035-20150816 マイノリティーの中の人、向き合う人
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この本を読みましたが、難しかった。自分の中で消化するのに、時間がかかりました。
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で、自分に関係しそうな二つのキーワードをなんとか見つけました。一つ目は、マイノリティ。
例えば日本国民全体対して、ある条件を当てはめたときに、必ず「マイノリティー」が設定されます。で、そのマイノリティーに対して、このような3分類を思いつきました。
中の人
向き合う人
無関心の人
「中の人」は、文字通り該当する人。該当しないのに「中の人」になりたがる人もいますが。「向き合う人」とは、意図するしないとに関わらず、中の人に向き合う(あるいはそうせざるを得ない)立場の人を指します。単に非難するだけの人は「向き合う」とは言えないかな。無関心とは違うと思うけど。
例えば、私と妻は、小さい子供を持つ親という意味では「中の人」です。私はここではマイノリティーそのものです。妻の喜びは、私の喜びでもあります。
一方、私はADHD/神経症については「向き合う人」です。妻のADHD/神経症に対して否応なく向き合わければなりません。妻の課題は私の課題でもあるのですが、私自身はこの症状を持っているわけではないので基本的に「中の人」にはなり得ません。
で、この3分類は明確に区分があるわけではありませんが、「向き合う人」はあまり注目されてないのではないか、場合によっては「中の人」そのものよりもさらに少ないのではないかと思います。ここで、前回の記事とちょっとつながるのですが、結構孤独で大変なんです。向き合う立場は。
ただし、やむなくとは言え、このような立場を得たことはこれからの人生で貴重な体験です。冷静さを失ってしまうと簡単に「中の人」(佐々木さんの言うマイノリティー憑依)になってしまう。そこで冷静さを失うことなく、マイノリティーの立場を理解することは、とても大事なような気がします。そもそもADHDの人は(身体的特徴として)冷静さを持つことが難しい人ですからなおさらです。
私はADHD/神経症の立場の人を理解するために、本人のブログだったり、(妻ではなく)子供さんがADHDである親御さんのブログを拝読したりしています。まだまだ自分として確固たる意見を持っている訳ではありません。ただ、マイノリティーに向き合う人、という視点はブログ、というよりライフワーク的なネタになりそうな気がしています。