意味と暮らしについて
インターネットの文化を研究している人が、90年代のインターネット上の出来事を掘り返す方法は、当時に発行された雑誌を探すしかないと言っていた。
「意味なんかないさ 暮らしがあるだけ」平成3年に生まれて27歳でその時代を終える僕にとって、この時代を総括するこれ以上の言葉は無いように思える。
平成の終わりに絶頂を極めた東京の人口はオリンピックの終わりと共に緩やかに減っていき、㋿が終わる頃には過密な満員電車は過去の景色となる。
自己承認欲求の増幅をはかる自動推薦アルゴリズムによって時間の流れは切り刻まれ、順番を入れ替えられ、知らない誰かの体験や記憶や感情が自分や友人のそれに混じってスピンオフエピソードのように挿入される。多くはそのまま忘れ去られて、数少ない例外が数日後、あるいは30年後、ふとした拍子に顔を出す。
意味は時間のX軸にY軸の物事がプロットされたときに生まれる。山の上流で雨が降って、その後で川の水かさが上がる。
朝起きた後、駅に向かう途中、行きの電車の中、トイレに行く途中、昼食をとりながら、帰りの電車の中、僕は数分、数時間、数日の過去を掘り返すために縦長の四角い板を何度も撫で上げて、タイムラインを下へ下へとさかのぼる、いや、さかくだる。
会社に向かう日比谷線の車窓から墓地が見下ろせる。小学校の1クラスほどの墓石が、担任の先生みたいに大きな仏像に向かって並んでいる。彼らはそこで、このさきずっと救われ続ける。
きょう、近所の中華料理屋(亀有の聚楽という店で、中国人のおばちゃん達がやっている。水餃子がとにかくうまいのでおすすめだ)で昼飯を食っていた。壁に掛けられた薄型(この時代にしてはという意味だが)のテレビでは時代劇が流れていた。時代劇はすがすがしいほどに子供の頃にテレビで流れていた時代劇のままだった。
過去は変化しない。変化しないものを求めて、人は絵画、彫刻、演劇に惹かれてきたんだと思う。僕はどちらかというと動くものの方が好きだけど、別に動かそうとしなくたって作られた全てのものは過去に向かって動いていって、古びて、枯れてしまうということに気付いてから、重くて動かないものに少しだけ興味が湧いてきた。
レンタルサーバーは次々とホスティングをやめてしまって、Web上に書き込まれた膨大な情報は素っ気ない404ページを残して跡形もなく消えてしまう。雑誌として発行されて誰かの押し入れにしまわれた情報をサルベージするしかないのだ。
だから、こうやって紙に文字を印刷してバラ撒こうという気になってきているのかもしれない。Unicodeで未来の空白に向けた絶対参照を仕込んでいる。
6年前に当時の恋人とスーパーマーケットの前で宝くじを買いながら、もし1億円当たったら何を買おうと話していた。エアコンしか思い浮かばなかった。その時は広島の田舎の8畳で家賃1万8千円の長屋みたいな共同アパートに住んでいて、銀行の残高は4桁と6桁の間を行ったり来たりしていたけど、PCを触ってれば退屈しないし、特に暮らしに困ることはなかった。いや、本当を言うと6桁から4桁に一気に移行したときは頭の働きが鈍ってお金のことしか考えられなかった。ともかく、木造建築の隙間風の寒さだけがどうにも耐えがたかった。だからそのときは1億円あったらエアコンが欲しかった。そのほかに特に思いつくようなものはなかった。今は東京に住んでいて、半年ほど前にエアコンを買った。その恋人とはこの間結婚した。広島のアパートは住む人がいなくなって、大家さんのおばあちゃんも亡くなったので、閉じてしまったそうだ。
ふと気付いて周りを見渡すと、満員の乗客のうち全員が四角い板を撫でている。5年前には8割ぐらいが四角い板を撫でていたが、ついに全員が四角い板を撫でているのを見ることができた。日本の平成後期から㋿の初頭にかけて見られる、極めて限定的な光景に立ち会っている。
さようなら平成、いままで意味をありがとう。
時間をさかのぼる、というように、日本では時間が川のように僕らを乗せて流れている。後方に流れ去った景色を見るために船を下りて川を遡る。
幼稚園児だったか小学生だったかの頃、ものの動きは連続的に流れるものではなくてアニメやパラパラマンガみたいに非連続的な瞬間の切り替わりによって動いたように見えるものだと思っていた。手や身体を動かして、漫画のコマとコマの間で何が起こっているのかを覗くように、この位置と次の位置の間にある瞬間をどうにか覗き込むことがことができないかと奮闘していた
1億円当たったら欲しいものは、いよいよ何もなくなってしまった。
友達の家のPCで、小学生の僕らを熱中させたおもしろフラッシュ倉庫はがらんどうになっていた。倉庫と言いながらもその実体はリンク集で、最初から何も格納されてはいなかったのだ。参照は過去の空白を向いたままだ。
それは底知れない空虚のようにも見える。でもそれが次の元号を生きる僕たちの基本ルールなんだ。陸に上がってしまった両生類みたいに、ニヒリズムでも諦念でもなく、腹をくくってここから何かをはじめるしかない。
そのたび意識は分断される、というより、分断されることを構造として含んだ意識が形成されているという感覚がある。
アフリカのある地域においては、時間は自分の後方から前方に向かって流れていく。未来は後ろにあるから見えず、過去は前方にあるから少しずつ遠ざかって見えなくなる。
最新の拡張現実技術、12時間だけの大流行、コピーされた8年前のおもしろツイート、育児漫画、政治家への怒り、猫動画。時間の流れがごちゃまぜになって少しずつ意味が解体されているのを体感している。未来と過去をあべこべに参照しながらシャッフル航法で時空を移動していく。意味がなくなって、ただ、暮らしだけがあることがわかる。
依然として人生はゲームだ。意味がないゲームだ。意味がないから、勝者も敗者もいないし、敵と味方の区別もない。作りかけのゲームみたいに、クリアもゲームオーバーもない。
中学生の僕が数百時間を費やして書いたブログはそろそろ消えてなくなる頃だろう。
時代が終わるのを、僕は四角い板を撫でて過去と現在を行ったり来たりしながら迎える。今はそういうのがあるのだ。