スッタニパータ
八回にわたって誦える分量ある聖典のスッタニパータ終る(スッタニパータ)
もしもこれらの質問の一つ一つの意義を知り、理法を知り、理法にしたがって実践したならば、老衰と死との彼岸に達するであろう。これらの教えは彼岸に達せしめるものであるから、それ故にこの法門は「彼岸に至る道」と名づけられている(スッタニパータ)
師(ブッダ)はマガダ国の霊地にとどまっておられた時、以上のことを説かれ、門弟である十六人のバラモンに請われ問われる度ごとに、質問に対して解答を述べた(スッタニパータ)
1146 ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。ピンギヤよ(スッタニパータ)
1123 人々は妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのをそなたは見ているのだから、それ故にピンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存に戻らないようにせよ(スッタニパータ)
1121 物質的な形態があるが故に、人々が害われるのを見るし、物質的な形態があるが故に、怠る人々は悩まされる。ピンギヤよ、それ故に、そなたは怠ることなく物質的形態を捨てて、再び生存状態に戻らないようにせよ(スッタニパータ)
1119 つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は見ることがない(スッタニパータ)
1115 無所有の成立するもとを知って、即ち「歓喜は束縛である」ということを知って、それをこの通りであると知って、それから出てそれについて静かに観ずる。安立したバラモンには、この<ありのままに知る智>が存する(スッタニパータ)
1109 世人は歓喜に束縛されている。思惑が世人をあれこれ行動させるものである。妄執を断ずることによって安らぎがあると言われる(スッタニパータ)
1106,1107 愛欲と憂いとの両者を捨て去ること、沈んだ気持ちを除くこと、悔恨をやめること、平静な心構えと想いの清らかさ(それらは真理に関する思索にもとづいて起るのであるが)、これが無明を破ること・正しい理解による解脱、である(スッタニパータ)
1099 過去にあったもの(煩悩)を枯渇せしめよ。未来にはそなたに何ものもないようにせよ。中間においても、そなたが何ものにも執着しないならば、そなたは安らかにふるまう人となるであろう(スッタニパータ)
1098 諸々の欲望に対する貪りを制せよ。出離を安穏であると見て。取り上げるべきものも、捨て去るべきものも、何ものも、そなたにとって存在してはならない(スッタニパータ)
1078 世の中で真理に達した人たちは、哲学的見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者だとは言わない。煩悩の魔軍を撃破して、苦悩なく、望むことなく行う人々、彼らこそ聖者である(スッタニパータ)
1076 滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。彼をああだこうだと論ずるよすがが彼には存在しない。あらゆる事柄がすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである(スッタニパータ)
1074 例えば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって(生存する者としては)数えられないのである(スッタニパータ)
1070 よく気をつけて、無所有をめざしつつ「何も存在しない」と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ(スッタニパータ)
1066 ドータカよ、上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それは世の中における執着の対象であると知って、移り変わる生存への妄執を抱いてはならない(スッタニパータ)
1064 私は世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう(スッタニパータ)
1062 ドータカよ、では、この世において賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。この私の口から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ(スッタニパータ)
1056 このようにしていて、よく気をつけ、怠ることなく行う修行者は、我がものと見なして固執したものを捨て、生や老衰や憂いや悲しみをも捨てて、この世で智者となって苦しみを捨てるであろう(スッタニパータ)
1055 上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな(スッタニパータ)
1050,1051 世の中にある種々様々な苦しみは、執着を縁として生起する。実に知ることなくして執着をつくる人は愚純であり、繰り返し苦しみに近づく。だから知ることであり、苦しみの生起のもとを観じた人は再生の素因(執着)をつくってはならない(スッタニパータ)
1037 識別作用が止滅することによって、名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる(スッタニパータ)
1035 世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。気をつけることが煩悩の流れを防ぎ守るのである。その流れは智慧によって塞がれるであろう(スッタニパータ)
1033 世間は無明によって覆われている。世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲心が世間の汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖である(スッタニパータ)
975 修行者はよく気をつけて、心もすっかり解脱して、これらのものに対する欲望を抑制せよ。適当な時に理法を正しく考察し、心を統一して、暗黒を滅ぼせ(スッタニパータ)
974 世間には五つの塵垢がある。よく気をつけてそれらを制するためにつとめよ。すなわち、色かたちと、音声と、味と、香りと、触れられるものに対する貪欲を抑制せよ(スッタニパータ)
973 他人からことばで警告されたときには、心を落ち着けて感謝せよ。ともに修行する人々に対する荒んだ心を断て。善いことばを発せよ。その時にふさわしくないことばを発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ(スッタニパータ)
969 智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難にうち勝て。奥まった土地に臥する不快に耐えよ(スッタニパータ)
968 怒りと高慢とに支配されるな。それらの根を掘りつくしておれ。また快いものも不快なものも、両者にしっかりとうち克つべきである(スッタニパータ)
967 盗みを行ってはならぬ。虚言を語ってはならぬ。弱いものでもあらゆる生き物に慈しみをもって接せよ。心の乱れを感ずるときには「悪魔の仲間」であると思ってこれを除き去れ(スッタニパータ)
