだろうが、それでも演奏者として同一平面上にあり、それだけでなく、演奏者とオーディエンスが入れ替わることにより、演奏者とオーディエンスもまた疑似的な同一平面上にある。このような、フラットさ、皆が同じ平面上にある平等性と参加性が、アーティストとオーディエンスの間にある壁を突き崩す風通しのよさ、開放感と革新的な雰囲気をストリートピアノにもたらしているのである。
これは、かつて特権に守られていた貴族が市民革命によって特権を剥奪され、一市民として生きていかなければならなくなったことと似ている。出身の音大や誰に師事したかとか、コンクール入賞者とか、人気YouTuberであるとか、そういった経歴はストリートピアノではほぼ無意味であり、純粋にパフォーマンスだけで評価される。ストリートピアノはフラットだからこそ、けっこう大変な競争の場でもあり、それが様々に枝分かれしたパフォーマンスの多様性を生んでいる。ストリートだからこその、クラシックの技術だけではない、多様な価値観点があり、オーディエンスによって評価は千差万別でもある。たとえば高度な技術はなくても、リクエストに応えたりする双方向性があれば、場は盛り上がる。着ぐるみで演奏するとか、いろいろな芸もありうる。そういった演奏者による場づくりのうまさのほうがむしろストリートピアノには求められているのかもしれないのである。(もちろんいろいろなパフォーマンスがあるから、おもしろいのがストリートピアノの特長であるが。)
このようにストリートピアノは、いってみれば音楽の第二の民主化(大衆化)なのである(第一の民主化は20世紀にラジオやレコードとともに起こったロックやポップスなどの台頭、いわゆるポピュラーミュージックの世界的席巻)。市民革命以外でも、たとえばブログやツイッター(SNS)などでの情報発信は、ストリートピアノと似ている。YouTubeなどでの音楽配信は、もちろん意見表明としてのSNSによる情報発信と似ている。しかしSNSでの意見やコメントが当局の政策とか、新聞記事に乗っかって寄生する形で表現できるのとは異なり、音楽配信は独立した作品なので、うまく紹介されない限りは、ほとんどの人から認知されないことが多い。音楽配信そのものがツイッターなどでリツイートされることもあり、多くの人に知られることもあるが、ツイートする本人が多くの人びとにフォローされているとか、ハブに紹介されるといった音楽にとって外在的な構造によって、知る/知られないということは規定されている。しかしながら、ストリートピアノの現場は、そういったネットワーク的な構造的不平等性がなく、やはりフラットなのである。つまり、前述したプロとかアマとか有名とか無名が関係ないということがここでもいえる。ストリートピアノ──公共空間に置かれた誰でも弾けるピアノというきわめて単純な仕掛けは、構築された垂直的構造を脱構築する働きを内臓しているのである。
もちろん、アマチュア演奏家が活躍するためには、彼らがほぼセミプロに近いとか、ピアニストや他楽器の演奏家が相応の技術を有していたり、場づくりができるといったある程度の卓越性(腕のよさ)、つまり人的資本や文化資本といったさまざまな条件は必要だろう。ストリートピアノという文化が成立するためには、質量を伴った弾き手が一定層いないといけない。日本社会はヤマハやカワイを代表とするピアノメーカーやピアノ教室、音大のピアノ重視などピアノ文化の歴史的な育成という背景があり、この点はストリートピアノにとって恵まれた条件といえる。だからこそ、ここ数年で急速に世界的なストリートピアノ大国になったのである。
議論を脱構築のテーマに戻そう。バフチンが強調したように、中世の厳格な階層社会ではガス抜きの必要から、広場などにおいて身分を気にしない無礼講が許されるカーニバル(祝祭/ばか騒ぎ)が必要された。
カーニバルとは古代より続く、国や地域の違いによって様々な形態をとる祭りのことである。カーニバルにおいては、人々の間に通常存在する社会的、身分的な距離が取り払われ、無遠慮な人々の交わりが見られる。また、カーニバルは、動物が人間の衣装を着たり、貧民が国王に扮して国王の衣装を着たりする、価値倒錯の世界でもある。
古代より、広場はカーニバル性をもった場所であった。バフチンによれば、特に中世の人々は、規則にがんじがらめの生活と、カーニバル性を持った広場における生活との、二重生活を送っていたという。カーニバル広場においては、不謹慎、神聖なものに対する冒涜や格下げなど、あけっぴろげな生活が見られたという。
