情報処理と大学と公文書の1970年
情報と科学と工学の絡み合いについて某所で話をする予定ですが、その中の1トピックのつもりで考えていたことの調査にだいぶ苦労したので、ここにメモを残します。
そもそもは日本の国立大学における情報系の研究組織が同じ年、1970年に幾つも設立されていたことに気づいたのが始まりでした。このことは東京大学理学部情報科学科の沿革に掲載されていました。
このとき知ったのは、次の3つが同年の設立だということです。
東京大学理学部附属 情報科学研究施設
京都大学工学部 情報工学科
東京工業大学理学部 情報科学科
これは時代の要請でたまたま1970年に集中したのかしら?という程度の考えだったのですが、その後、日本の科学技術政策について調べるうち、そういえばこの話も国立大学のことだから背景となる政策や法律があるはずだよな、と思ってしまったのが運のつき。1970年に情報系の学科等の設立が集中した理由について突き止めねば気が済まなくなってしまいました。
はじめにヒントを感じたのは大阪大学基礎工学部情報科学科の沿革です。
情報科学科は、情報関連分野の拡大に伴って情報工学科と数理教室が統合され、1996年に発足しました。前身の情報工学科は、1970年に我国最初の情報関連5学科の一つとして設立され、国内有数の充実した教育研究体制を持つ学科に発展してきました。
「1970年に我国最初の情報関連5学科の一つとして設立」とあります。ここで上の3つだけでなく5つあったことが判りました。さらに言うと「我国最初の情報関連5学科」という形でまとめて語りうるような何かがやはり1970年にはあったということも推測できました。
1970年に設立するには1969年には国の側で動きがないと難しいと思われました。「日本法令索引」(https://hourei.ndl.go.jp/ )で「情報」や「情報処理」で検索してみました。すると残念ながら1969年(昭和44年)の法令は出てこなかったのですが、1970年(昭和45)にいくつも出てきます。せっかくなのでこちらも見てゆきました。 1969年には「情報処理振興事業協会等に関する法律」という重要な法律が定められました。
これはなんと現在の情報処理推進機構(IPA)の根拠となる法律で、1970年の設立に繋がりました(正確には独法化前の情報処理振興事業協会の設立)。この法律がないと未踏も存在しませんでしたね・・。もしもなかったらですが、今とは似てるけどだいぶ違ってるような世界ができているんじゃないか、という if を想像しました。
なお現在は法律の名称が変わって「情報処理の促進に関する法律」となっています。
それっぽいものが見つかったわけですが、この法律のなかに国立大学の話はありませんでした。では審議経過も確認してみましょう。上のページには「審議経過」というタブがあって、選択すると議事録リストが表示されます。さらに「審議経過が含まれている会議録を対象として検索する(国会会議録検索システム)」というリンクをクリックすると、このリストに対する全文検索が可能となります。
ど直球の「大学」で検索してみました。すると嬉しいことにたくさん出てきます。該当部分だけの表示もできますのでひょいひょい見てゆきますと、第63回国会 衆議院 商工委員会 第21号 昭和45年4月17日 における村山松雄氏(文部省大学学術局長)のご発言が出てきます。
大学関係では、この情報処理というようなことがこれからの社会に必要になってくるという認識のもとに、ここ両三年来、この関係をどうすればいいかということを、関係者会議を持ちまして、文部省も加わりまして検討を進めまして、昨年の七月にある程度の指針をちょうだいいたしました。それに基づきまして、実はそれ以前からも、関係の学科なりあるいは研究施設をつくってまいってきたところでありますけれども、四十五年度におきましては、特に国立学校関係の重点施策に取り上げまして、研究施設を三つ、それから大学の学科を五つ、それから短期大学の学科を一つ、それから高等専門学校の学科を二つつくりまして、研究の推進並びに必要な人材の育成ということにつとめてまいっております。
(太字は筆者)
