078-20170124 死すべき定め、との闘い(1)
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「死すべき定めとの闘いは、自分の人生の一貫性を守る闘いである」
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この本の著者は、以前取り上げたチェックリストの本 と同じ筆者ですが、この本では、本業である外科医の立場で、今を生きる人々の死生観を問い直します。今まさに余命宣告を受けている人を持つ家族、認知症の方への介護で多大な苦労を強いられている家族、いや、そのような事態になる前にこそ読むべき本である、と言えます。 情報化社会により、あらゆる環境が急激に変化する一方、医学の進歩は別の変化を人間にもたらしました。すごく乱暴に言ってしまうと「死にかけている期間」が長くなったのです。
昔は病魔に襲われてから死生観など深く考える間もなく死んでしまったのに、今は違う。自分でやりたいことができなくなってから完全に死んでしまうまでの期間を長くすることができてしまうために、足元の治療方針から家族の死生観まで、ありとあらゆることを考える時間ができてしまった。さあ、どうする?
この難問に立ち向かうため、筆者は何人もの死に至った方々の具体例を上げる一方で、多くの客観的な統計、アメリカにおける介護・医療現場の現状、さらには心理学(マズローの欲求5段階説やカーネマンの「ファスト&スロー」 )まで動員して、読む者の死生観を問いかけます。これらが重層的に語られるにも関わらず、筋立てがあまり混乱しなかったのは、筆者のストーリーテリングのうまさはもちろん、「死」という不可避的な結末が見えているからかもしれません。 その上で、幸せな人生を終わり方のために、最も必要なものは、医学的な情報ではない、と筆者は指摘します。このエントリーの冒頭で引用した一文の近くに、このような文があります。
人が求めるものは、自分自身のストーリーの著者でありつづけることだ。このストーリーは常に変わり続ける。(略)しかし、何が起ころうとも自分の性格や忠誠と一致するようなものになるように人生を形作れる自由を保ちたいと願う。
自分自身のストーリーの著者。これは重い言葉だと思います。今、どういう薬を飲むか?どういう治療を受けるか?ではない。今、自分は何がしたいのか?何がしたくないのか?ここに至るまでの自分の来し方に思いを馳せて、ようやくたどり着いた「欲求」。これを自分自身はもちろんのこと、家族も、医師も、わかっていなければならない。
とても難しいように思えますが、そうでもないかもしれません。単純に、前もって話しておけばいいのです。アメリカのある町で、「終わり方」について前もって話し合う人が増えただけでアメリカの平均値に比べて寿命が長い、という事実があるのだそうです。
ただ、私を含めて、たいていの人はそこまで思いがめぐらない。「生きているのが当たり前」と思ってしまうからでしょう。映画の言葉じゃないけれど「始まりがあるものには全て終わりがある」のです。常にではなくても、心の片隅にでも、終わり方について考えておいたほうがいいのかもしれません。
そして、医療的なこと(例えば延命処置をするかどうか)だけではなく「何をしたいか?何をしたくないか?」ということ、それも今だけではなく、時々アップデートすること。これが大切なのかもしれません。
この項、続きます。