965 善を追求して、他の諸々の危難にうち勝て(スッタニパータ)
954 聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。彼は安らいに帰し、物惜しみを離れ、取ることもなく、捨てることもない(スッタニパータ)
953 苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対して平等である(スッタニパータ)
951 「これはわがものである」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、彼はこのような<わがものという観念>が存しないから「われになし」といって悲しむことがない(スッタニパータ)
949 過去にあったもの(煩悩)を枯渇せしめよ。未来には汝に何ものも有らぬようにせよ。中間においても汝が何ものをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう(スッタニパータ)
944 古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引する者(妄執)にとらわれてはならない(スッタニパータ)
942 安らぎを心がける人は、眠りと、ものぐさと、塞ぎこむ心とに打ち勝て。怠惰を宿らせてはならぬ。高慢な態度をとるな(スッタニパータ)
941 聖者は誠実であれ。傲慢でなく、偽りなく、悪口を言わず、怒ることなく、邪な貪りと物惜しみとを超えよ(スッタニパータ)
940 世間における諸々の束縛の絆にほだされてはならない。諸々の欲望を究めつくして、自己の安らぎを学べ(スッタニパータ)
937 世界はどこも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。私は自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに死や苦しみなどに取り付かれていない所を見つけなかった(スッタニパータ)
935 殺そうと争闘する人々を見よ。武器をとって打とうとしたことから恐怖が生じたのである(スッタニパータ)
934 彼はみずから勝ち、他にうち勝たれることがない。他人から伝え聞いたのではなくて、みずから証する理法を見た。それ故にブッダの教えに従って、怠ることなく、つねに礼拝して、従い学べ(スッタニパータ)
931 虚言をなすことなかれ。知りながら偽りをしないようにせよ。また生活に関しても、知識に関しても、戒律や道徳に関しても、自分が他人よりすぐれていると思ってはならない(スッタニパータ)
928 修行者は非難されてもくよくよしてはならない。称讃されても高ぶってはならない。貪欲と物惜しみと怒りと悪口とを除き去れ(スッタニパータ)
925 こころを安定させよ。うろついてはならない。あとで後悔するようなことをやめよ。怠けてはならぬ(スッタニパータ)
920 海洋の奥深いところでは波が起こらないで静止しているように、静止して不動であれ(スッタニパータ)
919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない(スッタニパータ)
917 内的にでも外的にでも、いかなる事柄をも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人は説かないからである(スッタニパータ)
916 「われは考えて、有る」という「迷わせる不当な思惟」の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ(スッタニパータ)
914 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対することがない。彼は負担を離れて解放されている。彼ははからいをなすことなく、快楽に耽ることなく、求めることもない(スッタニパータ)
913 過去の汚れを捨てて新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執着して論ずることもない。賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく、自分を責めることもない(スッタニパータ)
912 聖者はこの世で諸々の束縛を捨て去って、論争が起こったときにも党派にくみすることがない。彼は不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない(スッタニパータ)
910 我は知る、我は見る、ということに執着して論ずる人は、自ら構えた偏見を尊重しているので彼を導くことは容易ではない。自分の依拠する事柄のみ適正であると説き、その事柄にのみ清浄を認める論者は、そのように一方的に見たのである(スッタニパータ)
907 真のバラモンは他人に導かれるということがない。また諸々の事柄について断定をして固執することもない。それ故に諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである(スッタニパータ)
905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである(スッタニパータ)
900 一切の戒律や誓いをも捨て、世間の罪過あり或いは罪過なきこの行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とか言って願い求めることもなく、それらにとらわれずに行え。安らぎを固執することもなく(スッタニパータ)
896 論争の結果は称賛と非難との二つだけである、と私は説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない(スッタニパータ)
892 ここにのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執着し、かの自分の道を堅くたもって論ずる(スッタニパータ)
888 反対者を<愚者>であると見なすとともに自己を<真理に達した人>であるという。彼はみずから自分を<真理に達した人>であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る(スッタニパータ)
886 世の中には多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。彼らは諸々の偏見にもとづいて思索研究を行って「わが説は真理である」「他人の説は虚妄である」と二つのことを説いてるのである(スッタニパータ)
884 真理は一つであって第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない。彼らはめいめい異なった真理を褒めたたえている。それ故に諸々の<道の人>は同一の事を語らないのである(スッタニパータ)
882 諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、私は「これは真実である」とは説かない。彼らは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故に彼らは他人を「愚者」であると決めつけるのである(スッタニパータ)
874 ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は想いにもとづいて起るからである(スッタニパータ)