これで、「大学の学科を五つ」設立したことは具体的に文部省の関与していたことが判りました(なお他の会議録にも本発言よりも簡便ですが同様の内容が出てきました。)とくに有難いこととして「昨年の七月」つまり1969年の7月には何らかのアクションが行われたということが判りました。また1970年(四十五年度)における新設は「それ以前からも、関係の学科なりあるいは研究施設をつくってまいってきた」ことの継続的事業という認識であることも判りました。
さて、いつ誰が何をしたかについて、1969年の7月に文部省が何らかの公文書を出しているだろう、まで判ったのであとは簡単だと思ったのですが、これがぜんぜん出てこないのでした。ちょっと目先を変えてみましょう。
HPC(High Performance Computing) のサイトで、1969年に文部省と通商産業省で大きな動きのあったことが掲載されていました。
文部省は1969年、「昭和四十四年文部省令第十八号」を制定し、全国共同利用の大型計算機センターを法制化した。1966年から始まっていた東京大学に続いて、この年、東北大学、京都大学、大阪大学、九州大学で大型計算機センターが設置された。1969年11月、情報処理技術者認定制度による第1回情報処理技術者認定試験を実施した。
大型計算機センターって情報系の名前のついた学科の設立より古いのですね。あと、懐かしの情報処理技術者認定試験の開始も1969年とのことです(つまり第1回はIPA設立の前年なので通産省が試験を実施しました)。
さて、他にも次のようなことが書かれています。
2) 通商産業省(情報産業部会)
通産省の産業構造審議会は1967年11月に情報産業部会を設置したが、1968年9月に「中間答申」を、1969年2月に「情報処理施策の基本方向」を発表し、1969年5月30日に「綜合答申案」を大平通産大臣に提出した。その中で政府の当面取るべき施策として以下の事項を提言した。
(a) 大学、高校で電子計算機教育を推進すること
(b) ハードウェア、ソフトウェアを開発すべきこと
(c) 通信回線を電電公社の独占でなく、民間に開放すること
(d) 情報産業の基盤が確立するまで、外資の進出を規制すること
(e) 情報産業を育てるための金融、税制上の助成措置をとること
(a)の情報教育については、文部省の情報処理会議も答申を出しており、現在の10大学、12学科からさらに増設し、教育用の計算機を研究用とは別に置くことなどを提言している。
(太字は筆者)
1969年5月の通産省の情報処理施策に関する答申案のなかに「(a) 大学、高校で電子計算機教育を推進すること」「 (a)の情報教育については、文部省の情報処理会議も答申を出しており、現在の10大学、12学科からさらに増設し、教育用の計算機を研究用とは別に置くことなどを提言している。」とあります。通産省としても情報処理の推進に関する審議を行っており、その中には教育の推進も含まれていることが判ります。また、文部省から答申が出ていることも改めて判りました。
せっかくなので、通産省の情報産業部会について調べてみました。「情報産業部会 1969」で検索すると、 日本経営情報開発協会による「コンピュータ白書 1970」が見つかりました。
これによると文部省では「情報処理技術教育に関する調査研究」を1969年5月12日に発足し、その一環として「情報処理教育に関する会議」を開催しました。そして同会議が1969年7月30日に「情報処理教育振興に関する当面の施策」を中間報告として発表しました(コンピュータ白書 1970, p.305-306)。これが先にあった「昨年の七月」の指針と考えられます。
コンピュータ白書ではこの当面の施策に並び、次のような国立大学などにおける学科、講座などの新設が1970年度に実施されることを紹介しています。
(4) 国立大学などにおける学科,講座などの新設情報処理教育当面の課題である情報処理技術者・研究者の養成を目指して,つぎの国立の大学,短期大学,高等専門学校に合計8学科を設置する。
〔大学〕
東京工業大学理学部情報科学科
電気通信大学電気通信学部電子計算機学科
山梨大学工学部計算機科学科
京都大学工学部情報工学科
大阪大学基礎工学部情報工学科
〔短期大学〕
山形大学工業短期大学部情報工学科
〔高等専門学校〕
釧路工業高等専門学校電子工学科
