136-20190611 これは書評ではなく...:かーそる 2019年5月号
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これはある意味ハードな本かもしれないなぁ、と思いながら読みました。
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この本は、なんと言えばいいのだろう。
Amazonの紹介文では、知的生産の技術で盛り上がる雑誌「かーそる」の第三号、となっているので、知的生産な本なのかと思うと、なにか違う。「本を見つめる」と言いながら、表紙の猫は本を見つめているように見えないし、この本も読書術を真正面に取り上げた本には見えない(そのような内容もあるのですが)。さて、と思いながら、自分自身と本との関わりを思いながら読んでいました。
ところで、このブログにも多くの本が登場します。ただ、これは私が読書家だからではありません。また、このブログは、いわゆる「書評ブログ」ではありません。というのも、書評をしようと思ってこのブログを書いているわけではないからです。4年前の今頃、このブログを始めたときに、こう書きました。
目的地は、「明るい未来」。
今でも曖昧模糊としたこの目的地を目指して、いろいろと考える際、私にとって考える材料にしやすかったのが、たまたま本だった、といった方がいい。ネタは、ブログでもSNSの一節でも構わない。実際そのようなエントリも少数ながらあります。でも本が結果的に多数を占めるようになった理由は、なにかあったのだろうと思います。
ありていに言えば、単純に本は「長い」からです。ある主題をもとにした長い文章。その中に、私の興味を引く一節が眠っている。本は、それをなんとなく探す旅のようなものかもしれません。
まず、なんとなく私の生活なり問題意識に少しでも引っかかりそうな本を、私は選びます。申し訳ないけど、有限な時間の中で、まるで接点がなさそうな本を選ぶ勇気は、ない。もちろんブログネタとは関係なく単純に日常からの「エスケープ」を目的に読む小説やノンフィクションもありますが、それが、期せずしてブログネタになることもある。なんでだろう?
それは、私の日常や思考回路とどこかでつながるポイントがあること、そして、その先に導く「なにか」があること。この2点は、自分の中でも特に重要なポイントだと思っていて、それがみつかった時は、どういうわけか「やった!」と思う。
最初からアンテナを高くして読むのではなく、何となく読んでいて、ハッと気づくことがある。「あー、楽しかった。この本はこれだけで満足(^^)」で終わることもあるし、逆に気負って読み始めて、気負いすぎて諦めたこともある。そういういろんな体験がすべて読書なのかもしれません。
そういう体験が知的生産と関係があるのかどうかはよくわからないけど、自分の中で何らかの印象や想いを残していく。その一部をブログに書き残す。そのような本との関係は「あり」なんだ、ということを、今回の「かーそる」を読んでて思いました。
要は、背中を押してくれたのです。これからも、こんなことを続けていいのだ、ということを。