116-20180710 他者を許すこと、そのために伝えること
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最近、私の家庭で「こうであらねばならぬ」という固定概念と戦わなければならない事態が発生しました。まず、自分や家族が苦しんで、なんとか折り合いをつける。ところが、学校がまだ折り合いがついてないようで、それを説得にかかる。なかなかしんどいです。
そんな中で、こんな記事をネットでみつけました。
上馬キリスト教会
@kamiumach
イエス半端ないって。あいつ半端ないって。死んでも3日目によみがえるもん。そんなんできひんやん、普通。
こういうツイートもあれば、真面目な聖書のツイートもしている東京・世田谷の教会のお話。
固定観念に立ち向かうのは、なかなかしんどいです。まず自分の中でいろいろ考えて、なんとか打ち破る。それだけでなく、態度を変えると、今度は他人から批判を受ける、言い方を変えると「裁きを受ける」ことがほぼセットになりがちです。
実際、教会のなかにはこういった律法主義的な考え方(注:「こうあらねばならぬ」という考え方)をするところもあって、「あなたは毎週教会に来ないので不信仰です」とか「教会に対してもっと奉仕をせねばなりません」とか言われることもあるようです。そうやってお互いに裁きあうことで、「出来ていない自分」を強く感じ、自分で自分を責めてしまうんですね。教会内で傷ついてしまう人も少なくありません。
このように実際に「裁き」を受けてしまう場合、さらには実際に受ける前にその裁きを自分で想定して萎縮してしまう場合もあるでしょう。それに対して、この教会の神父さんはこう説きます。
そもそも、神様は「赦す神」であって「裁く神」ではない。他者を赦す、というのがキリスト教の中でも根本の概念なんです。
他者を許す、というのは、言ってみれば「変化を受け入れる」ことなんだろうと思います。それが受け入れられないと「裁き」にかかる。こっちがいい、そっちはダメ。つい二元論的な考えになって、空気が殺伐とする。年を追う毎にその傾向が世間で強まっているように感じるのはなぜなんだろう、という気がしますが、それはどこかで止めないといけない。
もう一つは「異見」を受け入れることなんだろうと思います。異見を受け入れることは、単純に疲れます。場合によっては自己否定につながりかねませんから、どうしても構えてしまう。そこで、受け入れてもらうためには、それこそ上記ツイートのように何らかのオブラートのようなもの、あるいは「搦め手」のようなものが必要かもしれません。そして、それは「日本の1%しかいない」というクリスチャンのようなマイノリティにとっては、結構クリティカルな問題なのかもしれません。
私もマイノリティのひとりとして、彼らの言葉に、伝え方に、耳を傾けたいと思います。
photo by Saffron Blaze from Wikimedia Commons