872 名称と形態とに依って、感官による接触が起る。諸々の所有欲は、欲求を縁として起る。欲求がないときには<わがもの>という我執も存在しない。形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない(スッタニパータ)
870 快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときにはこれらのものは起らない。生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、我は汝に告げる(スッタニパータ)
867 世の中で<快>と<不快>と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は外的な事物にとらわれた断定を下す(スッタニパータ)
865 世の中で愛し好むもの、および世の中にはこびる貪りは、欲望にもとづいて起る(スッタニパータ)
863 争闘と争論と悲しみと憂いと物惜しみと慢心と傲慢と悪口とは、愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは物惜しみに伴い、争論が生じたときに、悪口が起る(スッタニパータ)
861 彼は世間において<わがもの>という所有がない。また無所有を嘆くこともない。彼は欲望に促されて諸々の事物に赴くこともない。彼は実に<平安なる者>と呼ばれる(スッタニパータ)
860 聖者は貪りを離れ、物惜しみすることなく「自分は優れた者である」とも「自分は等しい者である」とも「自分は劣った者である」とも論ずることがない。彼は分別を受けることのない者であって、妄想分別に赴かない(スッタニパータ)
856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。彼には生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない(スッタニパータ)
855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において他人を自分と等しいとは思わない。また自分が優れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。彼には煩悩の燃え盛ることがない(スッタニパータ)
852,853 貪欲などから遠ざかり、偽ることなく、貪り求めることなく、物惜しみせず、傲慢にならず、嫌われず、陰口を事としない。快いものに耽溺せず、高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、信ずることなく、何かを嫌うこともない(スッタニパータ)
851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂えることもない。現在感官で触れる諸々の対象について遠ざかり、離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない(スッタニパータ)
850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎む(スッタニパータ)
847 想いを離れた人には結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら世の中をうろつく(スッタニパータ)
846 ヴェーダの達人は、見解についても思想についても慢心に至ることがない。彼は宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。彼は執着の巣窟に導き入れられることがない(スッタニパータ)
842 「等しい」とか「優れている」とか或いは「劣っている」とか考える人、彼はその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、彼には「等しい」とか「優れている」とか或いは「劣っている」とかいう思いは存在しない(スッタニパータ)
841 マーガンディヤよ、あなたは自分の教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執着した事柄について迷妄に陥ったのです。あなたはこの内心の平安について微かな想いさえも抱いていない。だからあなたは「ばかばかしい」と見なすのです(スッタニパータ)
839 (続き)それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。これが内心の平安である(スッタニパータ)
837 マーガンディヤよ、「私はこのことを説く」ということが私にはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における過誤を見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎを私は見た(スッタニパータ)
832 偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝は彼らに言え。「論争が起っても、汝と対論する者はここにはいない」と(スッタニパータ)
830 心の高ぶりというものは、彼の損なわれる場所である。しかるに彼は慢心・増上慢心の言をなす。このことわりを見て論争してはならない(スッタニパータ)
828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称讃を得ること意外にはほかに何の役にも立たないからである(スッタニパータ)
826 集会の中で論争に参加した者は、称讃されようと欲しておずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、論敵のあら探しをしているのに、他人から論破されると怒る(スッタニパータ)
825 彼らは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を愚者であると烙印し、他人をかさに着て、論争を交わす。自ら真理に達した者であると称しながら、自分が称讃されるようにと望んで(スッタニパータ)
824 彼らは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別の真理に固執している(スッタニパータ)
822 俗事から離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。しかしこれだけで「自分が最上の者だ」と考えてはならない(スッタニパータ)
820 独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも婬欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む(スッタニパータ)
812 たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない(スッタニパータ)
811 聖者は何ものにも滞ることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも物惜しみも彼を汚すことがない。例えば蓮の葉の上の水が汚されないようなものである(スッタニパータ)