社会における垂直的な階層構造をフラットにする祭りは、いわゆる通常の音楽フェスでもある程度はみられるが、フェスではアーティストはやはり特権的なステージの上にあり、一般のオーディエンスがステージに上がることは許されない。つまり、フェスやライブでは水平性は徹底されてはおらず、教祖的な、つまり神のようなアーティストの超越性のもとでの、ファン同士の平等(神の下での平等)という構造が残っており、一種の宗教的な垂直的構造が維持されている。この残された垂直構造をさらにフラットなものにするのが、誰もがステージに立てる、誰もが主役になれる、ストリートピアノの仕組みであり、その演奏者の大衆性により、演奏者じたいのカリスマ性も脱構築されているのである。
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図:ストリートピアノは誰が演奏しているかよりも、純粋に音楽を公共の場で共有することに意味がある
ストリートピアノにおいては、どんなに高度なパフォーマンスをもつ演奏者も、演奏者の一人にすぎない。1日に100人の演奏者が演奏したとしたら、1/100の存在にしかすぎない。だからこそ、演奏者とオーディエンスの溝が埋まり、フラットな場が実現されている。誰が演奏するかよりも、音楽そのものと、音楽のある場を作り出す人びと、参加者全部が重要な役割をもった主人公なのである。ストリートピアノで用いられるアップライトピアノは演奏者の顔が見えず、オーディエンスは後ろから音楽のみを聴くことも多いが、誰かわからないけれども、いい音楽を奏でてくれていて、それにノッていく、というのがストリートピアノという新しい音楽シーン、音楽体験の新しい様式なのである。
そして、アーティストに代わるここでの神的なものは、むしろ沢山の演奏者たちとオーディエンスが一体としてつくりあげる《協働性》にあるのだ。一演奏者だけでなく、集まってくれた多くの演奏者、オーディエンス、そして主催者といった関わる全ての人びとが、プログラムもシナリオもないなかで、かなり対等な力関係によって、ひとつのイベントを、こういってよければ、ひとつの筋書きのないドラマを即興で作り上げていく。このいわば創発特性、デュルケームのいう《集合的沸騰》にこそ、ストリートピアノの醍醐味があり、最大の魅力がある。演奏者の力量にのみ還元されない、そこに集まった人びとの力、参加者の心意気の掛け合わせ(相乗性・シナジー)こそがストリートピアノの本質なのである。
ピアノ弾きの社会性
ピアノは、1人オーケストラともいわれる。1人で完結してしまうので、あまり仲間を必要としない。だからこそ、黙々と1人で練習に励み、1人の世界に埋没する一匹狼タイプが多いと思う。いってみれば、ピアノ奏者(ピアニスト)は作家や研究者に近いと思う。ドラムやパーカッションなどの打楽器奏者(リズム隊)がメロディを奏でる他楽器奏者を必要とし、トランペットやフルートなどの管楽器がコードを奏でる他楽器奏者を必要とするように、通常は、メロディ、コード、リズムの音楽の基本三要素を全てできる楽器はほとんどない。たとえば、ピアノと似たオルガンはリズムを奏でない。ピアノだけが、三要素を全てこなし、かつ(そのピアノフォルテというその本来の名称にあるように)強弱を自由につけられる。管楽器や弦楽器と違って、音を続けて大きくすることはできずすぐ小さくなるが、そのぶん、多くの音を使って複雑な音楽を奏でることができる。
その一方で、ピアノ奏者も人間である。作家が文章という表現方法によって社会と繋がるように、ソロで完結しがちなピアノ奏者も、他者や社会と繋がりたいこともある。これは承認や交流といった基本的な欲求を背景とすると考えてもよい。人間は本来的に相矛盾する欲求をもっている。1人でいたいときもあれば、誰かと繋がりたいときもある。時と場合によって、自己の欲求は変化する。こうして孤立しがちなピアノ奏者も、承認や交流を求めており、だからこそストリートピアノのような誰かに聴いてもらえる場にニーズがあるのである。
ピアノのように、オーディエンスと直接目線を合わすことなく演奏できる楽器はシャイな日本人に向いている。これはピアノ奏者だけでなく、オーディエンスにとってもそうなのである。奏者から見られることなく、奏者を見ることができる、というのは、いわばオーディエンス(聴き手)の特権でもある。いってみれば、これはTVやラジオに近い気軽さがある。ストリートピアノの聴き手になるための敷居は非常に低い。この点は、ギター弾き語りなどの路上ライブを囲むファンになるか否かを迫られるかのような一般のストリート・ミュージシャンとはけっこう違う。
