衆道の歴史
「衆道(しゅうどう)」は、日本の中世から江戸時代にかけて武士や僧侶の間で広く見られた同性愛の文化を指す言葉です。衆道は、師弟関係や忠誠心、精神的な結びつきを重んじるもので、教育や儀礼的な価値も含まれていました。以下に、衆道の歴史とその特徴を解説します。
### 1. **衆道の起源と仏教との関係**
衆道の起源は、古代の仏教の影響が大きいとされています。日本に仏教が伝わった飛鳥時代以降、僧侶の間での師弟関係に基づく親密な関係が衆道の原型として存在していました。中世になると、仏教寺院内で年長の僧と若い弟子が特別な関係を結ぶことが一般的となり、これが武士社会にも影響を与えます。僧侶と弟子の間で築かれる忠誠と教育の関係が、後に武士社会での衆道の基礎となっていきます。
### 2. **武士階級での普及(鎌倉・室町時代)**
鎌倉時代に入ると、武士の間で衆道が普及し始めます。武士の世界では、忠誠や自己犠牲の精神が重視されていたため、年長の武士と若い弟子や従者との間に結ばれる衆道の関係は、戦場での結束や信頼関係を高める役割を果たしました。室町時代になると、武家社会全体で衆道が広まり、武将と小姓(若年の家臣)との間に親密な関係が築かれることが一般的になります。
### 3. **戦国時代の衆道**
戦国時代には、衆道は武士階級の文化としてさらに根付いていきます。衆道は、単なる性愛ではなく、若い家臣を育成し、戦での勇敢さを奨励する手段とされました。著名な戦国武将たちも衆道の関係を結んでいたとされ、織田信長と森蘭丸、武田信玄と高坂昌信、上杉謙信と直江兼続などが有名です。こうした関係は武士としての理想像の一部とされ、同性愛的な要素があっても、それが否定的に見られることはありませんでした。
### 4. **江戸時代と「男色」**
江戸時代に入ると、武士階級にとどまらず、商人や町人の間でも衆道が「男色」として広く行われるようになります。この時代になると、同性愛文化は浮世絵や歌舞伎にも影響を与え、男色文化が町人や一般庶民にも浸透しました。特に歌舞伎役者(女形)や美少年役者が男性の客層に人気となり、衆道がより娯楽的な側面を持つようになりました。また、「色道」としての衆道も発展し、男性同士の関係が一種の美徳や遊びとして楽しまれる傾向が強まりました。
### 5. **衰退と明治時代以降**
明治維新以降、西洋の影響を受けた新しい価値観が導入され、同性愛に対する見方も変化します。明治政府は、西洋の道徳観念に基づいて家族制度の強化や異性愛に基づく社会制度を整備し、衆道文化は次第に衰退していきました。明治時代以降、同性愛は公には認められなくなり、かつてのような文化としての衆道は姿を消しました。
### 6. **衆道の文化的意義と評価**
衆道は、当時の日本社会において単なる性的な関係だけでなく、精神的な絆や忠誠、教育の一環として大きな意味を持っていました。特に武士の世界では、衆道は家族や同志との結びつきを深め、戦での勇敢さや自己犠牲の精神を育む手段とされました。現代の視点で同性愛と一概に結びつけられるものではなく、当時の社会や文化に深く根差した独自の価値観が反映されています。
### まとめ
衆道は、日本の中世から江戸時代にかけて、武士や僧侶の間で広く受け入れられた文化的な同性愛の一形態です。戦国時代には武士の忠誠心を深める役割を果たし、江戸時代には町人や娯楽の世界にまで広がりましたが、明治維新以降、西洋化の影響で次第に廃れていきました。