808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである(スッタニパータ)
807 夢の中で会った人でも、目が覚めたならばもはや彼を見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない(スッタニパータ)
805 人々は「我がものである」と執着したもののために悲しむ。自己の所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て在家にとどまっていてはならない(スッタニパータ)
801 諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住まいは、彼には何も存在しない(スッタニパータ)
799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「優れている」とか考えてはならない(スッタニパータ)
798 人が何かあるものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と真理に達した人は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない(スッタニパータ)
796 世間では人は諸々の見解のうちで優れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないもの」であると説く。それ故に、彼は諸々の論争を超えることがない(スッタニパータ)
794 彼らははからいをなすことなく、何ものかを特に重んずることなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執着のきずなを捨て去って、世間の何ものについても願望を起すことがない(スッタニパータ)
792 みずから誓戒をたもつ人は、想いに耽って種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、真理を理解して種々雑多なことをしようとしない(スッタニパータ)
791 前の師などを捨てて後の師などに頼り、煩悩の動揺に従っている人々は執着を乗り超えることがない。彼らはとらえてはまた捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである(スッタニパータ)
785 諸々の事物に関する固執はこれこれのものである、と確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは容易ではない。故に人はそれらの偏執の住まいのうちにあって、ものごとを斥け、またこれを執る(スッタニパータ)
784 汚れた見解をあらかじめ設け、つくりなし、偏重して、自分のうちにのみ優れた実りがあると見る人は、揺らぐものに頼る平安に執着しているのである(スッタニパータ)
782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向って、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、彼は「下劣な人」である、と真理に達した人々は語る(スッタニパータ)
781 欲に惹かれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。彼は自ら完全であると思いなしている。彼は知るにまかせて語るであろう(スッタニパータ)
780 実に悪意をもって他人を誹る人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って他人を誹る人々もいる。誹る言葉が起っても聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとについても心の荒むことがない(スッタニパータ)
779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執着に汚されることなく、煩悩の矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない(スッタニパータ)
777 何ものかを我がものであると執着して動揺している人々を見よ。彼らは干からびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである(スッタニパータ)
773 欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は解脱しがたい。他人が解脱させてくれるのではないからである。かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これら目の前の欲望、または過去の欲望を貪る(スッタニパータ)
771 人は常によく気をつけていて諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ(スッタニパータ)
768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世でこの執着をのりこえる(スッタニパータ)
767 欲望を叶えたいと望み、貪欲の生じた人が、もしも欲望を果たすことができなくなるならば、彼は矢に射られたかのように、悩み苦しむ(スッタニパータ)
764 生存の貪欲にとらわれ、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい(スッタニパータ)
762 他の人が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無智なる人々はここに迷っている(スッタニパータ)
758 安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。彼らは実に真理をさとるが故に、快を貪ることなく平安に帰しているのである(スッタニパータ)
757 或るものを、ああだろうこうだろうと考えても、そのものはそれと異なったものとなる。何となれば、その考えは虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なのであるから(スッタニパータ)
756 見よ、神々ならびに世人は、非我なるものを我を思いなし、名称と形態に執着している。「これこそ真理である」と考えている(スッタニパータ)
753 「諸々の従属の中に大きな危険がある」と、この禍いを知って、修行僧は従属することなく、執着することなく、よく気をつけて、遍歴すべきである(スッタニパータ)
752 従属することない人はたじろがない。しかし従属することのある人は、この状態からあの状態へと執着していて、輪廻を超えることがない(スッタニパータ)
751 「苦しみは動揺の縁から起る」と、この禍いを知って、それ故に修行僧は妄執の動揺を捨て去って、諸々の潜在的形成力を制止して、無動揺・無執着で、よく気をつけて、遍歴すべきである(スッタニパータ)
743 それ故に諸々の賢者は、執着が消滅するが故に、正しく知って、生まれの消滅したことを熟知して、再び迷いの生存に戻ることがない(スッタニパータ)