1人オーケストラの革新性
ピアノが1人オーケストラとして個人での活動に向いているのは、同じく個人でのコンピュータ(パーソナル・コンピュータ)の名称をもつPCの普及やITエンジニアの拡大と響き合う。PCのキーボードと、電子鍵盤楽器としてのキーボードが同じ名称であるように、ピアノとPCの相関は高く、DTM(デスク・トップ・ミュージック)などでは鍵盤キーボードによるMIDI入力がなされる。要するに、ITとピアノはきわめて相関が高く、ピアノとDTMができることによって、多様な音源を用いた作曲にも開かれている。J-Popやジャズ、クラブミュージック、ゲーム音楽、映画音楽などさまざまな楽曲提供をすることができる。作曲家はピアニストであることが多いのはこのためである。
ピアニストはPCの個人作業や作曲というクリエイティブな作業に向いているので、現代アートのように、新しいジャンルを切り開くような人もいる。たとえば、高木正勝は、作曲家、ピアニスト、映像作家であり、コンピュータに精通しながらも、田舎に拠点を構えて自然と調和した暮らしをしている。
ピアニストはソロアーテイストとして個人で完結するからこそ、機動性が高く、新しいことをしやすい。一方、オーケストラは十数人くらいいる団体なので、新しいことをするのは難しく、どうしても以前からの営みを繰り返すことになる。クラシック音楽が、Classicという古典を意味するように、また主に18世紀後半から19世紀くらいの100年から200年前の西欧音楽を意味するように、クラシック音楽好きは一般に文化的に保守的である(政治的には革新的かもしれないが)。
その一方、ソロでの活動が基本であるピアニストは作家、美術家、研究者、クリエイターと同様に、文化的にも革新的でありうる。ピアノの魅力は、こういったいわば作家性やクリエイター性にもあり、オーケストラや管弦楽団に比べたら、現代の他のクリエイターたちとコラボレーションすることが比較的容易なのである。ヴァイオリンやビオラのような弦楽器が(ジャズを含む)バンドに入ることはめずらしいが、ピアノやキーボードがロックやポップスでは珍しくないし、ジャズではピアノはデフォルトである(ジャズバンドのミニマムはピアノ、ベース、ドラムのピアノトリオ)。 ストリートピアノとピアノバー
ストリートピアノの隆盛の背景には、もちろん日本社会におけるピアノカルチャーの成熟がある。
①前世紀のヤマハによるピアノ普及
②キーボードやシンセなどITやピアノ親和性の高さ
③21世紀のネット社会における動画配信カルチャー(まらしぃをアイコンとする家ピアノ配信)
④ピアノバー、ピアノラウンジ、ピアノのあるレストラン、ピアノスタジオなどのピアノのある場の普及
⑤→Pia-no-jaC←、H ZETT Mなどのインストバンド、清塚信也などのポップなピアニストの活躍
無料のストリートピアノは、ピアノラウンジやピアノバーなど有料の施設にとってプラスなのか、それともマイナスなのか?これはひとつの解くべき問いだが、新宿三丁目のロシナンテなどを考えると、ストリートピアノはむしろ既存のピアノバーなどには追い風に思われる。というのは、ストリートピアノを弾いてから、そこで出会ったピアノ仲間たちと飲もうとすれば、やはり客が弾けるピアノバーに行きたいと思うからである。
一方、プロやセミプロにしか弾かせないジャズバーのような場所はややオールド・ファッションなものになってくるのかもしれない。だが、そのようなバーでもオープンマイク的な「オープンピアノ」デーなどを作ることで、ストリートピアノのように自由に弾けるシーンを作ることはできる。
ストリートピアノは、このように、既存のピアノバーやピアノラウンジの営業形態を変えていき、限られたピアニストの特権であった楽器演奏という行為をより開かれたものにしていく。このことは、もちろんプロピアニストの演奏だけを聴きたい客にとっては朗報ではないだろうが、店の新しい客を開拓することはできる。あるいはピアノバーそのものの敷居を低くしてくれるかもしれない。もちろん、これはオープンデーという形でピアノを週に1, 2回ないしは数回開放するのであって、いつも開放する必要はないので、既存の客層との両立は可能に思える。