東京工業高等専門学校電子工学科
以上のほか,つぎの3大学について関係講座の整備充実が図られた。
岩手大学工学部電子工学科情報処理工学
京都工芸繊維大学工芸学部共通電子計算機工学
滋賀大学経済学部電子計算機論
(コンピュータ白書 1970, p.309)
上記の大学・短期大学・高等専門学校のリストは「情報処理教育振興に関する当面の施策」に掲載されているものと思い込んでいましたが、コンピュータ白書では明示的にそうは書かれていません。実際に確認してみます。
「情報処理教育振興に関する当面の施策」(中間報告)は下記に採録されています。
「学術月報」22巻7号、日本学術振興会 編、1969、p.62-65
「産業教育」19巻10号、文部省職業教育課 編、海文堂出版、1969、 p39-45
「産業教育」は国会図書館内で電子版を閲覧可能です。デジタル化資料送信サービスを使えば最寄りの図書館でも閲覧可能ですので「産業教育」に採録されたほうを閲覧しましたが、本リストは掲載されていませんでした。デジタル化されていない「学術月報」の冊子のほうに附表が存在する可能性はありますが、別の資料かもしれません。なお国立国会図書館で電子的に検索できる範囲では、リスト内の学科名を含む適切な資料が見当たりませんでした。
「情報処理教育振興に関する当面の施策」と設立学科のリストとの関係を考えるため、先の発言をもう一度読み直してみます。
それに基づきまして、実はそれ以前からも、関係の学科なりあるいは研究施設をつくってまいってきたところでありますけれども、四十五年度におきましては、特に国立学校関係の重点施策に取り上げまして、研究施設を三つ、それから大学の学科を五つ、それから短期大学の学科を一つ、それから高等専門学校の学科を二つつくりまして、研究の推進並びに必要な人材の育成ということにつとめてまいっております。
「それに基づきまして」とあるため、「情報処理教育振興に関する当面の施策」が設立学科のリストと関連づけられていることは明らかです。ただし「実はそれ以前からも」と付け加えられていることから、情報系の学科設立については前々から行っており、今回の施策はそうした活動と合わせて考えるべきものであることも判ります。つまり、このリストは当面の施策に基づいてぽんと出てきたわけではなく、前々からの協議があって結実したものではないでしょうか。
ここでひとつ明らかなのは、そもそもこの調査のきっかけであった東京大学が上のリストに含まれていないことです。 1970年に東京大学で設立された理学部附属情報科学研究施設は理学部情報科学科(1975年設立)の前身組織です。が、確かにこの組織は新学科ではなく付属施設であるため性質が異なるようです。
当時の資料を当たっているうち、なかでも「コンピュータ白書 1970」を読むにつけ、1969年から1970年というのは民間での情報処理に対するニーズの高まりを受けて官が一気に動き出した時期のようでした。大学での情報処理の研究は学科名にそれを冠する前からありましたし、1970年には私立の金沢工業大学でも情報処理工学科が設立されています。情報処理教育を推進する全国的な動きのなかで、東京大学も当然独自の取り組みを進めていたのだろうと思います。
国会図書館で検索するなか、気になる資料目次も存在しました。「家庭科教育」の第42巻14号(1968年12月)に「京大に初の『情報工学科』」という目次が存在します。まだ内容は確認していませんが、1968年末の時点でそうした議論があったことは自然に思えます。(なお、京都大学に関する細かいところでは、1970年に実際に設立された学科の正式名称は「京都大学工学部情報工学教室」です。1995年の改組まで続くこの名称について情報工学科と呼ばれるケースも見られますが、両者の使い分けはよく判りませんでした。ここでは本稿で取り扱う資料内にみられる「情報工学科」のほうにいったん統一させていただきます。)
電気通信大学では電子計算機学科の設立が次のように紹介されています。
昭和40年過ぎとなると、いわゆる情報化社会への発展が加速され情報処理技術者の需要の激増に対する国家的な施策が要望されるようになった。電気通信大学においても、故雨宮綾夫教授や関英男教授(現東海大学教授)を中心として、このような社会的な要求に応じて専門的な情報処理に関する研究教育を実行する新学科の設置計画が立てられ、1969年(昭和44年)夏に、電子計算機学科の新設を概算要求として文部省に要求することになった。