742 執着によって生存が起る。生存せる者は苦しみを受ける。生まれた者は死ぬ。これが苦しみの起る原因である(スッタニパータ)
741 妄執は苦しみの起る原因である、とこの禍いを知って、妄執を離れて、執着することなく、よく気をつけて、修行僧は遍歴すべきである(スッタニパータ)
738,739 楽であろうと、苦であろうと、非苦非楽であろうとも、内的にも外的にも、およそ感受されたものはすべて「これは苦しみである」と知って、滅び去るものである虚妄の事物に触れるたびごとに、衰滅することを認め、このようにしてそれらの本性を識知する(スッタニパータ)
734 およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用に縁って起るのである。識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということはありえない(スッタニパータ)
731 およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力を縁として起るのである。諸々の潜在的形成力が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない(スッタニパータ)
728 世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとづいて生起する。それ故に、知り明らめて苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな(スッタニパータ)
726,727 苦しみを知り、苦しみの生起するもとを知り、苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、苦しみの消滅に達する道を知った人々、彼らは心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する(スッタニパータ)
721 欠けている足りないものは音を立てるが、満ち足りたものはまったく静かである。愚者は半ば水を盛った水瓶のようであり、賢者は水の満ちた湖のようである(スッタニパータ)
717 心が沈んでしまってはいけない。またやたらに多くのことを考えてはいけない。なまぐさい臭気なく、こだわることなく、清らかな行いを究極の理想とせよ(スッタニパータ)
712 「得たものはよかった」「得なかったのもまたよかった」と思って、全き人はいずれの場合にも平然として還ってくる(スッタニパータ)
709 思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、樹の根元で瞑想し、大いにみずから満足すべきである(スッタニパータ)
705 「彼らも私と同様であり、私も彼らと同様である」と思って、我が身に引きくらべて、生き物を殺してはならぬ。また他人をして殺させてはならぬ(スッタニパータ)
704 淫欲のことがらを離れ、様々の愛欲を捨てて、弱いものでも、強いものでも、諸々の生き物に対して、敵対することもなく、愛執することもない(スッタニパータ)
702 罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。罵られても心に怒らないように注意し、敬礼されても冷静に高ぶらずにふるまえ(スッタニパータ)
701 しっかりとして、堅固であれ(スッタニパータ)
676 罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は実に悲惨である。だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなして、ゆるがせにしてはならない(スッタニパータ)
666 けだし何者の業も滅びることはない。それは必ずもどってきて、業をつくった主がそれを受ける(スッタニパータ)
663 種々なる貪欲に耽る者は、ことばで他人をそしる。彼自身は信仰心なく、物惜しみして、不親切で、けちで、やたらに陰口を言うのだが(スッタニパータ)
662 害心なく清らかで罪汚れのない人を憎むかの愚者には、必ず悪い報いが戻ってくる。風に逆らって微細な塵を撒き散らすようなものである(スッタニパータ)
657 人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである(スッタニパータ)
655 熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、これによってバラモンとなる。これが最上のバラモンの境地である(スッタニパータ)
654 世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生けるものは業(行為)に束縛されている(スッタニパータ)
653 賢者はこのように行為をあるがままに見る。かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している(スッタニパータ)
652 行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。行為によって司祭者となり、行為によって王ともなる(スッタニパータ)
651 行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。行為によって商人となるのである。行為によって雇い人となるのである(スッタニパータ)
650 生まれによってバラモンとなるのではない。生まれによってバラモンならざる者となるのでもない。行為によってバラモンなのである。行為によってバラモンならざる者なのである(スッタニパータ)
648 世の中で名とし姓として付けられているものは、名称にすぎない。人の生まれたその時その時に付けられて、約束の取り決めによって仮に設けられて伝えられているのである(スッタニパータ)
637 曇のない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、彼を私は<バラモン>と呼ぶ(スッタニパータ)
632 粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し、ことばによって何人の感情をも害することのない人、彼を私は<バラモン>と呼ぶ(スッタニパータ)
630 敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執着する者どもの間にあって執着しない人、彼を私は<バラモン>と呼ぶ(スッタニパータ)
621 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、彼を私は<バラモン>と呼ぶ(スッタニパータ)
611 身に受けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ(スッタニパータ)
593 煩悩の矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して悲しみなき者となり、安らぎに帰する(スッタニパータ)
592 己が悲嘆と愛執と憂いとを除け。己が楽しみを求める人は、己が煩悩の矢を抜くべし(スッタニパータ)
587 見よ、他の生きている人々は、また自分のつくった業にしたがって死んで行く。彼ら生あるものどもは死に捕らわれて、この世で慄えおののいている(スッタニパータ)