私自身は演奏者や作曲家といった音楽家の視点だけでなく、まちづくりという視点からストリートピアノを考えているので、ストリートピアノとピアノバーが両立できるような仕掛けを考えていきたい。ストリートピアノはたしかに、創造的破壊をもたらすようなイノベーティブな側面があるが、だからといって既存のピアノバーやピアノスタジオがなくなるべきでない。たとえば、やはりストリートピアノは不特定の聴き手がいるので練習の場ではなく、基本的には披露の場であるべきだから、練習はスタジオで行うべきだと思う。
音楽家と場所性
音楽家、特に演奏家、ミュージシャンは場所によらず、どこにでも行き、そこで音楽を奏で、人びとを喜ばせることができる。だからミュージシャンにとって場所はそれほど本質的ではない。しかし、ミュージシャンも刺激を与えあったり、語り合ったりできる仲間がほしいものだ。そこでミュージシャン同士で集まれるように、近くに住んだりすることはあるだろう。特に、音楽大学のまわりではそういったことが多いだろう。
かつての渋谷がミュージシャンたちに魅力的だったのは、ミュージシャンが集っているため、ライブハウス、カフェ、レコード屋といった音楽にまつわる店が多く、音楽をやるうえで、非常にやりやすい環境であったからだろう。
それと同様に、ストリートピアノ、ピアノラウンジ、ピアノカフェ、ピアノスタジオといった店舗や場所が整っていれば、ピアノ奏者が集ってくることができると思う。そして集まってくれば需要があるので、こういった人たちが集まってきて、住んでくれるかもしれない。常設ストピは、そういう意味で、店舗や場所のようなものである。
スクエアゼット・プロジェクト
square_azという名義で、私は2017年にライブ活動をはじめたが、これにはいろいろと伏線がある。ピアノそのものは2011年に再開した。2011年は東日本大震災があった年だったが、芝浦工大の専任教員(助教)になれたのを契機に、それまでの学術的な研究教育活動だけでなく、音楽を再開した。赤羽発の音楽教室Beeのピアノコースに通いはじめる。主な目的としては、自作曲を発表会で聴いてもらうことにあった。せっかく作曲しても当時はストリートピアノなどもなかったので、気軽に誰かに聴いてもらえるのは教室の発表会くらいだった。
翌年の2012年からは年2回催されるBeeの発表会の懇親会等で私と同じように、ピアノを通じて友人やコミュニティを作りたいと思っていた当時30代前半や20代の生徒たちとカラオケ感覚のピアノ・パーティを立ち上げた。すでにmixi等のSNSやネットのサイトなどを通じて、ピアノ弾き合い会やピアノ・パーティは存在していたが、そういった社会人サークル的なものは、大学のピアノサークル出身者などが多く、当時の私にはとても敷居が高かった。腕に覚えがある者でなければ、なかなか公共的な場に参加することは難しいので、都内などでの弾き合い会はレベルが高くなる傾向にあると思う。したがって、ある程度、自分好みのピアノ・コミュニティを作るためには、当然ながら一番ではなくてもある程度、ピアノの技量が相対的に上のほうにいないとやりづらい。そういう意味では、ピアノ教室は初心者に近い人もいるし、私自身が引っ張れる位置に立つことができた。ピアノだけなら独学でよく、教室に行く必要はあまりないのだが、ピアノを通じたコミュニティづくりをしようと考えた私にとっては、ストリートピアノがほとんど普及していなかった当時においては、ピアノ教室に通う一択だった。
ピアノ・パーティに参加してくれたピアノ弾き語りのcazさんという私と同年代の方が、ボーカル出身で非常に歌が上手いということで2016年くらいからライブをはじめた。すでにcazさんとは友人になっていたので、ライブの客としてライブハウスに行く機会が多くなった。このライブはLay-acoというギター弾き語りを中心とする弾き語り系のアーティストが110組以上集まるような長時間にわたるライブであり、そこで多くのアマチュア・アーティスト、兼業アーティストと知り合うことになった。