情報処理に対する当時のニーズと照らし合わせば、当面の施策以前にそもそも大学側からも新学科が計画され、要望が出されていました。最終的な要望の時期としては1969年夏ですので7月の「当面の施策」と重なっています。
こうした大学と文部省「情報処理教育振興に関する当面の施策」との関係も見ておきましょう。本書によるとこれは文部省大学学術局に設けられた「情報処理教育に関する会議」による中間報告で、会議を構成する委員が、一橋大学、慶應義塾大学、東京工業大学、東北大学、九州大学、広島大学、京都大学、明治大学、東京大学、大阪大学、成蹊大学、東洋大学、青山学院、埼玉大学の各大学から、情報処理学会、日本情報処理開発センター、統計数理研究所、日本経営情報開発協会の各組織から出されていたと判ります。委員のうち少なくとも坂井利之先生は京都大学工学部情報工学科の創立メンバーですので、おそらくこの会議は各大学で情報系の学科の設立を検討していた先生方が集まる場になっていたのではないか、と想像できます。
上記「コンピュータ白書 1970」を発行した日本経営情報開発協会も会議の委員として参加していますので、この当面の施策に対しては当事者として関わっていたことが判ります。リストについては会議のなかで話されたことを当事者として知った上で掲載したものであって、報告書(当面の施策)には含まれないものの会議の議事録としては存在するのかも知れません。
学術界と政府という視点でもう少し補足すると、1965年に日本学術会議が「科学研究計画第1次5ケ年計画」と「情報科学に関する研究機関の設立について」を政府へ提言したことが知られています。
ここでは情報科学を、自然科学、人文・社会科学の広い視野から捉え、個別小規模に研究されている現状に対して大学の研究所を複数設け、推進すべきことが具体的な予算計画とともに述べられています。政府はこの提言を採りませんでしたが、1969年ごろには産業界からの突き上げをうけてようやく重い腰を上げたというのが実情だったのでは、と感じられます。
調査のほうは以上となります。1970年の新学科設立について産業的・政治的な経緯は「コンピュータ白書 1970」に譲り、「情報産業論」そして「情報化社会」と命名された世相、そのほか学術的な経緯も大きく関係すると思いますが、ここでは公文書の存在についてのみ多少は触れることができたものと思います。
ちなみに大元の話題は何だったかというと、こうして1970年に設立された情報系の学科を「工学部」と「理学部」のどちらの所属とするかは大学によって考えが異なっていたということでした。同じ「情報」を持つ名称でも所属は東工大(と東大)が理学部、京大と阪大が工学部となっています。およそ日本では科学と技術を結びつけて扱う傾向があったため、理と工のどちらと決めつけなかったことは背景の一つだったでしょう。とくに「情報」という観点からは、上記「当面の施策」においても特に情報処理という学際的な広がりのある分野の教育が強く意識されていました。ここでは「情報科学が自然科学、人文科学、社会科学のきわめて広い領域にまたがり、かつ、諸科学の開発の起動力となるばかりでなく、政治、経済、産業、文化等の実際生活の向上にきわめて大きな貢献をなす一方、情報処理技術者養成の基礎をなす学問体系の確立を目ざすもの」と認識され、「この専攻課程の学部学科との結びつきは従来より弾力的に考える必要があり、多くの学部学科と結合する方式をも推進すべきである」「情報処理に関する学問および技術の基盤を強化し、底辺をひろげるために、応用数学、電子工学、経営工学、図書館学、行動科学等情報処理にとくに関連の深い学科を整備充実する必要がある」とされています。こうしたことは、情報と科学と工学の結びつきを考える上でも一証左となるものですが、そのお話はまたどこかで。
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追加予定
大学紛争の影響で1970年になった面もある、と京大の資料からわかる。
2022年2月14日 sosuisen