586 人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ(スッタニパータ)
585 自ら自己を損ないながら、身は痩せて醜くなる。そうしたからとて死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である(スッタニパータ)
584 泣き悲しんでは心の安らぎは得られない。ただ彼にはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである(スッタニパータ)
582 汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は生と死の両極を見きわめないで、いたずらに泣き悲しむ(スッタニパータ)
580 見よ。見守っている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる(スッタニパータ)
578 若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る(スッタニパータ)
575 生まれたものどもは、死を逃れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである(スッタニパータ)
574 この世における人々の命は、定まったすがたなく、どれだけ生きられるかわからない。いたましく、短くて、苦悩をともなっている(スッタニパータ)
567 セーラよ、清らかな行いがみごとに説かれている。それは目のあたり、即時に果報をもたらす。怠ることなく道を学ぶ人が、出家して清らかな行いを修めるのは空しくはない(スッタニパータ)
530 内的には差別的妄想とそれにもとづく名称と形態とを究め知って、また外的には病の根源を究め知って、一切の病の根源である束縛から逃れている人、そのような人がまさにその故に<知りつくした人>と呼ばれるのである(スッタニパータ)
520 安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世を知り、生と死とを超越した人、このような人がまさにその故に<道の人>と呼ばれる(スッタニパータ)
519 一切の悪を斥け、汚れなく、よく心を鎮めたもって、自ら安立し、輪廻を超えて完全な者となり、こだわることのない人、このような人は<バラモン>と呼ばれる(スッタニパータ)
515 あらゆる事柄に対して平静であり、心を落ち着け、全世界のうちで何ものをも害うことなく、流れをわたり、濁りなく、情欲の高まり増すことのない<道の人>、かれは<温和な人>である(スッタニパータ)
507 かれは貪欲を離れ、憎悪を制し、無量の慈しみの心を起こして、日夜つねに怠らず、無量の慈しみの心をあらゆる方角にみなぎらせる(スッタニパータ)
506 マーガよ、祀りを行え。祀り実行者はあらゆる場合に心を清らかしめよ。祀り実行者の専心することは祀りである。かれはここに安立して邪悪を捨てる(スッタニパータ)
502 「これは私の最後の生存であり、もはや再び生を享けることはない」ということを、この世で如実に知っている人々がいる。そのような人々にこそ適当な時に供物を捧げよ(スッタニパータ)
501 自己をよりどころとして世間を歩み、無一物で、あらゆることに関して解脱している人々がいる。そのような人々にこそ適当な時に供物を捧げよ(スッタニパータ)
495 実に諸々の愛執に耽らず、すでに激流をわたり終わって、わがものという執着なしに歩む人々がいる。そのような人々にこそ適当な時に供物を捧げよ(スッタニパータ)
493 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨てて、煩悩の汚れを滅しつくし、清らかな行いを修めている人々がいる。そのような人々にこそ適当な時に供物を捧げよ(スッタニパータ)
477 自己によって自己を観じて、それを認めることなく、心がひとしく静まり、身体が真っ直ぐで、自ら安立し、動揺することなく、心の荒みなく、疑惑のない全き人は、お供えの供物を受けるにふさわしい(スッタニパータ)
462 生まれを問うことなかれ。行いを問え。火は実にあらゆる薪から生ずる。賤しい家に生まれた人でも聖者として道心堅固であり、慎むならば、高貴の人となる(スッタニパータ)
456 私は家なく、重衣を着け、髭髪を剃り、心を安らかならしめて、この世で人々に汚されることなく、歩んでいる。バラモンよ、あなたが私に姓を尋ねるのは適当ではない(スッタニパータ)
455 私はバラモンではないし、王族の者でもない。私は庶民の者でもないし、また他の何ものでもない。諸々の凡夫の姓を知り尽くして、無一物で、熟慮して、世の中を歩む(スッタニパータ)
452 好ましいことばのみを語れ。そのことばは人々に歓び迎えられることばである。感じの悪いことばを避けて、他人の気に入ることばのみを語るのである(スッタニパータ)
451 自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ。これこそが実に善く説かれたことばなのである(スッタニパータ)
450 最上の善いことばを語れ。これが第一である。正しい理を語れ。理に反することを語るな。これが第二である。好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である(スッタニパータ)
442 軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、私は立ち迎えて彼らと戦おう。私をこの場所から退けることなかれ(スッタニパータ)
440 この私が敵に降参してしまうだろうか?この場合、命はどうでもよい。私は、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬほうがましだ(スッタニパータ)
439 ナムチよ、これらは汝の軍勢である。黒き魔の攻勢軍である。勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。勇者はうち勝って楽しみを得る(スッタニパータ)
437,438 汝の第五の軍隊は物憂さ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊は見せかけと強情と誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己を褒めたたえて他人を軽蔑することである(スッタニパータ)
436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる(スッタニパータ)
435 私はこのように安住し、最大の苦痛を受けているのであるから、わが心は諸々の欲望にひかれることがない。見よ、心身の清らかなことを(スッタニパータ)
432 私には信念があり、努力があり、また智慧がある。このように専心している私に、汝はどうして生命をたもつことを尋ねるのか?(スッタニパータ)
431 悪しき者よ、汝は世間の善業を求めてここに来たのだが、私にはその善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るががよい(スッタニパータ)
