077-20170110 「知的生産」と家族
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このブログは、「知的生産」とは関係のないところにあるものだ、と思っていました。
この雑誌を読むまでは。
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この雑誌は、知的生産にまつわる雑誌。ブログを書くすべての人に、その書く意味を問い直す雑誌、と言ってもいいかもしれません。
この創刊号のベースとなっている「知的生産の技術」 は、私も読んだことがあります。ところが、この本は学者さんが、論文を書くために、様々な知の技法を駆使して、情報を処理していく様を描いたもの、と認識していました。 ネタ元の大半が普通の書籍でしかなく、下書きにはsimplenote しか使っていないこのブログとは全く縁のないもの、と勘違いしていました。 ところが、それは大間違いである、と 倉下編集長 が指摘します。 「知的生産の技術」は、市民に開かれたものになるはずでした。「知的生産の技術」の未来は、生活の技術として位置づけられていたのです。でもそれは、脇道へと逸れてしまいました。悲しいけれども、それが現状の姿です。
ここでハッとしました。「知的生産」は学術的なことにも、仕事術のようなことにも、限定されるものではない。「生活」というキーワードが出てきて、一気にこの雑誌への見方が変わりました。
その倉下編集長の問題提起に続く、多彩な執筆陣の文章の全てに感想を書きたいところですが、いっきさん のこの一文が、最も印象に残りました。 あまりに諸事雑事に振り回されて、自分の一貫性がたもてなくなりそうだから、
知的生産をする。
それでいいではないか。
そしてその痛みを、人と分かち合えばいい。
この一文を読んで、正直ホッとしたというか、救われた気持ちになりました。今思えば、私がブログを始めた本当の理由はここにあったから。
そして、この雑誌を読みながら、私が思い浮かんだキーワードが「家族」でした。そもそも、このブログを始める直接的なきっかけは、妻のADHDにありました。このブログにおいて、ADHDそのものへの言及はあまり多くはないですが、そういう妻を持って、そういう妻と共に子育てをする私の目線が、全てのエントリーの根底にあります。
タイトルは、もちろん「知的生産の技術」の下手な文字りです。でも、私がブログを書く理由は、案外この一言で説明できるかもしれない、と思いはじめました。その言葉にふさわしい内容にすべく、これからも精進いたします。
今年もよろしくお願いします。