負い目からくる寛容性
例えばだが誰かが横断歩道を赤信号で渡っている様子を目撃したとする
まああんまり良くないことである
が、ここで「そういや自分も誰も見ていないところで赤信号を渡ったことがあるな…」と思い出したとする
そうなると自分の過去の負い目から目の前のソイツに強く言うことが出来なくなるはずである
上記のことをもっと抽象化して、「自分も何かしらの罪を負って生きている」と考えたとする
そうなるとなんだか他人の罪に対してどうこう言うことにあまり自信を持てなくなる
「どうでもよさ」みたいな感じ
私が他人に対しての完全などうでもよさを持てているかと言われると微妙である
その意味で私にはまだ他人への寛容性が足らんなと思う
人間を雑に「善と悪」みたいな感じで分けるのは無理だと思う
もっと複雑だし、複雑だからこそ楽をするために正義の味方という存在を欲しがる、的な いやまあ欲しがっているのは正義の味方ではなくむしろ悪人の方なのかもしれないが
「諸悪の根源」みたいなのが存在してくれたら楽である、そいつに全部の責任を負わせてしまえばいいわけだし
話は逸れるが悪人と呼ばれる人に対しても寄り添う姿勢は持たなければならないとは思う
100回赤信号を渡ってもバレなければ善人だし、1回だけ赤信号を渡ってしまったとしてもバレたら悪人になる
これは冷静に考えたらヘンな話である、そのあたりヒューリスティクスで物事を見るのは避けたいとは思う
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まあ上記のことはそれはそれとして、「どうでもいい」で終わらせてはいけないことも多分あるわけである
どうしても他人に強く言わなければならない状況というか
まあ自分がそういう立場になったとき、せめて負い目を感じることだけは忘れないようにしよう