424 諸々の欲望には患いのあることを見て、また出離こそ安穏であると見て、つとめはげむために進みましょう。私の心はこれを楽しんでいるのです(スッタニパータ)
399 禍いの起るもとを回避せよ(スッタニパータ)
397 会堂にいても団体のうちにいても、何びとも他人に向かって偽りを言ってはならぬ。また他人をして偽りを言わせてもならぬ。また他人が偽りを語るのを容認してはならぬ。すべて虚偽を語ることを避けよ(スッタニパータ)
390 実に或る人々は誹謗の言葉に反発する。彼ら浅はかな小賢しい人々を我らは称賛しない。論争の執着があちこちから生じて彼らを束縛し、彼らはそこでおのが心を遠くへ放ってしまう(スッタニパータ)
388 自己を制して、内に顧みて思い、心を外に放ってはならぬ(スッタニパータ)
370 煩悩の汚れはすでに尽き、高慢を断ち、あらゆる貪りの路を超え、自ら制し、安らぎに帰し、心が安立しているならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう(スッタニパータ)
365 言葉によっても、心によっても、行為によっても、逆らうことなく、正しく理法を知って、ニルヴァーナの境地を求めるならば彼は正しく世の中を遍歴するであろう(スッタニパータ)
364 彼が生存を構成する要素のうちに堅固な実体を見出さず、諸々の執着されるものに対する貪欲を慎み、こだわることなく他人に惹かれないならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう(スッタニパータ)
355 彼はこの世において、名称と形態とに関する妄執を断ち切った(スッタニパータ)
342 無相のおもいを修せよ。心に潜む傲慢を捨てよ。そうすれば汝は傲慢を滅ぼして、心静またものとして日を送るであろう(スッタニパータ)
341 愛欲があれば汚いものでも清らかに見える。その美麗な外形を避けよ。身は不浄であると心に観じて、心を静かに統一せよ(スッタニパータ)
334 怠りは塵垢である。怠りに従って塵垢がつもる。つとめはげむことによって、また明知によって、自分に刺さった矢を抜け(スッタニパータ)
333 神々も人間も、ものを欲しがり執着に囚われている。この執着を超えよ。わずかの時をも空しく過ごすことなかれ(スッタニパータ)
332 起てよ、坐れ。平安を得るためにひたすらに修行せよ。汝らが怠惰でありその力に服したことを死王が知って、汝らを迷わしめることなかれ(スッタニパータ)
331 起てよ、坐れ。眠って汝らになんの益があろう。矢に射られて苦しみ悩んでいる者どもはどうして眠られようか(スッタニパータ)
327 真理を楽しみ、真理を喜び、真理に安住し、真理の定めを知り、真理を損なうことばを口にするな。みごとに説かれた真理もとづいて暮らせ(スッタニパータ)
324 いかなる戒めを守り、いかなる行いをし、いかなる行為を増大せしめるならば、人は正しく安立し、また最上の目的を達し得るのであろうか(スッタニパータ)
323 ものごとを知って実践しつつ、真理を理解した人は、安楽を得るであろう(スッタニパータ)
315 王族もバラモンもならびに種姓によって守られている他の人々も、生まれを誇る論議を捨てて、欲望に支配されるに至った(スッタニパータ)
314 このように法が廃れたときに隷民と庶民との両者が分裂し、また諸々の王族がひろく分裂して仲違いし、妻はその夫を蔑むようになった(スッタニパータ)
283 自らは清き者となり、互いに思いやりをもって清らかな人々と共に住むようにせよ(スッタニパータ)
273 精霊よ、聞け。それらの煩悩がいかなる原因にもとづいて起るかを知る人々は、煩悩を除き去る(スッタニパータ)
272 それらは愛執から起り、自身から現れる。諸々の欲望に執着していることは、蔓草が林の中にはこびっているようなものである(スッタニパータ)
271 貪欲と嫌悪は自身から生ずる。好きと嫌いと身の毛のよだつこととは自身から生ずる。諸々の妄想は自身から生じて心を投げうつ、あたかもこどもらが鳥を投げ捨てるように(スッタニパータ)
269 これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆることについて幸福に達する(スッタニパータ)
268 世俗のことがらに触れてもその人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、これがこよなき幸せである(スッタニパータ)
267 修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎを体得すること、これがこよなき幸せである(スッタニパータ)
266 耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の<道の人>に会うこと、適当な時に理法についての教えを聞くこと、これがこよなき幸せである(スッタニパータ)
265 尊敬と謙遜と満足と感謝と、ときに教えを聞くこと、これがこよなき幸せである(スッタニパータ)
262 仕事に秩序あり混乱せぬこと、これがこよなき幸せである(スッタニパータ)
256 成果を望む人は、人間に相応した重荷を背負い、喜びを生ずる境地と賞讃を博する楽しみを修める(スッタニパータ)
250 理法のうちに安立し、まっすぐで柔和なことを楽しみ、執着を去り、あらゆる苦しみを捨てた賢者は見聞したことに汚されない(スッタニパータ)
232 彼が身体によって、ことばによって、または心の中で、たとい僅かなりとも悪い行為をなすならば、彼はそれを隠すことができない(スッタニパータ)
231 自身を実在とみなす見解と疑いと外面的な戒律・誓いという三つの事柄が少しでも存在するならば、彼が知見を成就するとともにそれらは捨てられれてしまう(スッタニパータ)
229 城門の外に立つ柱が地の中に打ち込まれていると四方からの風にも揺がないように、諸々の聖なる真理を観察して見る立派な人はこれに譬えられるべきである(スッタニパータ)
219 世間をよく理解して最高の真理を見、激流を超え海を渡ったこのような人、束縛を破って依存することなく煩悩の汚れのない人、諸々の賢者は彼を聖者であると知る(スッタニパータ)
216 自己を制して悪をなさず、若いときでも中年でも聖者は自己を制している。彼は他人に悩まされることなく、また何びとをも悩まさない(スッタニパータ)
213 独り歩み、怠ることのない聖者、非難と賞讃とに心を動かさず、音声に驚かない獅子のように、網に捉えられない風にように、水に汚されない蓮のように、他人に導かれることなく、他人を導く人(スッタニパータ)
212 智慧の力あり、戒めと誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、執着から脱して、荒れたところなく、煩悩の汚れのない人(スッタニパータ)
210 あらゆる執着の場所を知り終わってそのいずれをも欲することなく、貪りを離れ欲のない聖者は作為によって求めることがない(スッタニパータ)
207 親しみ慣れることから恐れが生じ、家の生活から汚れた塵が生ずる。親しみ慣れることもなく家の生活もないならば、これが実に聖者の悟りである(スッタニパータ)
203 <かの死んだ身もこの生きた身のごとくであった。この生きた身もかの死んだ身のごとくになるであろう>と、内面的にも外面的にも身体に対する欲を離れるべきである(スッタニパータ)
