「教育勅語という妄想と実像」より
(あらかじめ予防線を張っておくと,私はなんたら学園に関わるアレコレにはこれっぽっちも関心がない。それが詐欺や汚職だというなら警察の仕事だし,政治問題だというのなら参考人招致でもなんでもやればよろしい。くだらない噂や憶測で消耗するのは馬鹿げている。なお教育勅語を天皇と結びつけるのは,少なくとも昭和天皇の「人間宣言」以降においてはどぎつい冗談である)
まぁ心情的には記事の内容に同意。
教育勅語ってのは一種の宗教なのですよ。
以前にも書いたけど,明治維新では神と仏を否定し(日本において神と仏は一体のもの)代替品として天皇を据えた。
その教化の手段のひとつが教育勅語なわけ。
しかもその内容は(神道ではなく)儒教がベースになっている。
例えば,いわゆる親孝行の「孝」は儒教的な概念である。
(日本では,戦国時代あたりから武士階級を中心に儒教が台頭し江戸時代に急速に浸透していく。たとえば「南総里見八犬伝」のような創作を見ても儒教思想が色濃く反映されているのが分かるだろう。現代で言う「国学」あるいは復古神道は神道を儒教をベースに再解釈したもので,明治維新において全面的に取り入れられることになる。これは断言していいと思うが,ある日突然なにかがぽっと出てくるということはありえない。必ずそこには「そこに至る経緯」があるのである。故に「教育勅語が出来たのは明治時代です。ということは、江戸時代の日本人は、親孝行もしなかったし、ともだちも大切にしなかったことになります」というのは言い過ぎ)
戦後においては,これまでの反動から,教育現場から宗教を排除する方向に向かった。
でもよく考えてみてほしい。
元々の倫理・道徳観念というのは宗教と一体なのですよ。
「学校」という概念自体が宗教由来のものだし。
戦後日本において宗教と遊離させた状態で倫理・道徳を教えるというのはかなり挑戦的な「実験」で,実際に「日本教」などと揶揄される状況も作り出してるけど,個人的には比較的うまくいってると思う。
知ってます? 日本の子どもは「世界一」人を殺さないのですよ。
それでも宗教的な拠り所のない道徳教育に不安を感じるのは無理もない話で,そうした不安を取り除く「装置」は必要だと思っている。
もともと宗教系の私学は今の日本でも珍しくないし,「捏造された宗教」とはいえ教育勅語をベースにした学校があってもいいとは思う。
私は御免こうむるけど(笑)