『進撃の巨人』
周囲が面白いというので読んでみた。
友人いわく、とりあえず第10巻まで読めとのこと。
つい調子にのって17巻まで読んだので、現時点の感想を書いていく。
無料キャンペーンやってたので既刊はすべて読了。
なるほど前評判のとおり、たしかにとても面白い。
絵柄はなかなか好き。岩明均を思わせる、けして上手いわけではないがなぜかリアルな描写が刺さる。 キャラクターやセリフまわしも荒削りではあるが、とくに気になるところはなく、心地よく読める。
さらに、本作の顔ともいうべき世界観や設定の面白さは、同ジャンルの他作品と比べるまでもなく、際立って秀逸。
伏線もいろいろ仕込まれており、謎解きとしても面白く読める。
話題になるのも頷ける作品である。
しかし、率直に言って、私の好みではなかった。
読んでいる最中からそのような感情は持っていたのだが、こんなに面白いことは認めているのに、なぜなのか分からずにいた。最近ようやく整理がついたので書いておきたいと思う。
まず、世界観や設定を(うまく)小出しにするような物語の進め方について。
これをもって「面白い」とすることに、私は抵抗がある。
私はミステリーもどんでん返しも大好物でもあり、情報の表裏または虚実の交錯を楽しむことに異論があるわけではない。
巨人のいる世界観をあれだけ厳密に具体的に構築した発想と、それを物語に仕上げたは大変すばらしい。
しかし、それが面白い作品の十分条件ではないということ。少なくとも本作における物語の展開手法が、その世界観に関する情報の段階的な露出に終始しているように、私には感じられたからである。
もう1点、世界観について書いておくと、読者をどの立ち位置に置くか、という話もある。本作の序盤では幕間として「現在公開可能な情報」が説明されていた。これは、物語は物語で楽しみつつ、並行して読者にも謎解きを楽しんでもらうことを意図したものと考えられる。これはミステリーなんかで見かける手法でもあり、私はここの読者誘導の設計、つまり読者の推理をいかに裏切ってくれるのか、に期待していた。
しかし、いつからかそのような情報の公開はなくなった。読者は、「外」から物語世界を眺める立場であったはずが、いつのまにか物語の中に放り込まれてしまったのだ。いつ巨人が現れるかわからない不安に怯えながら、キャラクターと同じ視点で同じ情報を得るように、方針転換されてしまったのだ。それを顕著に感じたのは、深夜の古城で巨人たちに囲まれたとき。ここから物語がさらに進む、というところである。「謎解き、どこ行った!?」と。
私が冒頭で「好みではない」と書いたのは、この点における違和感があったため、と(最近)気づいた。ようやくスッキリ。
別の視点から言えば、本作の読者は、作中の巨人のいる世界の人間と同じで、いつ巨人が現れるかわからないまま読み進めることを強いられる。必ずしも読者にメタ的な視点を与えることが必要とは思わないし、巨人の唐突な登場とそのときの絶望感が本作の大きな魅力でもあるが、一度巨人が現れればその対応(読者はそれを読むこと)に回らざるをえないのだ。
そして、それまで考察していたことはさっぱり忘れ去られる。少なくとも人間が食われているシーンを読みながら別のことを考える余裕はそうそうない。そして大抵は、キャラクターが物語の核心的なことを話し始めた途端、巨人が登場するのである。
状況をコントロールできる気がまったくしないという方向に、読者を振り回すことにしたわけだ。
上で世界観の話ばかりしてしまったが、もちろん本作には人間の感情や思考も描かれる。これがまた議論を呼ぶ表現かと思う。
まず私の理解では、この世界の人間たちは本能的に動いている。まるで彼らの天敵である巨人たちのように。少なくとも私にはそう読めた。
巨人のいる世界の人類は、マズローの欲求段階説でいうところの最下層(生命の安全)が満たされていないので、高度な思考をすることが難しいのは、当然の現象なのかもしれない。 とくにエレンの、人の話の聞かなさ。
主人公なら、しかも巨人に変身するなら、人間の姿のときはもう少し落ち着きたまえ。
エレンに限らず、街の住民も軍人も政治家も、彼らのほとんどは深く考えずに行動しているように思う。これは巨人に対する戦略・戦術の話ではない。巨人の襲撃という悲劇が心を支配してしまっており、冷静な思考のためにロックが掛かってしまっているのである。最もまともに頭を働かせているのはピクシス大佐くらいではなかったか。
世界観をかなり緻密に構成しておき、その上で人間がどう本能的に動くか、あるいは冷静に頭を働かせるのか。もし本作がまさにそこを描いたもの、ということであれば、その意図はかなり的確に表現されているように思う。本作は非常時に人間がどのように行動するかを知る上での重要な事例とも言える。
本作のキーワードのひとつに「知性」が挙げられるが、それは巨人に限らず人間側にも当てはまることなのだ。
結局「知性」というのは、「一発で正解を選ぶ能力」ではなくて、「間違っていたときにそれを感じとって修正できる性質」のことを指すんだと思います。
今後の展開に対する私の期待のうち最も大きいのは、都市を囲む壁の建造にあたっての謎とその解明。
壁の中に埋まっているものとその背景だが、昔の人々はそれを踏まえて都市設計をしたのであろうし、そこには複雑な裏事情と高度な知性も一緒に埋まっている可能性が高い。
(後日)その伏線はすべて回収されるわけではない。たとえば「鎧の巨人」の正体がわかったときのエピソードは1つの節目であるが、そこで回収されるべき謎が回収されずに残っている。★例
最後に、残酷描写について。
私は、一般的に残酷描写を問題視していない(表現の1つとして認めている)し、感覚的に嫌いでもないが、本作におけるそれが面白いとは私は思えない。
なぜなら、本作における残酷描写は、巨人の異常性を示し、かつ、その生態の謎を解くヒントになるからこそ採用されたものと私は捉えている。そして、それはしっかりと機能している。最新巻まで読んだ今となっては、当初の想像以上にしっかりと意味のあるものとなっている。
しかし、マンガ表現としての残酷描写は、本作の主目的ではない。『ヒストリエ』でのリアルな戦場描写とは意味が違うし、血湧き肉躍るの王道『ベルセルク』とも違う。
一般的に残酷描写は肉体を即物的に描くことが多く(マミるようなのは別ジャンル)生物しての根源的な真実を映し出すことができる。だからおもしろいし、だから取扱注意なのである。そして、それは同時に、人間のもう一つの特性、深く思考することへのアンチテーゼでもある。上でも書いた「知性」だ。
しかし、本作の表現は、そのどちらでもないように思える。というか、私には中途半端な作品に思える。どのような分類・分析が妥当か、ぜひ教えてほしい。
この段落は全巻読むまで書かないほうが良いかも、とも思ったが、私の読んだ17巻の発売時点でも既に一定の人気が出ていたことを考えれば、あながち見当違いでもないように思う。
好きなキャラクターは、当初はピクシス司令。
最新巻まで読み終えた現在では、推しはハンジ。
これだけいろいろ考えることができる作品も珍しいし、まだ消化しきれていない部分も多い。おそらくブログにはもう書かないが、そういう意味ではとても楽しめる作品であり、今後も追っていきたいと思う。