184 人は信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみを超え、智慧によって全く清らかとなる(スッタニパータ)
175 愛欲の想いを離れ、一切の束縛を超え、歓楽による生存を滅し尽くした人、彼は深海のうちに沈むことがない(スッタニパータ)
174 常に戒めを身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、よく気をつけている人こそが、渡り難い激流を渡り得る(スッタニパータ)
151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心づかいをしっかりとたもて(スッタニパータ)
149 あたかも母が己が独り子を命をかけても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても無量の慈しみのこころを起こすべし(スッタニパータ)
148 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない(スッタニパータ)
145 一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ(スッタニパータ)
144 足ることを知り、僅かの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感管が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の家で貪ることがない(スッタニパータ)
143 能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ(スッタニパータ)
136 生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる(スッタニパータ)
135 実際は尊敬さるべき人ではないのに聖者であると自称し、梵天を含む世界の盗賊である人、かれを賤しい人であると知れ(スッタニパータ)
132 自分をほめたたえ、他人を軽蔑し、みずからの慢心のために卑しくなった人、かれを賤しい人であると知れ(スッタニパータ)
131 この世で迷妄に覆われ、僅かの物が欲しくて事実でないことを語る人、かれを賤しい人であると知れ(スッタニパータ)
127 悪事を行っておきながら「誰も私のしたことを知らないように」と望み隠し事をする人、かれを賤しい人であると知れ(スッタニパータ)
126 相手の利益となることを問われたのに不利益を教え、隠し事をして語る人、かれを賤しい人であると知れ(スッタニパータ)
117 一度生れるものでも二度生れるものでも、この世で生きものを害し、生きものに対する憐れみのない人、かれを賤しい人であると知れ(スッタニパータ)
116 怒りやすく恨みを抱き、邪悪にして、見せかけで欺き、誤った見解を奉じ、たくらみのある人、かれを賤しい人であると知れ(スッタニパータ)
112 酒肉に荒み、財を浪費する女、またはこのような男に、実権を託すならば、これは破滅への門である(スッタニパータ)
110 青春を過ぎた男がティンバル果のように盛り上がった乳房のある若い女を誘き入れて、かの女についての嫉妬から夜も眠れられない、これは破滅への門である(スッタニパータ)
108 おのが妻に満足せず、遊女に交わり、他人の妻に交わる、これは破滅への門である(スッタニパータ)
106 女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るにしたがって得たものをその度ごとに失う人がいる、これは破滅への門である(スッタニパータ)
102 おびただしい富あり、黄金あり、食物ある人が、ひとりおいしいものを食べるならば、これは破滅への門である(スッタニパータ)
98 みずからは豊かで楽に暮らしているのに年老いて衰えた母や父を養わない人がいる、これは破滅への門である(スッタニパータ)
92 栄える人を識別することは易く、破滅を識別することも易い。理法を愛する人は栄え、理法を嫌う人は敗れる(スッタニパータ)
73 慈しみと平静と憐れみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間のすべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め(スッタニパータ)
71 音声に驚かない獅子のように網に捉えられない風のように水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め(スッタニパータ)
68 最高の目的を達成するために努力策励し、心が怯むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め(スッタニパータ)
67 以前に経験した楽しみと苦しみとをなげうち、快さと憂いとをなげうって、清らかな平静と安らいとを得て、犀の角のようにただ独り歩め(スッタニパータ)
61 「これは執着である。ここには楽しみは少く快い味わいも少くて苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め(スッタニパータ)
59 世の中の遊戯や娯楽や快楽に満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め(スッタニパータ)
56 貪ることなく詐ることなく渇望することなく見せかけで覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め(スッタニパータ)
53 寒さと暑さと、飢えと渇えと、風と太陽の熱と、虻と蛇と、これらすべてのものに打ち勝って、犀の角のようにただ独り歩め(スッタニパータ)
50 実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで心を撹乱する。欲望の対象にはこの患いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め(スッタニパータ)
42 四方のどこにでも趣き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦難に耐えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め(スッタニパータ)
40 仲間の中におれば休むにも立つにも行くにも旅するにも常に人に呼びかけられる。他人に従属しない独立自由を目指して、犀の角のようにただ独り歩め(スッタニパータ)
39 林の中で縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由を目指して、犀の角のようにただ独り歩め(スッタニパータ)
37 朋友・親友に憐れみをかけ心がほだされるとおのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め(スッタニパータ)
36 交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め(スッタニパータ)
34 実に人間の憂いは執着するもとのものである。執着するもとのもののない人は憂うることがない(スッタニパータ)
25 私は何びとの雇い人でもない。自ら得たものによって全世界を歩む(スッタニパータ)