2017年に入って、私自身も自作曲のインスト・ピアノで、Lay-acoに出演するようになった。最初の名義はmpsq_azで、sqはsquareの省略形だが、読めないので、後にsquare_azに改名した。mp^2は、Masayoshi Muto Piano Projectの頭文字、MMPPが(MP)^2と書けるので、mp-squareと読む。aは今住んでいる赤羽、zは出身地の逗子の頭文字で、逗子から赤羽に来た私のルーツを表現している。MとPに関しては武藤がピアノをやっているのは自明なので略してしまって、形式的なものsquareだけが残った形になるが、二乗、掛け合わせ、広場という意味をもつsquareは、形式的なもの以上の意味をもったので、そのまま使うことにした。azは、私のルーツである赤羽と逗子という意味だけでなく、from a to zで森羅万象、宇宙全体、世界の全てを意味するので、square_azには、森羅万象の掛け合わせ、cross world的な、意味をもたせることができたので、この名義でいくことにした。のちに広場などに置かれるストリートピアノの主催をはじめることになったので、広場(公共空間)とsquareに意味も帯びるようになり、いろいろな意味をもたせることができてよかった。
私が出演していたはLay-acoじたいも、矢口さんというBeeボーカル教室(ギター教室)の生徒が立ち上げたイベントであり、Bee赤羽校は、アマチュア・アーティストが生徒にけっこういるような場であった。
パフォーマンスアートとソーシャルキャピタル 2023.5.22
音楽、ダンス、演劇、サーカス、体操、フィギュアスケート、バルーンパフォーマンス、マジックなどは広い意味でパフォーマンスアートとよばれる。サッカーや野球のようなスポーツや美しく盛り付けされた料理もパフォーマンスアートにいれてもいいのかもしれない。パフォーマンスアートはモノではなくコトであり、モノとして形が残る美術・文学・映画とは違い、後には何も残らない。祭りの後の儚さである。しかし本当に何も残らないのだろうか。儚いがゆえに、それは以下にみるような集合的な価値をじつはもっている。
美術や映画などは、基本的にモノなので、いつでも楽しむことができる。音楽も配信やCDなどはいつでも楽しめるものだが、じつは音楽の本質はライブでありパフォーマンスアートである。パフォーマンスアートという用語は長いのでライブと言い換えよう。ライブと芝居、およびCDと映画はパラレルな関係であるが、ともに技術の力を借りないライブや芝居のほうが基本的であり本質的といえる。
美術は、それが展示されているミュージアムに行けば、展示期間中ならいつでも楽しむことができる。しかしライブは原理的にはその時と場所(イマココ)での一度きりである。個人の都合を考えれば、いつでも楽しめるほうがよいが、ライブはそういうものではない。
しかしそのかわり、ライブでは出会いがある。それゆえ音楽等のライブは、人と人の繋がりを作り、社会関係資本(ソーシャルキャピタル)の醸成を通じて、①人と人の関係を作ることで福祉的・予防医療的に居場所をつくることができる。そしてさらに、②異分野間の化学反応を起こして文化経済的に新しいものを生み出すことができる。こういった機能は、時間と空間が限られているからこそ可能になる。
モノとしては何も残らないから一過的なものにすぎないともいえる音楽等のライブは、じつは人びとに同時共通体験をもたらすことで、人びとの間にある繋がりを活性化し、社会関係資本を豊饒化させているのである。
芸術と福祉の弁証法(ARTとCAREのaufheben)
芸術が芸術だけのためにあるとしたら、それはやはりつまらないと思う。芸術の本質は、人の心を動かすところにあるが、感動は生活にアクセントを与えてその質(QOL)を劇的に向上させる一種の福祉でもある。たとえば、夢中になる、我を忘れるといった体験は西田幾多郎の純粋経験を想起させるように、自己意識やつまらないものに囚われがちな「現存在」を一種の解放へと向かわせる。芸術は至福であり、至福は癒しを含意するというか、超えている。いわば芸術は通常の治癒を超えた超回復的なポジティヴ・ヘルスといっていい。芸術は医療としては過剰なのだろう。
とはいえ上田紀行『スリランカの悪魔祓い』にみるように、未開社会においては治療・祭・宗教・芸術は未分化であり、むしろその機能分化されていない形態こそが、本来の意味での人間的な癒しになるものだった。このような社会においては、人と人の繋がりの回復が、治癒と同一視されうる。
たとえば、ライブやコンサートで、アーティストと聴衆が、時間と空間を共有する生の音楽という共通体験によって図らずとも一体感を得ることがあるが、この集合的沸騰(デュルケム)も、人と人